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Creepinng-devil cactus

05
 バスの中で揺られながら、和高はじっと木々の合間に見え隠れする街を眺めていた。濃いオレンジ色に、ゆっくりと沈んでいく、その様子を。
 帰っておいで、と樹は言い、戻っていいと、加絵は言った。
 そして、バスに揺られている。
 たった三年間暮らすだけのあの山の中が、恋しくて堪らなかった。実家にも、こっちに出てきてから一度も帰っていないのに、九重の寮のほうが恋しかった。
 つい数時間前まで、そこにいたのに。
 本当に恋しいのは、部屋ではなくて樹だ。あの、緑の中。あの、瞳の中。
 和高はバスから下りて門を入ると、右手に向かった。西ではなく、東に。西とは僅かに違うその玄関も、すっかり通い慣れた。
 樹の部屋に着いて、インターフォンを鳴らす。はい、と落ち着いた声がして、和高はものすごくほっとした。
 帰ってきたのだ、と思った。
「樹先輩?」
 それだけで、樹には誰だかわかる。名前で呼ぶことを許している後輩は、和高しかいないからだ。ぱたぱたと走ってくる音がして、和高は首を傾げた。ドアは開いているのが普通だからだ。だが、かちゃりと鍵を回す音がして、樹が珍しく鍵まで閉めていたことがわかった。
 その理由は、すぐにわかった。樹はひどく、やつれた顔をしていたから。
 泣いた痕のように、その目は赤くなっていて。
 和高はものすごく申し訳ない気持ちになって、樹に思わず抱きついた。樹も、すぐにその背に腕を回して、ぎゅっとそのシャツを掴んだ。
「ただいま」
 そう囁かれて、樹はぎゅっと目を閉じた。
 ずっと我慢していた涙が、ぽろりと零れ落ちていった。


 ものすごーくやつれてるんですよ、と和高が言って、樹はその顔を恨めしそうに見た。そんなことを言って、久々に抱き合うことを拒否すると言うのは、どう言うことだろうと思う。
「ものすごーく、って言うのは違うだろ。ちょっとだちょっと。それに、足りないのは食事でも睡眠でもないんだよ」
 和高なんだよ、とほっぺたを両方引っ張られて、和高は情けない顔をした。樹はその手でそのまま和高の顔を挟んで、ちゅっと唇を合わせた。それからベッドに誘うつもりが、軽くのはずだった口付けが深くなって、樹は和高の肩を叩いた。
 いつの間にか、自分の方がしっかりと押さえられている。
「ん……かず……」
 さわりとTシャツの裾から大きな手が入ってきて、樹はうっとりと瞬きをした。
「ぁ……は、かず、ん……ここで?」
 ちょっとだけ移動すれば、ベッドがある。でもそれより近くに、ソファーがある。カバーもかかっていて、完璧だと樹は思った。
「先輩?嬉しそうですね」
 にっこりと和高が笑って、ひょいっと抱き上げた樹をソファーに下ろした。それに樹は「嘘だろ」と呟いた。ソファーですることじゃない。なんだかとても簡単に抱き上げられてしまったことだ。
「嘘って?一瞬だったらそんなに難しくないんですよ?ずっとじゃとても無理な気がしますけど……一応腕も鍛えてますし」
 それでもなんだか男として情けない気がして、樹はその腕を撫でた。
 逞しくて、嫌いではない。
 いやむしろ、大好きだ。
「とりあえず、それは忘れてください」
 和高がそう言いながら、首筋を舐め上げた。あっと腕を上げてみるが、狭いソファーで思うようにはいかない。耳の後ろを音がするほど舐められたときには、樹は既に腰を押し付けていた。まだゆるゆると立ち上がっているだけだけれど、今はそれより自分を貫く和高が欲しかった。
 一つになって、和高が帰ってきたと内側で感じたかった。
 夏場でどちらも軽装だ。だが和高は、年上の加絵に合わせていつもより大人っぽい格好をしていた。そのシャツの胸元を、ぐいっとひっぱる。
 樹の拗ねたような睨むような視線に、和高はそのシャツもパンツも思い切りよく脱ぎ捨てた。その間に、樹も脱いでしまおうと思ったのに、まだ途中で和高が再び覆い被さってきて、樹は最後は下着とハーフパンツを足で蹴った。その樹にお構いなしに、和高が胸を舐め上げるから、意識が拡散して絡まった服がなかなか下に落ちてくれなかった。
 片足に引っかかっているだけだからとほとんど諦めたそれがようやく落ちたのは、だんだんと下がっていった和高の唇が、中心を舐め上げたときだった。少しだけ服を脱ぐことに意識を割いていた樹は、それに必要以上に反応してしまって、思い切り背をしならせた。肘掛から頭だけがだらりと垂れ下がって、視界の隅にドアが見えた。
 鍵はかかっているだろう。でも、こうしてドアから丸見えの場所で抱き合うことは、今までなかった。
 樹だって、別にソファーでするのが好きなわけではない。狭いし後も大変だし、本当はベッドでした方がずっと楽しめる。でも、いつも余裕な感じの和高が、その余裕を無くして自分を求めてくるそのことが、樹には嬉しかった。和高もそれを良く知っていた。
 だから、ソファーの上で一度果てた後は、二人はベッドに行って今度は存分に抱き合った。もう少しだけ、ゆっくりと。二人が二人の形をなぞるように。


「待っててもいいかって言われたとき、俺はもう、この人以外に愛せないかもしれないって思いました」
 二人が納得するまで抱き合って、シャワーを浴びたときにはもう夜はすっかり更けていた。いつもの夕食の時間も終わっていて、それでも体力を消耗した後の二人はお腹がすいていた。こんなときは非常食だな、と樹が出してきたのはカップラーメンで、それをふたりでずるずると食べていた。
 そんなときに、不釣合いなセリフを吐いたのは和高だ。
 和高は、ときどきその真っ直ぐさで、聞いてるほうが赤面するようなことを言う。
「それでいて、他の女のところに行くんだからな」
 樹がちゃかすような口調でそう言うと、和高はずるずるっとラーメンを啜ってから、その顔を上げた。それをごくりと飲んで、でも、と言った。
「帰ってきたでしょう?」
「浮気した旦那みたいなこと言うなよ」
 樹が耳まで赤くなっているのは、和高にもわかった。和高は笑って、「まあ浮気したつもりはないですけど」と言った。
「気持ちとしては全然違った。でも、だから余計、苦しかったんです。一層のこと、その方が楽なのにって……思ったりもしました」
 樹は何も言わずに、ラーメンを啜っていた。
「本当は、どうしたらいいのかわからなかったんです。自分のしていることは、自己満足なんだろうって、わかっていたし……でも、樹先輩がそれを認めてくれたから、なんかすごく、落ち着いて。ずっと、思っていていいんだってわかったら」
 それを支えに、やっていけると思った。現実問題の話ではない。実際はこんなに早くに樹の下に戻ってこられたが、それが数ヶ月、何年となれば、樹をそうして縛ることに苦しさを感じただろうし、樹だって、いつまでも待っていたかなどわからない。
 でも、あのときは。
 あの一言で救われた。自分の戻りたい場所が、そこにあるということだけで。
 あれは樹が和高に許可を求めたような形だったが、和高にしてみれば、樹を思うことを許されたのだ。
 和高はカップの中のスープを少し飲んで、ご馳走さま、と行儀よく箸を置いた。
「それに、先生にとって、俺は絶対的な救いじゃないって、わかってたし」
 呟くと、いたのか?と樹が聞いた。ふいの質問に和高が首を傾げると、誰か、その絶対的に助けられる人がいたのか、と今度は長い文章で問い掛けた。
 和高はなんともいえない顔をして、こくりと頷いた。それからふっと笑って、「結婚しているんだそうです」と言った。
「子供は、妹さんの子供さんだって……」
 樹はそうか、とだけ言って、それ以上何も聞かなかった。和高も、加絵たち夫婦に子供がいないことも―――もしかしたら、産まれないのかもしれないことも、言わなかった。加絵は、そうは言わなかったからだ。ただ、子供がいないと言っただけで。
 樹も食べ終わって、箸を置いた。麦茶を飲んで、なんか甘いものが食べたい、と言うと、和高が立ち上がって冷蔵庫に向かった。アイスを出して、半分ずつにしません?と聞いてきたので、樹はそれに頷いた。アイスは、和高が買ってくることが多い。夏休み中は、週に一度だけ、南寮の食堂に下から配達車がやって来る。入れ替わりはあるとしても、常に半分ほどの生徒が残っているからだ。
 それに加えて、部活では一年生が買い出しに行かされることもある。
「先生に、聞かれたんです」
 坐って、真ん中にカップアイスを置いて、二人はそれに手を伸ばした。チョコミント味は、ときどき急に食べたくなる、と和高が言う食べ物の一つだ。和高の呟きのような言葉に、今度は樹が小さく首を傾げて先を促した。
「本当の恋を、したか」
 ああ、そう言えば、そんな話を植物館の中でしたな、と樹は思い出した。あのとき和高は、まだわからないと言っていた。彼女との恋が、偽物だったのか。
 偽物も本物もない気がする、と樹は思う。ただ、お互い想い合ったはずで、それだけで十分だと。そこに、恋と言うラベルをつけなくても。
「もうそのときは、嘘なんかつく必要ないってわかってたから、凄く大事な人がいるって、言ったんです。そうしたら」
 和高が反対側から、アイスを掬う。それをぺろりと食べて、そっと微笑んだ。
「戻っていいって、言われたんです。大丈夫だから、もう戻っていいって」
 そう言われて帰るところなんて、樹先輩のところしかなかった。
 和高の言葉に、樹は不覚にも目を潤ませた。そして、和高が彼女を放って置けなかったわけが、わかった気がした。中学のときも、今回も。
 彼女もまた、優しい人間なのだ。ときどき転んで、他人の手に助けてもらうようだけれど、最後には、自分で歩き出す。そういう、人間なのだ。
「俺、先輩のこと言っちゃった」
 呟かれた言葉と、その口調のいつにない幼さに、樹はアイスにスプーンを刺したまま、顔を上げた。
「恋人、高校の先輩なんですって」
 照れたように、笑う。樹はそれに、和高は、覚悟も何もいらないのかもしれない、と思った。ただ真っ直ぐに、今のまま。そういてくれたら、それだけでいい。
 よく言った、と誉める代わりに、樹は掬ったアイスを和高に差し出した。それをするりと口に含んで、和高も笑う。
 そう言えば言い忘れていた、と思って、樹はふっと顔を上げて和高の名を呼んだ。
 なんですか?とスプーンを咥えたままの和高に、にっこりと笑う。
「おかえり」
 くしゃりと、和高の顔が歪んだ。
 まったく、この人には敵わない。
 結局一言も、誰も責めなかった。和高も、加絵も。
 ただ話を聞いてくれて、そして、おかえりと言ってくれた。
 和高はもう一度、ただいま、と言って、泣き笑いをしたのだった。


 翌日、二人が揃って夕食に顔を出すと、大げさなほどに喜んで安心したのは、あの日以来、寮に残った哲平だった。何しろ、自分が呼び出さなかったら―――と一人微妙なところで責任を感じていたのだ。もちろん、和高にしてみればいつかは再会しなければならない相手であり、話をしなければならない人ではあったのだけれど。
 良かった良かった、と抱きついて和高の背を叩く哲平を、樹が睨んで引き離す。それを「本当に戻ったんだー」と言って喜ぶ哲平に、呆れた視線を他のみんなは投げかけて。
 でも、いつも夕食を共にするメンバーは、哲平と同じにほっとしていた。みんながみんな、事情を知っていたわけではない。でも、二人の仲がおかしくなったことは、すぐにわかることだった。
 二人が自然にいちゃつく様子は呆れるよりも和む光景で、いつもみんな、幸せを分けて貰っているような気分だった。だから、どちらも辛そうな顔をしているのは、見ていて忍びなかった。
 だから、良かった、と心から思った。
「うし、明日は心配を思いっきり掛けてくれたカズ、おまえが当番な!」
 鼎の言葉に、まじかよ、と和高が倒れる振りをした。その腕を肩に受けた樹が、「それなら二人で作るか」と囁く。心配かけたのは、自分もだから、と。
 それを見ていた宮古が「なんか、夏が終わってから戻ってもらったほうが良かったかもな」と言って、失笑をかう。
 でも、もうすぐ、夏休みは終わりだ。そして秋になれば冬などあっという間で、そうしたら、そのすぐ後、春には樹たちは卒業していく。
 それでも、きっと大丈夫。
 やっぱり、大丈夫だ。
 樹も和高も、そう思った。
 もう、帰るところは決まっているのだから。



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