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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
05
 貰ったサボテンは、風通しの良い日向に置くこと、と言われていたから、窓際のキッチンに置いた。あまり使わないそのキッチンの、日当たりのいいところを探した。
 コーヒーでも淹れようと夕食の後にそのキッチンに立って、ふと俺は外を見た。五階の俺の部屋から、植物館の六角形のガラス屋根が見えた。
 俺はその途端、無性にそこに行きたくて仕方がなくなった。あの、緑に囲まれたかった。ただ静かに、生きているあの植物達が懐かしくて仕様がなかった。
 俺は同室の鼎(かなえ)にちょっと出ると声をかけて、Tシャツのまま外に出た。四月の風はまだ冷たい。パーカーを羽織ってくるんだった、と思ったが、構わずに植物館に向かった。でも、もちろんそこは閉まっていて、中になど入れない。ガラス越し、薄い月明かりに静まり返った植物達は、かえって不気味だった。ぞっとするほど、生きている感じがなかった。
 俺はそれで、つい深山先輩の部屋に向かってしまった。もやもやと渦巻く不安のようなものが、怖かった。校庭の反対なのに、先輩なのに、そんなことより自分のこの気持ちをどうにかしたくて。
 部活から帰ってきて、高居先輩を傷つけたという思いと、走ることへの焦りと、そんなものを考えているうちに。
 走るのを、やめたいと思った。
 一瞬でも、そんなことを考えた自分が怖かった。
 それしかないのに、自分には、それが一番だったのに、そんなことを思ったのが怖かった。
 タイムなんてどうでも良かった。ただ走れれば、それで良かった。それなのに、それを手離そうとしたことが。
 怖くて、堪らなかった。


 走り始めた理由なんて覚えていない。人間なんて走るものだ。小さい頃から、徒競走なんて当たり前のようにあるし、それを何故選んだのかなんて、わからない。
 ただ、気持ちがいいと思ったのは本当だ。誰よりも早く、その白いテー―プを切ることが。たった数秒に、全てを賭けることが。


 突然、それも夜に訪れた俺を深山先輩は驚きながらも、にこやかに迎え入れてくれた。寮長だから、こんなこともあるのだろう。
 何か言おうと口を開きかけて、俺の顔を少しじっと見ただけで、先輩は何も言わずに坐るように促した。俺はそれに黙って頷きながらも、坐らずに、鉢植えの観葉植物の木々に近づいた。その葉の匂いを嗅ぐように顔を近づけると、ゆっくりと息を吸う。
「コーヒーと紅茶と……ココアもあるけど。何がいい?」
 先輩の穏やかな笑顔は変わらない。俺はいらないと頭を横に振ったが、寒かっただろ?と言われて、それじゃあコーヒー下さい、と呟いた。
 コーヒーを手に戻ってきた先輩は、ミルクなしね、と言って笑った。俺はブラックでいいです、と相変わらず立ったまま答えた。それがテーブルに置かれて、ようやく俺はその前に坐った。
「あの……すみません」
「何が?」
「こんな突然、夜に」
 俺がそう言うと、先輩は「ああ、そんなこと」と笑った。
「気にしなくていいよ。寮長なんてやってると、ときどきあるから」
 でも、俺はここの寮生ではない。
「最初植物館に行ったんですけど。閉まってて」
「うん、夜は特にね」
 先輩は何も聞かない。俺も、話すつもりはなかった。自分でよくわからないし、話すことは苦手で、この自分の気持ちを上手く話せる自信もなかった。
 ただ、そんな先輩の傍はひどく心地が良かった。
 一人で緑に囲まれたいと思ったのに、先輩のいる部屋に来てしまったのが不思議だった。
「サボテンの世話、ちゃんとしてる?」
「まだ貰って三日ですよ?さすがに元気です」
 俺がそう言うと、そうそうこれをあげようと思ってたんだ、と先輩は小さなプラスチックのボトルを持ってきた。
「液体肥料。今ごろあげなきゃいけなかったの忘れてた。これを五千倍ぐらいに薄めて、まあとにかく薄ーくして、水遣りついでにあげて。濃くしちゃ駄目だよ」
 そう言って、テーブルにそれを置く。五千倍なんて、見当もつかない。
 俺はそれを手にとって、ころころ転がしながらラベルなんかを見ていた。先輩はそれから何を言うでもなく、コーヒーを飲んでいる。
「先輩、何も聞かないんですね」
 ぽつりとそう言うと、先輩はじっと俺を見詰めた。真っ直ぐなその視線に、どきりとする。深い茶色の瞳が、柔らかい部屋の光に濡れたようだった。
「坂城はすぐ忘れるね」
 忘れる、という単語に今度は別の意味でどきりとする。
 ―――わからないんじゃない。忘れたんだ。
 高居先輩の声が蘇る。忘れたくても、忘れられない先輩の、痛くて、辛そうなその声。
「ちゃんと呼べって。この間から呼ばないように意図的に避けてるだろ?」
「そんなことないです」
「じゃあ、ほら」
 どうしてこんなことに拘るのかわからないながら、俺は「樹先輩」と言い直した。
「よし。で?聞いて欲しい?」
 深山先輩のその言葉に、俺は俯いた。聞いて欲しいわけではない。それでどうなる問題ではない。
 俺が黙っていると、人には言葉があるからね、と先輩はにっこりと笑った。
「言ってしまいたいことがあったら言えばいい。でも、言いたくなければ言わなくてもいい。大体、坂城は俺に会いにきたって言うより、ここの植物達に会いに来たんだろ?」
 そうなのだろうか、と俺は考えながらコーヒーを飲んだ。確かに、最初は植物館に行きたかった。でも。
 先輩がいてくれて、俺はほっとした。こうして傍にいてくれることが、安心できる。
 でもそれをどうやって上手く伝えたらいいのかわからず、俺は結局先輩の問いには答えられなかった。


 自分の迂闊さを悔いても、仕方がない。確かに俺は忘れやすいんだろう。哲平の忠告も、九重の騒ぎ好きも。
 深山植物園のおかげで少し復活した俺は、翌朝のんびりと教室へ向かっていた。でも、どこか周囲が騒がしくて、落ち着かなかった。
「あ、カズっ」
 教室に入る前に、走ってきた哲平に捕まる。それから、無言でぐいぐいと腕を引っ張られた。
「ちょっと、なんだよ。痛てーよ」
「いいから来いっ」
 哲平は俺の話など聞いていないように、とにかくすごい力で引っ張った。向かったのは事務棟の専科の教室があるところだったが、それを後ろから引きとめられる。
「坂城っ」
 呼ばれて振り返ると、東郷たちがいた。哲平が軽く舌打ちして、俺はなんとなく事態を把握した。
 哲平、と呼びかけて腕を離すように目で示すと、軽いため息と一緒に腕が外れた。ったく、馬鹿力だ。
「おはよう、東郷」
 俺がとりあえず挨拶をすると、剣呑な目が返って来た。挨拶は基本だと思うんだけど。
「なに?話?もうホームルーム始まるからさ、昼休みにしようーぜ」
「逃げるわけだ」
 その言いように、俺はため息を飲み込んだ。逃げても仕方がないだろう。
「まあ、それだけ時間が合ったら、高居先輩にでも深山先輩にでも泣きつけるもんな」
「泣きつく理由がわかんねーよ」
「泣きついたんだろ?タイムが上がらなくて、計らせてももらえなくて、高居先輩と同じクラスの寮長に」
 どこをどう取ったらそうなったのかわからなかったが、当たらずも遠からずだな、と俺は思った。
「おまえ、どうやって取り入ったんだ」
 俺が何も言わないでいると、東郷の後ろにいた奴が唸るように言った。誰に?と聞こうと思ったが怒らせそうでやめた。
「おまえら何やってんだ」
 もう面倒だ、と思っていたところに、二年総代の菅野がやってきた。こういう生徒間のいざこざは、総代が解決する役目になっている。
「何でもねーよ。悪いな菅野」
 俺はそう言って、隣の哲平の肩を押して教室に向かった。


 多分、平凡に、穏やかに生きていくのには、コツがいるのではないか、と俺は思い始めていた。悪いタイミングと言うものはあって、それを避けるコツみたいなもの。そして、俺はそんなものは知らない。
 朝の騒ぎは大した騒ぎにならず、東郷たちもそれから何も言ってこなかった。教室が離れていると言うこともある。それでも、放課後には部活で嫌でも顔を合わせなければならないと思うと憂鬱だった。
 その日の午後の授業は体育で、俺は体育着を忘れてきたことに気付いた。それで、昼休みに寮の部屋に帰って校舎に戻る途中、植物館から出てきた深山先輩にばったりと出会った。手にはこの間俺が運ぶのを手伝った花の苗を持っている。
「昼休みまでやってるんですか?大変ですね」
「あ、坂城。丁度良いところに、それもいい格好でいるね」
 俺は面倒だからと部屋で体育着に着替えていた。そのまま放課後まで過ごすつもりだ。制服に着替えないことに眉を顰める先生もいるが、六時間目は陸上部顧問の石神の英語だった。基本的に、運動部の顧問は六時間目に体育着でいることにあまりうるさくない。
「なんですか……またそれがいくつもあるとか」
 俺がそうその手の中のプラスチックの籠を指差すと、先輩はにっこり笑った。
「いや、あと一個だけ」
 つまり、手伝えと言うことだろう。それに、俺も別に何か持っているわけではないし、どうせ校舎に行くのだから構わない。
「手伝うって言いましたからね。いいですよ」
 俺がそう言うと、先輩がその籠を俺に差し出した。これを持って行けと言うのだろう。
 俺がそれを持って大階段を登っていると、後ろから先輩に声を掛けられた。
「はい?」
 先輩の言ったことが聞こえずに、俺は振り返った。階段を登りきるまで後一段、というところだった。片足を上の段に置いて、両手には土のぎっしり詰まった花の苗がいくつも並んだ籠を持って。
 そんな不安定な格好ではなかったら、と思っても仕方ない。そうではないから、世の中事故が絶えないのだ。
「危ないっ」
 と叫んだ声が誰のものだったのか、わからなかった。え?と思ったときには、身体が宙に浮いていた。落ちる、と思ったときには、もう落ちていたのだ。
「うわっ」
 大階段は、それほど段数はない。でも、一段一段がわりと広く、一番上の段から落ちたとなればそれなりの怪我をするはずだった。
 でも、思ったほどの衝撃がなくて、俺は不思議に思いながら身を起こした。それでも、頭がふらりとして、一瞬目を閉じる。
「大丈夫ですかっ」
 声に目を開けると、血相を変えた生徒が一人、ものすごい勢いで階段から降りてくるのが見えた。俺は「大丈夫だ」と言おうと思って、なぜ平気なのか悟った。
 俺の下で、深山先輩が血の気を失った顔をして、倒れていたのだ。まるで、死んだみたいに。
「先輩っ?」
 俺は驚いて、がばりと起き上がった。ぺちぺちと先輩の頬を叩いてみるが、閉じた目は開かなかった。
「先輩?深山先輩?」
 どきどきと心臓が痛いくらいに波打っていた。怖くて怖くて、堪らなかった。ぐったりと動かない先輩が。閉じられたままの、その目が。



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