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Creepinng-devil cactus

04
 夏の日はどんどんと昇って、十時ごろには運動部の面々はぐっしょりと汗だらけになる。木陰にいる身には、ああ暑くなってきた、と感じるくらいなのだが、グラウンドを走り回っている人間達は、しきりに汗を拭いていた。
 顔もはっきり見えない位遠く、樹が坐って和高が走っているのを見ている。夏休みの間の部活を見る生徒など皆無に等しく、木陰にいながら、その姿は目に付いた。
 朝の部活が始まってすぐ、和高はその存在に気付いていた。なんとなく、ただふっと顔を上げただけなのに、樹がいると、すぐにわかった自分が可笑しかった。
 離れようとしているのに。
 たぶん、植物が水を欲するように、和高は樹を欲するのだ。
 加絵とのことがどうなるのかなど、和高にはわからなかった。でも、だからといって、樹との関係を続けながら、加絵に会うことはできないと思った。
 例え、ただ会っているだけだとしても。
 二人が話すことは、他愛のないことばかりだ。テレビや映画の話題とか、ニュースだとか。加絵の塾の生徒の話もあるし、和高の友達の話をするときもある。だが、そこに、莉奈の話がでることは珍しかった。二人は巧みにその辺りのことを避けて話していた。
 加絵がときどき、瞳を揺らす。でも、それを見てなお、抱き締めたいとは思わない。そう言う意味での愛しさはなかった。ただ、支えたいだけで。
 それではあのときと、ほとんど変わらないと和高は自嘲した。だが、一つ違うとしたら、肌を合わせることで誤魔化すことはなくなったということだ。
 それを大人になったのだと人は言うのだろうか。
 でも、結局一番大切な人を傷つけていたら、何も変わらない。
 大人でも、子供でも。
「坂城、おまえ今日はもう上がれ」
 淡々とメニューをこなしている最中に、高居に言われて、和高は走っていた足を止めて首を傾げた。
「でも、まだ早いですよ」
「そうだけどな。本人は静かに見ているつもりでも、周りの気が散るんだよ」
 それが誰のことを言っているのかは明白で、和高は困ってしまった。
 今話をするということは、別れ話をしなければならないということだ。とっくにその覚悟をしているはずなのに、いざとなれば和高も胸が痛い。
「ほら、残りもそれほどないだろ。ダウンだけはしっかりしとけ」
 高居はそう言って、他の部員の下に歩いていってしまった。絶対君主のコーチにそう言われたら、和高は逆らえない。仕方なくダウンをして、部室に向かった。
 部室から出ると、そこに樹がいた。汗を流している和高と対照的に、とても涼しげな顔をしていた。
「先輩、陸上部の練習なんか見ていて、面白かったですか」
「ああ、自分がしないから、面白かったけど。邪魔するつもりはなかったんだ」
 歩き出した和高の隣に、樹は自然に並んだ。
「いや、先輩が悪いんじゃないですよ。集中力散漫な奴らが悪い」
 こうして話していると、二週間近くまともに話していなかったことが嘘のようだった。このまま、和高はシャワーを浴びに行って、後は二人でゆったり喋りながら昼食をとる。そんな夏休み前半の日常が、戻ってくるかのように。
「でも、結局和高を早めに上がらせる羽目になったし……悪いな。でも、捕まえたかったんだ」
 ふと和高が立ち止まった。
「部屋、来ますか?鼎なら、お昼過ぎまで帰ってこないし」
「どっちでもいいよ。俺の部屋でも、和高のところでも」
 それなら、と和高は西寮に向かって歩き出した。シャワーを浴びて、着替えをしなければならない。さすがにこの汗だくのまま話をするのは避けたかった。
 部屋に着いて、和高は冷蔵庫からお茶のペットボトルを出すと、それをコップに入れて、樹に差し出した。それから、自分はシャワーを浴びた。
 樹は、部屋の真ん中にあるテーブルにコップを置いて、そこに坐った。あまり改造していないらしい和高と鼎の部屋は、スタンダードな寮生の部屋、という感じだった。いつもは樹の部屋に和高が来るので、ここでのんびりしたことはない。
 すぐすみますから、と言った和高の言葉に嘘はなく、それから五分ほどで和高は部屋に戻って来た。まだ髪から滴る水をがしがしと拭きながら、冷蔵庫からペットボトルを出してそれをごくごくと飲んだ。
 和高の身体は綺麗だ。引き締まったアスリートの身体が芸術品に例えられるのもわかる、と見るたびに樹は思う。
 随分触れていないその肌に手を伸ばしたくなったのを堪えて、樹は和高が目の前に坐るのを待った。
 こくりとお茶を飲む。ひどく落ち着いている自分が、樹は不思議だった。
 話があるとか、言ったわけではない。でも、樹に話があることも、和高が何か言いたそうなことも、お互いわかっていた。
 だから、樹は和高が口を開く前に、顔を上げて言葉を発した。
「西嶋が来たよ」
 それだけで、和高はその意味を汲み取った。少し、それを期待していなかったとはいえない。そういうずるい自分がものすごく嫌いで―――和高はやはり後悔した。
「偶然、会ったんです。まだ小さな女の子とぶつかって、謝った人を見たら、あの人だった。その子が、俺の子かもしれない。でも、わかりません。わからなくて、いいと思っています」
 少しも考えがまとまらないままそう言った和高に、樹は「うん」と頷いた。
「今は、塾の講師をしてるって……」
 教師は辞めたのだ。それだけでも、和高に傷を残しただろう。
 相手に、樹は同情したりはしない。自分は少しも彼女のことは知らないからだ。だが、和高が傷つくのは、嫌だった。
 それは、彼女のせいではないけれど。
「会いたいって言われて、俺は断れなかった。先輩、俺―――」
 すっと上げられた目に、樹は「和高」と名を呼んでその先を遮った。
 それを、言わせるつもりはなかった。
「待ってるから」
 静かに響いた言葉に、和高が僅かに目を見開いた。
「俺、待ってるから。もし、帰って来たくなったら、帰っておいで」
「樹先輩……」
「和高が帰る場所を、用意させて。それだけでいいから。―――帰ってきても来なくても。その場所を与えることを、許して欲しい」
 ひどく穏やかな顔でそう言った樹を、和高はじっと見つめた。
 この人は、なんて―――。
 和高は、坐ったままその手で顔を覆った。ゆっくりと、その身体が前に倒れていった。樹は立ち上がって、テーブルの反対側に行ってその頭を抱いた。
「そんなのは、ずるい」
 和高の震えた声に、そうだね、と樹の静かな声が答える。それから、ごめんね、と。
「違う。……先輩がずるいんじゃない。それじゃあ、俺がずるい」
「そんなことないよ。これは、俺の我侭だから」
 和高が、何度も頭を横に振った。それでも、樹はそれを離さなかった。
 和高だから、今のような選択しかなかったと、わかっている。
 その優しさに、自分は惹かれたのだ。
「許して、忘れて、それで思い出してくれたらいい。そのときが、もしも来たら」
 自分ができる精一杯のことは、そんなことしかない。
 だから。
 和高の、肩が震えた。顔を覆っていた指に力が入って、ぎゅっとまだ濡れた髪を掴んでいた。
 樹はそこに、頬を摺り寄せた。その冷たさを、気にもせずに。


 こんなに頻繁に下界に来ることはなかったな、と和高は思った。広告が変わったとか、ショーウインドウのディスプレイが違うとか、そんなことは以前は当たり前で気にもしなかった。来るたびに色々なものが新しかったからだ。
 でも、もうすぐ新学期が始まるから、そうしたら、一週間に一度来るのが精一杯だ。加絵はそれでもいいと、きっと哀しそうに笑うだろう。
 その表情の意味を、和高は知ろうとしなかった。ただ、加絵が本当に求めているのもまた、自分ではないのだろうと思っただけだった。
 それでもいい。今はただ、自分がこうして会いに来るのが加絵にとっては重要なのだろう。
 そのために、樹と別れる必要はないじゃないか、と哲平は言った。だが、そうはいかなかった。なぜなら、樹と加絵と選べと言われたとき、和高は加絵を選ばなければならないからだ。例えば樹に行くなと言われても、加絵が呼んだら和高は会いに行く。そういう、ことだった。
 そんな風に、樹を傷つけ拘束するつもりは、和高にはなかった。
 好きなのだ。もの凄く。
 待つから、と言った。帰る場所を、用意させて欲しいと。
 自分は加絵を見捨てられない。どれだけ樹を愛していても、それは出来なかった。それが、あの小さな命を粗末に扱うことになった罪なのだと思った。
 産むか、産まないか。
 そんな議論をしなければいけない命を宿らせたそのことが、罪なのだ。あのときは無邪気で、快楽に溺れて結果のことなど考えないことが多かった。
 樹はただ、許せといった。帰る場所を用意させて欲しいと。そして、忘れていい、そのときに、思い出してくれればいいと。
 そうして、ずっと頭を抱いてくれた。
 あんな風に、愛されたことはなかった。愛したことも、なかった。
「……和高くん?」
 ふいに名前を呼ばれて、和高ははっと外を眺めていた顔を戻した。加絵が、いつもの哀しそうな笑顔を浮かべていた。
「どうしたの?」
「いえ。暑そうだなあって……」
 そうね、と加絵も頷いた。二人が外を見たのにつられて、莉奈も首を傾げて外を見る。そのあどけない表情に、ふと二年前まで加絵がときどきしていた表情を思い出した。
 ふいに、二人は似ていると思うときがある。
 それは本当に、些細なところだけれども。
「でも、朝はずいぶん涼しくなって来たわよね。と言っても、夏休みだからそんなに早くは起きないか」
「朝錬って言うか、気温が上がらないうちに練習しようって、結構早くから部活してるんだ」
「ご飯とか、ちゃんと食べてる?休み中は自炊でしょう?」
 ときどき、加絵は九重の内情の詳しさを覗かせた。誰か、近くに卒業生でもいるのかもしれない。クーラーはないけれど、結構涼しいんでしょう?という話がでたこともあった。
「まあ、それなりに。男子高校生だから、そんな凝ったことしないけど。でも、友人に料理好きがいたりして、助かってる」
 食事の話題になると、必然的に樹を思い出してしまう。岡崎ほど凝ったことはしないが、いつも美味しい料理を作ってくれた。野菜の本当の美味しさを知ったのも、樹のおかげだった。
「和高くん、料理したっけ?」
「少し、覚えた、かな」
 それも、樹の影響だ。もとが美味しければ大したことをしなくても料理になる、と笑って教えてくれたのは。
「誰のことを考えてたの?」
 ふいに、会話の続きのように言われて、和高は思わず「え?」と顔を上げた。加絵は和高からふいっと視線を逸らして、莉奈の頭を撫でた。
「さっき。外を見てたとき」
「え?」
「……好きな人のこと?」
 口元は笑っていたけれど、目は真剣だった。
「いるんでしょう?好きな人」
 和高は、どう答えるべきなのかわからなかった。その困惑を知ってか、加絵は今度はくすりと笑った。
「本当の恋、した?」
 加絵は、優しく笑っていた。どこか目が、潤んでいたけれど。
 和高は、今度は戸惑わずに、頷いた。
「すごく、もの凄く、大切な人が、いる」
 それに加絵は、満足そうに頷いた。それから、ごめんね、と呟いた。
「あのね、私、結婚してるの」
 そっとそう差し出した手には、シンプルだが美しい指輪が光っていた。
 今まで、気付かなかった―――いや、加絵が気付かせなかったのだろう。たぶん、和高と会うときは外していて。
「それでね、莉奈は、私の子供じゃないの」
 妹の子なの、と加絵は言った。私の子供は、いないの、と。
 莉奈の小さな手が、加絵に伸びた。心配そうな目が、キラキラ光っている。
 加絵が、泣きそうだったからだ。
「ごめんね。なんか、別れるとき、いつも謝ってばっかりだけど……」
 別れるとき、という言葉に、和高は加絵をじっと見た。
「ありがとう。本当はね、そう言いたかった」
 ふっと笑って、加絵は俯いた。そしてそれから、その顔をすっと上げた。
「ありがとね、和高くん。会えてよかった。もう、大丈夫だから。だから」
 戻っていいよ、と加絵は言った。
 和高は、しばらく加絵を見ていたが、ふっと息を吐き出すと、立ち上がった。それから、伝票をすっと取って、小さく頭を下げた。
 それから歩き始めて、ふと、思い出したように振り返った。
「先生」
 結局、和高は一度も加絵の名を呼ばなかった。そして、やはり彼女はずっと自分には先生なのだと、和高は思った。
「俺の恋人、高校の先輩なんだ」
 恋人と言っていいのか、わからないけれど。戻っていいといわれて、帰るところはそこにしかない。
 加絵の目が、大きく見開かれた。九重は男子校だと、彼女は十分承知していた。
「でも、もの凄く、大切な人で。ずっと一緒にいたいと思ってる。……ずっと、二人っきりかもしれないけど」
 ああ、と加絵は微笑みながら、涙で視界が滲むのがわかった。
「そう、でも、うん、良かったね。大切な人、見つけられて」
 和高は、気付いたのかもしれない。気をつけて言ってみたつもりだけれど。
 これだけは、どうしても言えなかった。ときどき、どうしようもなくなって、和高を責めたい気持ちになったときもあった。でも、和高を責めるべきではないと、わかっていた。こんなに、優しい青年に。
 どうしても、自分たち夫婦に子供が出来ないそのことを、伝えることは、加絵にはできなかった。
 不妊治療を進められ続け、相手の両親にはまだかと言われ、自分の両親には過去のことを遠まわしながら責められて。もう、おかしくなると思った。
 夫は、加絵の過去のことを知らない。話すことが出来ないまま、二人の間もぎこちなくなっていた。そんなときに、和高に会って。
 十分だと思った。色々なことを投げ打って、大切だと言う人がいるのに、自分に会いに来てくれて。
 助けてと言ったら、助けてくれただろう。傍にいてと言ったら、いてくれただろう。
 そう思わせてくれただけで、十分だと思った。
 大丈夫。まだ、私を見捨てない人がいる。
 夫に、全部話してしまおう、と加絵は思った。それで別れることになっても、きっと今なら、立っていられる。少しは挫けるかもしれないけれど、また立ち上がって、進んでいける。
 加絵は莉奈に帽子を被せ、その頭を撫でてにっこりと笑った。
「さあ、ママのところに帰ろうか?」



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