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風の匂い
05
 保育園で俺が担当しているのは年長クラスで、生意気盛りのガキばっかりだ。それが全力でぶつかってくることを考えると、女の先生では体力が持たないのもわかる気がする。
「何ヘタばってんの、真己先生」
 明るい声が聞こえて、振り返ると、香奈が腕にまだ赤ん坊の尚人を抱いて笑っていた。
 広い廊下はガラス戸がついているが、暑くなってきた今は開け放していることも多い。そこに俺は腰掛けて、ぼんやりと外を見ていた。今はお昼寝の時間で、子供達は静かに眠っている。
 元気な子供も好きだが、俺はこの穏やかで優しい昼寝の時間を気に入っていた。安心しきったように、あどけなく眠る、子供達。
「へたばってるわけじゃないけど」
 そう?と笑いながら隣に腰掛ける。尚人はその腕の中で、眠っていた。
「どうした?早いな、お迎え」
「うん。仕事がちょっと片ついたから」
 香奈は、輸入雑貨の会社のOLだ。綺麗で可愛いものが好きな香奈にはぴったりの仕事で、子供が出来ても辞める気は起きなかったらしい。でも、今の一番はこの尚人だ。
 緩やかに吹く風が気持ちがいい。そうやってぼうっとしていると、香奈がくすりと笑った。
「なに?」
「へたばってるって言うより、悩んでるのかしら?」
 柔らかい声は、尚人を気遣ってのことだ。俺は違うよ、と言いながらもため息を吐いた。
 悩んでいるというなら、ずっと前からだ。
 諦めようと何度も思って。
 今の関係で満足しようと何度も決心して。
 それでも会えば、伸ばしてしまう手を止めようがなくて。
 どこか驚いて、傷ついたような目をした春日を、忘れられないでいる。
「おじさんのこと……じゃないわよね」
 労わるような香奈の目から逃げるように、俺は庭を眺める。
「何かあった?ハルちゃんと」
「ハルって呼ぶなよ」
 思わず言うと、にんまりと笑われた。
 香奈は俺の気持ちを知っている。実は昔、ほんの一瞬、付き合ったことがあるのだ。
 昔から綺麗なものが好きだった香奈は、俺のことも好きだと言った。俺自身は顔が綺麗といわれてもわからなかったが、その頃俺は自覚はなくも春日のことが好きで、春日が香奈を好きなことも知っていた。春日は子供の感情だと言ったけれど―――そうだとしても、あれは恋だっただろう。
 それが気に入らなくて、俺は香奈と付き合うことを承知した。俺が中学三年、香奈が一年になったばかりだった。ひどい男だ。
 でも、香奈はすぐにそんな俺の気持ちに気付いた。
―――真己ちゃん、私のことなんて少しも好きじゃないのね。
 哀しいというより、やっぱり労わるような目で言った香奈を、俺は覚えている。これからも、きっと好きにならないわね。そう続けた声は確信に満ちていて、俺は何もいえなかった。
―――真己ちゃんは、春日だけなのね。春日だけが好きなのね。
 それは信司が香奈を大切にしているのと同じだ、と俺は言った。でも、香奈は笑って首を振ったのだ。少し、怒った目をして。
―――違うわよ。全然、違う。
 その意味を、俺は随分後になって知った。
「春日がさ、香奈が母親なんて、子供が子供を産んだようなもんだってびっくりしてた」
 風に、遠くのブランコがゆらりと揺れた。
「まあ、失礼な」
 香奈は心底憤慨したように言ってから、でもそう、会ったのね、と呟いた。
「あいつ、優しいからさ。ここのところ週末になると帰ってくる」
 以前は、高校に入ってから滅多に家には帰ってこなかった。長期の休み以外に帰ってくることなど、本当に珍しかった。それなのに、親父の葬式依頼、春日は頻繁に帰ってくる。
 それが俺のためなどと、自惚れるつもりはない。
 でも、春日が優しいことは知っている。ただのお隣さんだとしても、気にしてくれていることは。
 ときにはその優しさは、ひどく残酷だ。
「いい加減、はっきり言っちゃえば?」
 香奈が囁くような声で、でもきっぱりと言う。ゆらりゆらりと、腕を優しく揺らして。尚人はとても気持ちが良さそうに、眠っている。
 言えるわけがない。
 大切なものを、もうこれ以上、俺は失いたくなかった。


 その週の週末も、春日は帰ってきていた。その上、俺の勤める双葉保育園にひょっこりと顔を出した。
「春日?何やってんだ」
 土曜日は少しだけのんびりとしている。土曜休みの親もいて、園児の数が少なくなるからだ。
 それなのに、外が嫌に賑やかだと思ったら、春日が子供たちの相手をしていた。追いかけて、捕まえた、と子供がその足にしがみ付くと、春日がそれをひょいっと持ち上げて思い切り振り回す。それに子供達はきゃっきゃと歓声を上げていた。
「あー、真己。交代」
 お兄ちゃんまたやってー、と子供にせがまれながら、春日が園舎に向かってくる。それから、疲れた、とどさりと廊下に寝転がった。
「うわっ、こら」
 その春日の上に、笙太がどんっと乗った。六歳の子供は既に重い。春日がうめく。
「お兄ちゃん、もっかいやって」
 俺はそれを苦笑しながら眺めていた。子供たちの全力疾走に付き合わされた後の、くたくたの疲れを俺も知っている。
「笙太、昼寝の時間だ。ほらみんなも」
 俺がそう叫ぶと、みんながまだ物足りなさそうな顔をして靴を脱いで上がってくる。何人かはぐずぐずと、春日の周りをうろうろしている。
「ほら、手洗って。お話始まっちゃうぞ」
 昼寝の前には、朗読をすることになっている。それを聞きながらみんな眠っていくのだ。中には終わりまでしっかり聞いている子もいるが。
「お兄ちゃんは?」
「あー?俺も寝るかな」
 春日はそう言って立ち上がった。それから、何人もの子供の手を繋いで水道まで行く。そして本当に、園児と一緒になって布団の合間に寝転がった。
 やっぱり、ガキだな。
 それを見て、俺は思わず笑う。静かな、心地よい声で朗読が始まった。


 春日と遊んですっかり疲れきっていたのだろう。子供たちはいつもより早く、すっと眠ってしまった。笙太はすっかり春日を気に入ったのか、繋いだ手を離していない。
 俺はいつものように廊下に出て、少しだけ休憩をする。昼寝の時間が終わったら、布団を片付けなくてはならない。
「さぼってんの?それとも休憩?」
 一緒に眠っていたと思った春日が、隣に腰掛けた。
「休憩。なんだ。すっかり眠り込んだと思ったのに」
 くすりと笑った俺に、ガキじゃないんだから、と春日が言う。それから、うーん、と手と背筋を伸ばした。
「でも、マジ疲れた。あいつら容赦ないな」
 くすくすと俺は笑う。確かに子供は手加減を知らない。全力で遊ぶだけ遊んで、こてりと眠るのが子供だ。
 春日はどさりとそのまま後ろに倒れた。
「本当に眠ってくれば?」
「ん?眠いわけじゃないから」
 Tシャツの胸が静かに上下する。俺はふいっとそれから目を逸らして、遊び場を眺めた。緩やかで気だるい、静かな午後。
「園長先生に会ったらさ、大きくなったわねーってすごいびっくりされた」
 それはそうだろう。あの頃は、春日は園児の中でもちっちゃくて、良くちびだのと言われていた。
「なんか、ガキの頃を知られてるって言うのはやっぱり恥ずかしいもんだな」
 春日が呟く。一気に自分が子供に戻ったみたいだった、と。
 今だってガキだろう、と思ったが言わなかった。
 それはある意味合っていて、ある意味間違っている。年齢的にはまだガキだが、春日はガキではない。
 ガキだと―――俺が思い込みたいだけだ。
「それより、どうしたんだ?突然」
「ん?ああ、香奈ちゃんの赤ちゃん、見たいなあって思って」
 腕を組んで頭を載せた春日は、気持ち良さそうに目を閉じている。俺はその顔をじっと見ていた。
「尚人は今日はお休みだよ。香奈ちゃんは土曜日休みだから」
 俺が言うと、なんだ残念、とさして惜しくもなさそうに春日が言った。
 真意が、見えない。
「ああ真己。今晩飯食いに来いってさ」
 よっ、と言って春日が起き上がる。雑多に放り投げられている靴の中から、一際大きい自分の靴の上に飛び乗った。それを履きながら、来るだろ?と確認する。
「でも、悪いから」
 先週だって結局ご馳走になったのだ。おばさんは、良く料理を届けてくれるし。
「何今更遠慮してんの?本当に嫌なんじゃなかったら来いよ。俺としても親父としても、料理がその方が豪華で嬉しいんだよね」
 親父は一緒に飲めるのが楽しいみたいだし、と春日が笑う。
 曇りのない、綺麗な笑顔だ。
―――真己ちゃんは綺麗よ。
 香奈の言葉を、突然思い出した。にっこりと、少しうっとりと。香奈は俺を見てそう言った。
―――綺麗なんかじゃない。
 顔の造作のことはわからない。でも、少なくとも、俺の心の中はどす黒い。誰よりもそれを知っている俺は、香奈の言葉にいつも苦々しくそう返していた。
―――綺麗よ。もちろん、顔だけじゃなくて。
 香奈はいつもそう言った。無邪気で、明るい笑顔で。
「というわけで、今晩はウチに来いよ」
 春日がひらひらと手を振る。ガキどもが起きてこないうちに退散しよう、と肩を竦めながら。
 わかった、と俺は頷いた。
 わざわざそれを言いに来たのか、とは、聞けなかった。


 その週末も、俺は春日を送っていこうと申し出た。おじさんもおばさんも恐縮していたが、何より春日に断られてしまって、俺は思ったよりショックを受けた。
 期待など、していないはずだったのに。
「別に大して疲れないよ。結構いい気分転換だ」
「そう言ってくれるのはありがたいけど。でもさ、ウチの報道部、容赦ないの真己だって知ってるだろ?」
 報道部、という言葉に俺は深くため息をついた。在校中に、どれだけあいつらを貶したことか。もちろん、それで怯むような連中でもなかったが。
「相変わらずなんだな、そこは」
「俺なんか身内だろ?ちょっとは目を瞑ってくれればいいのに、逆に手加減なしで突っ込んでくるし。いらない誤解はしてくれるし」
 わかっていてするんだから冗談じゃない、と春日は本気で怒ったように言った。
「誤解されたくない奴でもいるのか」
 俺は思わず、本当にぽろりと言ってしまった。九重のあの馬鹿げた風習は俺も良く知っている。
「はあ?真己まで何言ってんだよ。俺、男には興味ないし」
 春日の呆れた声に、俺も馬鹿だな、と自嘲した。聞かなきゃいいことを聞いて、聞きたくもない言葉まで引き出してしまった。
「ふーん。でもさ、声掛けられたりはしないわけ?」
 笑って、からかうようにしているのは、必死で自分を抑える為だった。きりきりと、胸が痛む。
「……ないよ」
 苦々しく言った春日に、それは嘘だとすぐにわかった。
 目の前が、真っ白になるかと思った。
 取られてしまう。
 誰かに、春日を取られてしまう。
 自分のものでもないというのに、俺はそう思って泣きたくなった。
―――真己ちゃん。
 いつもいつも、そう言って春日は追いかけてきた。必死で、俺の後を追って、追いついて手を握ると、安心したように笑った。
 でも本当は。
 その繋いだ手を、離したくなかったのは俺だ。差し伸べられる小さな手を待ちながら、でも最後に、すっと思わず手を伸ばして握っていたのは、俺だ。
 バイバイだね、と言われて、離れる手に春日は泣いた。
 本当は俺だって、嫌だと言いたかった。


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