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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
04
 お手伝いの駄賃は、サボテンだった。部活が終わったら先輩の部屋に来るように言われたのだ。俺はその日もまたいい走りは出来ず、自分に嫌気がさしていた。その上、昼休みの先輩の登場に、クラスメートに色々詮索され、さらには東寮生の東郷にまで知られていて、さらに反感を買ったようだった。
 バカバカしい、と少しだけ思う。
 俺は静かで穏やかな生活を望むから、東西対決にあまり興味はなかったが、巻き込まれないようにとは思っていた。ただ、先輩達を見ていて、東西対決とはそんないがみ合うものではなく、何か互いを磨きあう良い意味でのライバル対決なのではないかと俺は思っていた。そこが、今の俺たちと違う。二年の俺たちは、勝ち負けに拘りすぎている。
 深山先輩の部屋は、「深山植物園」と呼ばれていることは俺も知っていた。俺は一年から西寮で、実は東寮には数えるほどしか入ったことがない。そう言えば、高居先輩も東寮だったと思い出す。
「まじで植物園なんですね……」
 少しだけ緊張して入った最上階の一人部屋は、確かに緑で埋まっていた。玄関からベランダまで、至るところに鉢植えの植物が置いてある。雑然とした感じはない。植物館と同じで、植物の呼吸が聞こえるような気持ちいいところだった。
「株分けしたりしてたら、増えちゃってさ。これのおかげで寮長やってるようなもんだよ」
 植物のために、この部屋が一番理想だったんだ、と真面目に言う。それから、俺にコーヒーを出しながら、こっち、と窓際に連れてこられた。
「この間の駄賃。一個あげるから好きなの持っていきなよ」
 そう言って指差されたのは、ミニサボテンだった。まん丸のものから、平たい葉のもの、これぞサボテンだろう、という形を小さくしただけのようなものまで、色々合った。小さなその鉢は茶色や生成りの色の陶器で、とげとげしいサボテンを柔らかく見せている。
「可愛いなあ」
 思わずそう言うと、そうだろ?と満面の笑みを向けられた。本当に、この人は植物が好きなんだなあ、とその笑顔に思う。
「でも俺、手入れの方法知らないですよ?」
 ほっとけばいいんですか?と言ったら、駄目、と即答された。
「世話の仕方は教えてやるから」
 そう言って、早くどれか選べ、と促されたので、俺は濃い茶色い鉢に入った丸いサボテンを取り上げた。掌に三つくらいは載せられそうな小さなものだ。
「あ、それ花も咲くよ」
 そう言ってから、あれこれと水遣りや置き場所を教えてくれる。サボテンと言うとどうも砂漠の中に突っ立っている印象が強くて、手間なんてほとんどかからないと思っていたから、細かいその説明に驚いた。
「枯らすなよ」
 そう言った先輩に、俺は少しだけ自信なく、頷いた。


 その夜に哲平が俺の部屋に来て、カフェテリアに連行された。昼間のことを話す機会がなかったからだ。
 玄関を入ると吹き抜けのロビーになっている寮は、そのロビーと中庭の間にカフェテラスがある。各階にあるそこから、ロビーが見えるようになっているのだ。待ち合わせや同室者に迷惑を掛けたくないときなんかには、便利な場所だった。
「さて、吐いてもらおう」
 部屋からコーヒーまで持ってこさせて、哲平はにやりと笑った。俺は仕方ないとため息を吐く。別にただの先輩後輩だが、相手が悪かったと思う。
「吐くほどの情報はねーよ。俺がちょっとどじって、先輩に水ひっかけてさ。馬鹿なことにタオルを持ってなかった俺に、先輩が貸してくれただけ。それでちょっと園芸部の手伝いをしてるんだよ」
 かなり端折った俺の説明に、哲平は満足したのかしないのか、ふーん、と言った。
「あのタオルか」
 にやりと笑った顔は、言葉を額面どおりには受け取ってない証拠だ。俺は深々とため息を吐いた。
「まじでそれだけ。何もないぞ?」
「そうは言ってもなあ。園芸部の手伝いだって?」
「春だから忙しいんだってさ。小間使いだよ」
 そう言ってコーヒーを啜る俺を哲平が「小間使いねえ」とじっと見る。
「なんだよ」
「おまえはまあ知らないかもしれないけど」
 もったいぶった言い方だ。俺は片眉を上げた。哲平は俺より色々なことを知っている。写真部に身を置いているが、報道部とは取引関係があってそこから情報を仕入れているのだ。
「園芸部は入部条件が厳しいんだよ」
「はあ?なんだそれ。ほとんど幽霊部員だって聞いたぞ」
「そう。なんたって深山寮長に頼まれて名前を貸した三年の先輩ばっかりだから」
 さっぱりわからなくて、俺は首を傾げた。
「深山寮長の人柄に惹かれて、入部希望者は結構いるんだよ、園芸部。でも、寮長がそれを許可しない」
「哲平、少しもわかんないぞ。大体、俺も入部はしてない」
「でも、手伝ってくれって言われたんだろ?」
 それに俺が頷くと、哲平がおもしろそうに笑った。
「それが異例なんだよ。あの人、他の人間に手伝われるの嫌がるから」
 あれのどこが、と俺は呆れた。俺なんか部活の後にほとんど強引に手伝わされたのに。
「それに昼休み、なんだよあれは?」
「ああ、あれは晴れたら植物館入らせてくれるって約束したから」
 おやおや、と哲平がため息をついた。俺はだから違うって、と言ってみたが、哲平が信用してくれているのかわからなかった。それに、いやそうじゃないんだけど、と哲平は苦笑してる。
「ま、ちょっと気をつけたほうがいいかもな。東郷も東だろ?」
「関係ねーだろ。ただの小間使いだって」
「だとしても、だ。高居先輩に深山寮長。東郷の三年崇拝は危ねーからな。他のと結託されたら怖いだろ。俺も気をつけてみるけど、おまえも身辺に少し気を配れよ」
 なんだと言って心配してくれるのだ。普段ならコーヒー一杯では済まされない情報をぺらぺらと喋ってくれたのも。俺は少し真剣な顔をして、頷いた。
「それにしてもおまえが年上キラーとはなあ。知らなかったよ」
 そう笑った哲平を俺は思わずげんなりと見る。やめてくれ。
「本当はさ、構わないでくれたらって思うときがあるんだ」
 ふと呟くと、哲平が苦笑した。
「わかるよ。俺はおまえを知ってるから。でも、その贅沢な悩みを俺以外の人間の前で口に出すんじゃない。いらない反発買うぞ」
 もう買っている気がするが、哲平の言う通りなのだろう。
 贅沢な悩み。
 高居先輩のことも、深山先輩のことも、端から見たらきっとそう見える。世界の狭い俺たちにとって、先輩は身近な憧れだからだ。山奥の全寮制の九重だから、普通の高校より、きっとずっとその憧れが強くなるのだろう。
 俺だって高居先輩に憧れていないわけでも、深山先輩を寮長として尊敬しないわけでもない。でも、それより穏やかな生活の方が俺には憧れだった。勉強はそこそこして、後は走って。それだけで良かった。
 それなのに、一番楽しいはずの走りが少しも上達しなくて。
「どうしてこうなっちゃったんだろー」
 椅子に反り返るように背を預けた俺を、哲平が少しだけ困ったように見ていた。


 部活の練習メニューは変わらず、ただ最後にタイムを計ることだけなくなった。それはそれで、俺は最初のうちは気が楽になったような気がしたが、一週間もすると不安になってきた。自分がどれだけのスピードで走っているのかわからない。少しは速くなっているのか、それともあれからもどんどんタイムが落ちているのか。
 そもそも、何のために走っているのか。
 タイムのためだけでないと思っていたが、それがなくなった途端、コンマゼロイチでも速く走るのが目的だった気がしてきた。最悪だった。
「高居先輩」
 今日も、タイムを計らないまま「終わりだ」と告げた先輩に、俺は思わず声をかけていた。
「タイム……計りたいんです」
「必要ない」
「でも、これじゃあわからない」
 そう言った俺に、高居先輩は真っ直ぐな目で、何が?と聞いてきた。それだけで、俺は言葉を失った。
 走ることが。その目的が。
 でも、それは間違った答えだと俺は知っていた。それを言って、これ以上呆れられるのは勘弁だった。
「わからないんじゃない」
 何も言わない俺に、高居先輩が静かに口を開いた。
「おまえはわからないんじゃない。ただ、忘れただけだ」
 そう言った先輩の声は、少しだけ悲痛な響きを持っていた。
 少し遠くで、ぱあんっとスタートの鉄砲の合図の音が聞こえて、俺は先輩が走っていた頃のことを思い出していた。
 あの、綺麗なフォームを。
 ああ、傷つけた、と俺は思った。しなやかに走るその先輩を、俺は傷つけたのだと。自分ばかりが辛い振りをして。



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