眩しさに目を細めた先にだって、見えるものがあるだろうと言う
05
インスタントのコーヒーを淹れて、俺たちは無言で飲んでいた。俺の心臓はだいぶ落ち着いて、今はとても穏やかな気分だった。
「いると思わなかったって言うけど、下の倉庫の鍵は開けてただろ?」
そう、いくら学校の敷地内だからといって、夜中に寮に外からは侵入できないことになっている。でも、どこにでも抜け道はあるもので、一階の倉庫になっている部屋の窓を開けておけば簡単に入って来れるのだ。その部屋の鍵がまた、壊れたままなんだそうだ。(と、俺は浅木から教わった)
「う……まあ、習慣と言うか」
俺がそう言うと、浅木はふーん、と俺を見た。思わず、目を逸らしてしまう。
「まあ、あそこはいつも開いてるに等しいからな。でも、部屋の鍵は閉めろよ」
浅木はそう言って、コーヒーをこくりと飲んだ。寮の部屋の鍵は結構みんな開けっ放しだろ、と俺が言うと、そうだけど、と苦笑しながら立ち上がって窓際に近寄った。俺の部屋は変形で、斜めになった窓際は全面ガラス張りでかなり開放感がある。
俺は窓際のソファーに座っていて、ふらりと立ち上がった浅木を見上げた。背が高いのにひょろりとした印象はなくて、結構綺麗に筋肉がついていそうだ。
「まだ眠れないんだな」
ふと視線が合って、じっと見つめていたことに気付かれたかと俺は焦った。その俺を面白そうに見ていた浅木の視線が、ふいっとキッチンのテーブルに置かれた薬の袋に移る。俺はそれをちらりと見て、自嘲気味に笑った。
「薬に頼るなんて、情けないよな。自分のことなのにどうにも出来なくて、頭来る」
それでも、前よりは良くなった。以前なら、薬が効くまでの間にぐるぐる考えて、怯えていた。でも今は、浅木と話して、落ち着いて、そのことを考えながら眠るから、楽だ。
「情けなくなんかないだろ。人間の三大欲求なんてほとんど本能みたいなものだろ?その一つを妨げるなんて、人間の精神構造の深さと複雑さを垣間見るようでちょっとすごいと思う」
すごいって……。
俺はその浅木の口調に思わず笑った。つられたように、浅木も笑う。
「さっき、泣いてるかと思った」
笑ったままそう言われて、俺は目を伏せた。泣いてない。でも、泣きそう、だったんだよ。
「血ぃ出るぞ」
ふと触れられて、俺は自分が唇をきつく噛んでいることに気づいた。いつのまにか近寄った浅木の指が触れたのは一瞬で、顔を上げたときには、少し困ったような顔が俺を見下ろしていた。
「泣いてないよ」
俺が呟くと、浅木がふんわりと笑った。
「泣けばいいのに」
「簡単に言うんだな」
「簡単、だろ?」
そっと、頭を撫でられる。その優しい感触に、俺は子供になった気分だ。そう言ったら、俺たちはまだまだ子供だろ、と言われた。
「俺は嫌だよ。こんな弱い俺は嫌だ」
俯いてそう言うと、少しだけ撫でる手に力が入った。
「強いだけの奴なんて、いないだろ。弱いところがあるから強くなれるって、おまえなら知ってるだろう」
宥めるのではなく、自分に言い聞かせるような浅木の声だった。
求めた、と思う。
その温かい手とか、優しい目とか、ぬくもり、とか。
顔を上げて、その困ったような笑い顔を見た俺の目から、ぱたぱたと涙がこぼれた。止めようがなくて、でも止めたくて、ぐっと唇をかみ締めようとしたら、ぐいっと抱きとめられた。立ちあがった浅木の胸の下あたりに、顔を押し付けられる。それで俺はどうしようもなくなって、そこに顔を埋めて泣いた。
何も言わずに、俺の髪を撫でつづける浅木の手のぬくもりがひどく優しくて、俺はなかなか泣きやめなかった。
温かい、と思って目を開けたら、目の前に浅木の顔があって、俺は思わず叫びそうになったのをようやく堪えた。切れ長の目が閉じていて、整った顔は眠っていてもかっこいいものだと感心したりした。それから、昨晩のことをゆっくり思い出して、俺は羞恥に顔から火が出るかと思った。
泣いたよな、俺。子供みたいに。
「おはよう」
穴があったら入りたいっと思った俺の耳に、柔らかい声が聞こえて、俺は慌てて飛び起きた。その背が、壁にごんっとぶつかる。当たり前だ。狭いベッドに男二人……。
ふとそこまで思って、かあっと頭に血が上ったのがわかる。落ち着けー。
くすくすと笑い声が聞こえて下を見ると、まだ寝転がったままの浅木が、俺の様子を見て苦笑していた。
「えーと……さ」
「昨日泣き疲れたおまえが眠っちゃってさ、部屋に戻ろうかとも思ったんだけど、担ぎ上げて、ベッドまで運んでも起きないし、きゅって抱きついてるおまえを離すのも忍びなくて」
最後まで言わせずに、俺は枕を奴の顔に押し付けた。からかってるんだろ、肩が震えてるよ、こいつ。
でも、ベッドまで運ばれて起きなかったのは確かにすごい。それに、泣き疲れて、って言うのは本当だろうなあ……。
俺はそこでため息をつこうとして、ふと思った。ってことは、俺は薬を飲まずに寝たってことか?そうだよな。昨晩は飲む前に窓を開けて、浅木がいるのを見て、それから浅木が部屋に来たんだ。
「……っおいっ。苦しいだろうがっ」
浅木がようやく起き上がって、俺になにやら抗議しているが、そんなこと知ったことじゃない。
「?栖坂?寝ぼけてる……わけじゃないよな?大丈夫か?」
俺は浅木をぼんやりと見た。
薬を飲まずに寝たのって何日ぶりだ?
「すーさか」
しかも、夢を見なかった。
「俺もう行くぞ。着替えなきゃならないし」
「え?あ、うん」
びっくりだ。なんか、すごい。
「あー……栖坂」
珍しく浅木が言い淀んで、俺はようやく意識を浅木に移した。
「なに?」
「泣くのはさ、俺の前だけにしとけよ」
「……っばかかっ。俺はもう誰の前でも泣かねーよっ」
思わず枕を投げつけると、浅木は笑いながらドアを閉めて、枕がドアにぶつかってぽすんと音を立てた。
恥ずかしい。すごーく恥ずかしかった。
でも。
孤高の狼は、温かかった。
誓って言うが、俺は忘れていたわけではない。でも、自分のことで本当に一杯一杯だったんだ。
「君はなかなかの猛獣使いなんだねえ」
帰りがけに指でちょいちょいと呼ばれて、俺は最初見なかったことにした。でももちろん、それで諦める相手じゃない。一枚の写真を見せられて、結局は報道部室に連れて来られた。正確には、その奥にある部長室に。
「猛獣使い?」
「表の朱雀といい、孤高の狼といい」
ちなみに、表の朱雀とは代々生徒会長の呼び名だそうだ。ついでに言えば、俺の目の前にいるこの報道部長は文化部統括で東の青竜、運動部統括が西の白虎、で、俺にはよくわからない生徒総代の裏の玄武の四人が九重の四神、または四獣なんだそうだ。
「……東の青竜といい」
付け加えるようにそう笑った宮古に、俺は思い切り眉間にしわを寄せた。
「俺はあんたを馴らした覚えはないぜ」
もちろん、前の二人もだけど。
「やだなあ。俺は結構メロメロなんだけど。君のあのパンチに」
メロメロって……あんた。それにそれは皮肉か?
「スクープを教えるくらいにね」
宮古がそう言って写真を人差し指と中指にはさんで目の前にぶら下げたから、俺は反射的にそれを掻っ攫おうとした。が、くるりと手首を回される。
「ネガじゃないよ。それに、君は写ってない」
「わかってます。でも、俺は周りが騒がしくなるのは嫌なんだ」
写っているのは、浅木。ただし、今日の朝、俺の部屋から出て行く浅木だ。笑ってるし。
それにしても浅木が出て行ったのは朝六時ぐらいだ。ご苦労なこって。
「君の周り……ね」
「何が仰りたいんです?」
宮古は俺には答えずに、コーヒー飲む?と聞いてきた。俺が反応しないと、肩をすくめて隣の部屋に行ってコーヒーを二つ持ってきた。俺は覚悟を決めて、コーヒーのお礼を言って、革張りのソファーに身を沈めた。宮古がそれを見て、俺の前に座る。
「で、俺にそのスクープを教えて宮古先輩にはどんな得が?」
「取り引きをしようと思って」
「取り引き?」
「俺は君のことが知りたい。そうしたら、このスクープは流さないでおこう」
俺のこと?バカバカしい。そんなん知ってどうすんだ。大体、もう調べただろどうせ。
「正確に言えば、どうして眠れないのか、とか。あの平手打ちはなんで正当防衛なのか、とか」
宮古のその言葉に、俺は顔が不機嫌になっていくのがわかった。とてもプライベートな話だ、それは。
「まあ、それは俺の純粋な興味で、無理に聞こうとは思わないけど。写真を撮る許可は貰いたい」
「許可?」
俺は眉を潜めた。確かに撮るなとは言ったけど、裏校則があるから撮られたら取り返せって言ったのは自分だろう。それに、そんな人の言うことを素直に聞く奴じゃないだろうが。俺のその顔に、宮古が苦笑した。
「厳しいお達しがあってね。君の写真は撮るな、顔のことは何も言うなって言う」
ほーお。
「愛されてるよなあ?」
宮古はそう楽しそうに笑った。が、俺は面白くない。どうせまた八潮だろう。全く。過保護だ。
「そんなの、報道部長ともあろう方が怖がってどうするんです?」
俺の言葉に、宮古が一瞬あっけに取られた。
「……君の従兄弟殿はそれはそれは怖いよ?」
「知ってます。でも、そう言うお達しは、他の人には出ていないんでしょう?」
「それは、そうだけど」
「それなら、あいつも強く出られないことをわかって言ってますよ」
俺がそう笑うと、宮古が長く息を吐きながら、ソファーに身体をゆったりと預けた。
「ますます興味深い……」
呟きながら、俺をじっと見た。それから、徐に笑う。
「……でもこれじゃあ、取り引きにならないじゃないか」
「誰が取り引きするって言いました?」
俺が言おうと思っていたせりふを、誰かに横取りされた。その声の主は、さらに俺の肩に両手を乗せている。俺が怒り出さなかったのは、それが誰だかすぐにわかったから。
驚くことばっかりだ。こんな風に後ろから手を乗せられて、俺はそれでもこの手が怖くない。
「おや、珍しい」
「話を持ちかける相手が違うんじゃないですか?」
頭上の声は、ちょっとばかり怒っている。
「じゃあ……このスクープを止めておいたら、おまえのインタビューでも貰えるってか?」
「取り引きになってるんですか、それ」
「もちろん。おまえはこれでも人気があるんだよ。おまえ滅多にしゃべらないからな……インタビューなんてしたら売れるよ?」
九重月報は一部百円ほどで売っていて、俺は一体誰が買うのだろうと思っていたが、なかなかの売れ筋らしい。それに、悔しいことに浅木はかっこいい。
「まあ、どちらにしろ、俺はそれが流れても構いませんし」
その言葉に、俺はびっくりして上を見た。高い位置にある浅木の顔が、気づいてにっこりと笑う。それに、宮古が唖然とした。なんて間抜けな顔してるんだ、先輩。珍しいもん見た、カメラ持ってればよかった、なんて言ってるよ。でも宮古はすぐに顔を元に戻して―――軽薄そうな顔にして―――肩をすくめた。
「おまえはそう言うと思ったよ。おまえがこんなに簡単に写真撮らせるわけないし」
どういうことだ?なんで?孤高の狼が騒ぎを好むはずない。
「これでいらない虫が払えるなら、ね」
「いらない虫?」
俺が上をまた見上げてぽかんとした顔をしているから、浅木が苦笑したのがわかった。俺は慌てて口を閉じて、呆れた顔をしている宮古の方を見た。って、何に呆れてるんだ?
「そう言われると、何かこれ流すのも悔しいよな」
「どうぞお好きに。でも、こいつの写真は撮らせませんよ」
浅木はそう言うと、俺の腕を取って、行こうと促した。俺はなんだかわからないまま、引っ張られるように連れて行かれてしまった。
「そりゃあ楽しみだ。受けて立ちましょう」
背中で、そう言う宮古の楽しそうな声を聞いた。
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