たった一つ欠けたパズルの破片を持っているのは君だろう?
04
考える、と広には言っても、深山の再三の説得に俺は頷けないでいた。正直、もう勝手にしてくれ、と思っていたところもあったのだが、それは暗に認めることにもなる。実際もう春姫とは言われていても、俺の許可の元に、公的に「春姫」と呼ばれるのはやっぱり嫌だった。本当は、お披露目と呼ばれる寮主宰のお祭りみたいなものもあるのだが、それもしていない。俺が、嫌だと言っているから。
そうやって、もう二ヶ月が経とうとしていた。深山の苦労もわかるが、俺自身の気持ちの整理がつかず、いつまでも了解しない俺の態度に、校内も少し苛立っていた。
俺は責められるようなその空気に、いつのまにかぎりぎりのところにいた。何もかも投げ出して、どこかに行ってしまいたかった。
こんなことで悩むなんて、と何度も言い聞かせるのに、俺は「春姫」になる勇気がもてなかった。
「久しぶりだね」
そんな俺の前ににっこりと笑って立ったのは、摂先輩だった。
俺は放課後にはカフェテリアになる食堂で、一人で外を眺めていた。卒業してから初めて見る摂先輩は、少し大人っぽくなって、ますます綺麗に、そしてかっこよくなっていた。カフェテリア中の視線が集まるのがわかる。
やっぱり敵わないな、と俺は自嘲した。
「先輩……お久しぶりです」
俺が驚いて、それからにっこり笑うと、摂先輩もにっこりと笑った。やっぱり、綺麗だ。恋敵だけど、俺は摂先輩は好きなんだ。だから余計悔しいんだろう。
「どうしたんですか?一人ですか?」
俺がどうぞ、と前の席を指すと、持っていたトレイをテーブルに置いて、先輩はそこに座った。
「いや、水満も藤原も一緒。あいつらは古巣に挨拶に行った」
そう穏やかに笑う先輩は、羨ましいくらい幸せそうで、俺はなんだか泣きたくなっていた。
九重の付属大学への進学率は高い。先輩達は、きっと大学でも楽しくやっているに違いない。
「なんだ、元気ないな。俺たちいなくなって羽伸ばしてると思ったのに」
「意地悪だなあ、先輩。そんなわけないでしょう?俺達みんな淋しくって」
それは、嘘じゃない。たった一つしか違わないはずの先輩達は、いつまでも追い抜けない壁のようで、俺達の目標だ。憧れて、ちょっと嫉妬もして、そういう人たちが目の前からいなくなるのは、淋しかった。
「相変わらず可愛いなあ重藤は。それなのに、俺の跡を継げないって言うのはどう言うことなんだ?」
さらりと言われて、俺は一瞬言葉を失った。それから、首を横に振りながら苦笑した。
「先輩は相変わらず耳が早い。どっからそんなこと聞いてきたんですか」
「あのねえ、俺達が卒業してからもう二ヶ月だよ?今年は東西ともにお披露目してないって言うのは俺達の中での只今の話題」
西はいないっていうから仕方ないけど、と摂先輩は肩をすくめた。それから、ああ忘れてた、とトレイの上のドーナツを一つ、俺に分けてくれた。
「なんで嫌なのか、聞いてもいい?」
お礼を言って食べたドーナツは甘くて、美味しかった。なんだか子供の頃を思い出して、俺はやっぱり泣きたくなる。そうやって、何も言わない俺に、先輩は優しい眼差しのまま、言葉を続けた。
「俺、重藤なら大丈夫だって言ったよね。信じてもらえなかった?卒業前にさ、深山と大庭にも言ったんだ。俺の後は重藤じゃなきゃ駄目だって」
そんな話は聞いたことがなくて、俺は思わず顔を上げた。
「あいつら、そんなことわかってますって言ってたよ。みんな、重藤以外は考えてないって。全く、俺たちの後輩にとってはお前が最初から姫だったんだよなあ」
「そんなことないです。俺にとっては、春姫は先輩だけでした」
「だから春姫は嫌だ、って訳じゃないよな?いや、ある意味あってるか……」
先輩の最後の呟きに、俺は思わず先輩を見つめてしまった。
「俺が春姫と呼ばれていたから、お前は春姫と呼ばれたくない。違うか?」
俺は何も言えずに、ドーナツを齧った。どうして先輩にそんなことがわかるのか、不思議だった。
「重藤さ、最初は嫌がってなかったのに、一ヶ月くらいしてから、次期春姫って言われるの嫌がっただろう?それが俺には不思議だったんだ」
そう言えば、そうだったかもしれない。最初は、摂先輩の後ってことに嬉しさ半分、不安半分、という感じだったんだ。それが、広がその摂先輩を視線で追っているのに気付いて、俺には耐えられなくなった。
「卵が先か鶏が先か……いや、ちょっと違うか。いまいち良い例えがないな。まあ、お前ら若いのに、複雑すぎんだよ。もっと一直線にやれ」
言いながら苦笑した摂先輩の目はそれでも優しいままで、俺は言われていることの意味の半分もわからなかったけれど、不思議と落ち着いた。
――― 一直線。
そう言えば、子供の時には何も考えずに気持ちを口にしていた。好きだとか、嫌いだとか。無邪気と言えばそれまでだけど、強かったんだろうな。素直なその気持ちで、つぶれることはなかった。今の俺みたいに。
「若いって……俺達と一つしか違わないのに。老けますよ、そう言うこと言ってると」
俺がそう笑うと、摂先輩が苦笑した。
「全く、可愛いのに口が減らないな。ま、いつものおまえに会えて嬉しいよ俺は」
摂先輩はそう言うと、立ち上がった。
「先輩は以前にもまして綺麗になりましたね」
俺がそう言うと、先輩はにっこりと笑った。
「そりゃあ、磨きをかけてくれる奴がいるからね」
その笑顔は、こっちが赤面してしまうくらい、綺麗な笑顔だった。
そうやって赤面した俺を残して、また来るからな、と言って、先輩はゆったりと歩いていった。
やっぱり、幸せなんだろう。
それがひどく羨ましくて、俺はそのお裾分けを貰おうとするかのように、残りのドーナツを齧った。
摂先輩は偉大だ、と思う。本当に、これぞ春姫なんだ、と思った。守り守られ、互いに支えあっていくのが姫と寮生だ。
先輩に会って、話をして、なんだか吹っ切れた俺は春姫だろうがなんだろうがやってやろう、と思った。こだわって意地を張っているのは俺だけなんだから。
でも、そう思ったのが少しばかり遅かった。
カフェテリアを出て夕食までまだ時間があったから、俺は英語の予習をやってしまおうと図書棟に向かった。寮の部屋に帰ったら、またいらないことを考えそうだと思った。
図書棟はA棟とL棟の北側、二つの棟の中間に建っている。地下一階を含む三階建てで、中二階は学習室になっていた。
その学習室の窓際の席について鞄を開けたら、肝心の英語の教科書を教室に忘れていることに気付いた。俺は軽く舌打ちして、鞄をそこに置いたまま、A棟一階、自分の教室に向かった。辺りはもう薄暗くなっていて、教室ばかりのA棟はしんと静まり返っていた。
俺は電気をつけるのも面倒で、その薄暗いままの教室で自分の机の中を覗いた。
油断していたわけじゃない、と思う。でも、まさか、という思いがあったのも確かだ。
周りには何もなく、バスで三十分かけて行く街を下界と呼ぶようなこの学校で、欲求不満の解消法として、当然のように男までも性の対象とする悪癖を知らなかったわけではない。それは奇妙な伝統さながら、この九重に根付いていた。俺自身、広をそう言う対象で見始めたときに、その毒にやられたと思った。そのために、姫と言う存在が多少なりと果たしている役割があることも、わかっていたつもりだった。
でも、そんなことは実際何かことが起きてみなければ、自分には関係ないように思えていたのも事実だ。
人の気配にはっとしたのは一瞬で、何か柔らかい布を噛まされて、縛られた。どうやら二人、声の様子だともっといるのかもしれない。とにかく手も縛られ、目隠しまでされた俺は、恐怖に身を震わせた。がたがたと音を立てて、机がどかされる。そこに出来たのだろう空間に、無理やり横にされた。見えない分、抵抗しようにも訳がわからず、それにも構わず振り上げた足は空を切っただけだったらしい。
強がろうにも、声も出なければ目も見えない。唯一縛られていない足はすぐに押さえつけられて、動かせないと言うことにまた怖くなる。逃げられないのだと、教えられているようで。見えないのに聞こえるのもまた、恐怖心を煽った。せっかくの綺麗な目が見えないのは残念だなあ、などとほざいている声にさえ、俺はみっともなくも震えた。
力で、それも多人数で襲いかかることの卑怯さを、俺はこのとき身を持って知った。
ネクタイをはずされ、シャツのボタンを引きちぎるように開けられた。ひやりとした空気が触れて、見えない俺は身体を震わせるしか出来なかった。自分の非力さが、情けなかった。
―――広に怒られるな。あれだけ危ないって言われたのに。
俺はふと、呑気にもそんなことを思った。怖くて、現実から逃げたのかもしれない。
「春姫になるのをあれだけ拒否するってことはさ、犯っていいってことだよなあ?」
そんな理不尽な言葉にも、言い返せない。猿轡されている所為もあるけど。
肌の上を直接手が滑ってきて、俺はぞわりと背を震わせた。気持ち悪い、の一言だった。それを思い切り言ってやりたいのに、言えない。
「すげえ。やっぱり女よりいいかもよ」
「おい、一人で楽しんでんなよ。口もないからさ、さっさとしないと後がつかえるって」
そんな声が聞こえてきて、すぐにズボンのベルトをはずす音がした。全寮生の山奥の男子校のこと。何をするかなんてわかりきっていて、泣けもしない。それでも恐怖に身を硬くしたそのとき、がらっと音がして、誰かが叫びながら入ってくるのがわかった。その瞬間に身体を押さえていた圧力がなくなって、でもそれがかえって俺を不安にした。視界が真っ暗だから立ち上がることも出来ずにいると、誰かが手の戒めをはずして、そっと抱き起こしてくれた。その手に一瞬びくりとして、相手が息を飲んだのがわかった。
「ああ、目隠しまだはずしてなかったな。大丈夫か?」
そう言って俺の目をひどく心配そうな目で覗いたのは、広だった。俺はひどく、本当に、子供が見失った母親を見つけたかのように、ひどく安心して、その身体に抱きついた。ただ、その温もりが欲しくて。縛られていた手とか、押さえつけられていた足が自分を裏切ったようで、自分のものだと言う実感が湧かなくて。
「おい、千速」
広が焦った声を出したのはわかったけど、そのときの俺は本当にただただ安心していた。離れない俺に広も諦めたのか、しばらく大人しく俺の頭とか背中を撫でていてくれた。
小さい頃は、俺がよくしてやったよな、とふいに思い出した。
「海田統括、こいつらどうしますか」
ふいに他人の声が聞こえて、俺はようやくそういえばあいつら……とさっきまで自分を押さえつけていた連中のことを思い出した。思い出してやっと、自分のやっていることに気付いて、俺は慌てて広から離れた。それに広は苦笑して、着ていたパーカーを俺に被せた。
「ああ、ご苦労さん。っておい、俺にも残しとけって言っただろ。一発殴らねーと気がすまない」
広がそう言うと、何人かいた生徒たちが「いや俺らもかーっとしちゃって」と舌を出した。広はそれに仕方ないとため息をつきながらも、でもやっぱり殴らせろ、と立ち上がった。
「気持ちはわかるがやめてくれ。後の面倒は俺が見るんだろ?」
その広の肩を掴んだのは、瓜生だった。それから俺の方をちらりと見ると「それより目の毒だぞ、あれ」と広に囁いた。俺はそれに、改めて自分の格好を見下ろした。う……ボタン飛んでるし、ズボン下ろしかけられてるし、みっともないにもほどがある。
「くそっ、来るのが早えーんだよ、お前は。ま、あとはよろしく」
広はそう言って、俺の元に戻ってきた。俺はまだ立ち上がれず、思わず縋るように広を見上げると、広が困ったように目を逸らした。
「千速、頼むからパーカーの前閉めて、ズボンもきちんとはいてくれ」
俺は言われるままに、パーカーとズボンのファスナーをあげ、ベルトを締めた。それを確認して、広は俺の前に中腰になって囁いた。
「まさかやられてないよな?それとも腰抜けた?」
その言葉に、俺はようやく気力を取り戻し、馬鹿言ってんじゃない、と言いながら、それでも差し出された広の手を掴んだ。
home モドル 01 02 03 * 05