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la vison 第二話

05
「なんだ、あれは」
 月が変わって、ネイキッドの新テーマを見にやって来た穂積を、指月が捕まえた。周は次回の展覧会の準備に追われているらしく、店にはいなかったため、久しぶりに飲みに誘われた穂積は一緒に店を出た。
「羨ましいなら、羨ましいって言えよ」
 二人が来るバーは、いつも決まっている。ネイキッドから徒歩五分、やはり内装に凝った、静かなバーだった。
 指月が先日の周のことを言っているのは、穂積にもすぐに分った。あの周の無意識の変化は、兄の尋由でさえ苦笑するのだ。
「わかってたらさっさと手を出したのになあ。俺、あんまり騙されないタイプなんだけどね。今回はやられたな」
 黒ビールをごくりと飲みながら、指月が悔しそうにそんなことを言う。穂積はそれには怒らずに、にやりと笑った。
「あいつは別に騙しちゃいないだろ」
「いーや、騙された。あんな色気なんて持ってないと思ったのに、周の奴隠しやがって」
 穂積も同じ黒ビールを飲みながら、やはり口元は笑っていた。それに指月が不審そうな目を向ける。
「なんだよ」
「いや、そう言う意味なら、おまえは今騙されてるなと思って」
「どう言う意味だ?」
「周のあれは意図してるわけじゃない。あれが周なんだよ」
 真っ直ぐで、凛とした姿勢で立っているのも、ベッドの上でそれが嘘のように乱れるのも、どちらも周なのだ。その二つが重なり合ったところに、周がある。
「あれがって……」
 指月が珍しく言葉を無くして、穂積は苦笑するしかなかった。周に言われるまでもなく、自分と指月が似ていることは、穂積にはわかっていた。だから余計に、周が指月に近づくようなことはしたくなかったのだ。
 周を疑うわけではない。信じていないわけでもない。でも、二人の関係というものの行く末が、不安でたまらなかった。信じきっていれば、ずっと今のように二人で居られる、というのならいくらでも信じられる。そう言う保証を誰かがしてくれるというのなら、なんだってしてやると穂積は思う。でも、そんな未来のことは誰にも分らない。そんな保証は、誰も与えることは出来ない。
「おまえは周を誤解してる」
「同じこと、周にも言われたよ」
 ふいっと穂積が隣を見ると、指月が微かに笑っていた。
「自分はおまえも救うことは出来なかったんだ、って言ってた。だから、俺も救うことが出来ない、ってな」
 どう言う意味だ?と目が言っていたが、穂積はそれを無視した。なぜかひどく、切なかった。
 罰なのだ、と思う。あのとき、周を弄ぶように扱った自分の、それは罰なのだと穂積は思った。


 ネイキッドのエキスポジションは、写真が多い。エキスポジションと言ってもギャラリーだから、作品も売る。階下のショップとの色合いも見ると、どうしても写真が多くなるのだ。
 その月の写真家は、廃墟や錆びれた機械などを撮る写真家で、カラーなのにモノトーンな色合いが、指月は気に入っていた。
 穂積とバーで別れて店に帰ると、店はもう閉まっていた。ふと時計を見て、指月は苦笑する。閉めておいてくれ、ともう長くここに勤務しているスタッフには言っておいたが、その前には帰ってこようと思っていたのだ。この店は、指月のものであって他の誰のものでもない。指月はずっと、そう思ってきた。もちろん、自分のコンセプトを理解してくれて、よく手伝ってくれているスタッフに感謝もしている。でも、穂積の率いる「H(アッシュ)」のような、仲間意識はない。だから、周を育て上げて、ギャラリーは完全に任せられるような、そんな関係を作りたいと思っていた。
 仲間が欲しい、なんて自分も年を取ったか、と指月はまだぼんやりと明るい店内を眺めた。きっと、誰か残っているのだろう。
 きっと、仲間が欲しいわけではない。でも、穂積を羨ましくも思うのだ。一人でやることには限界があって、それに満足できずに足掻く自分がいる。そして、自分で自分を潰していっている気がしてならない。何もかもを背負って走り回り、でも、辿り着いた先で、空虚さを拭いきれないのだ。
 裏口から事務所に入ると、外村(とのむら)が帰る支度をしていた。スタッフの中でも長い、今では指月が最も信用している男だ。
「あ、お帰り。結構長く話し込んだんじゃないか?その割に、酔った顔はしてないけど」
「俺が酔ったことなんてあるか」
「確かにね」
 外村がふっと笑う。指月は店のほうに目を向けて、まだ誰か残っているのか聞いた。
「ああ。周がいるよ。あの子、人のいない中で写真見るのが好きだよな」
 その表情がなんともいえないので、声をかけるべきか、外村は悩んでいたのだ。そうしているうちに指月が帰ってきて、これは指月に任せよう、と外村はほっとしていた。
 指月は「周か」と言っただけで、店に入っていくでもなく、見えもしないギャラリーの方を眺めていた。
「不思議な子だよ。感性も、面白い」
 そんな指月を見ながら、外村が呟いた。
「ギャラリーは、あの子に任せるつもりか?」
 外村が煙草を取り出して、火をつけた。指月はふうっと息を吐き出して、自分にもとその煙草をせがんだ。
「そうしたい、とは思ってるけどな。―――わからない」
 指月の珍しく弱気な発言に、外村は煙草に火をつけてやりながら、おや、と片眉を上げた。
「穂積さんが許さない、とでも?」
 外村の言葉に、指月が小さく笑った。
「そんなのだったら関係ないさ。周はここのスタッフになったんだからな」
「だったらどうして」
「本人がね」
 指月はそこで言葉を切って、紫煙を長く吐き出した。
「俺のパートナーにはならない、って言うんだ。そこは、自分の席じゃない、ってね」
 笑う指月は、疲れを滲ませていた。活動的で、フットワークが軽い、明るく陽気な指月が、いつ頃からそんなものを滲ませるようになったのか、外村にはわからない。指月は、そういうものを一切、誰にも、見せなかったからだ。
「それはそれは。よくよく貪欲なぼうずだな」
 外村はその指月を見るに耐えられず、視線を外した。灰皿を引き寄せて、とんとんっと軽く灰を落とす。
 指月のパートナーという席。それは、これまで多くの人間が欲してきたものだ。でも、今まで指月自身が、そこに誰も坐らせようとしなかったのだ。
「貪欲なのか、謙虚なのかわからないが、どちらにせよ、俺としては是非ともそこに坐ってもらわないとな」
 外村のその言葉に、今度は指月が目を眇めた。外村の言いたいことが、わからなかった。外村はその指月から視線を外したまま、実は、と呟いた。
「一緒に店をやらないか、って誘いがあるんだ。ファッション系中心のセレクトショップなんだけどな。企画段階から絡ませてもらって、店の装飾も自分達でやろうって言ってる」
 すうっと長く、指月の指に挟まれた煙草から煙が流れた。ああまた、こうして一人、自分から離れていってしまうのだ。もう何度、その背を見てきただろう、と指月は思う。
「そうか……面白そうな話じゃないか」
 指月はそう言うと、ゆっくりと笑った。それから煙草を消して、頑張れよ、楽しみにしてる、とその肩を叩いて、店へと消えていった。
「一瞬でも、引き止めてくれないんだな」
 そう呟いた外村の声は、閉められた扉に阻まれて、静かな部屋に響いただけだった。


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