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シュレーディンガーの猫

06
 欲望か、それとも生き延びる手段なのか。響貴は、そんな難しい問題の答えを、求める気はなかった。いつだって、自分はそうやって生きてきたのだ。
 日毎に似る、姉と自分。
 どうして、これほど似ているのだろう。自分自身がわからないほど、自分と姉は似ている。だから、あの家にいるときはほとんど鏡を見たことがなかった。鏡の中で目が合うと、ぞっとするのだ。
 生きていくための、本能なのかもしれない。似せることで、自分が生きていられるということへの、必死の追随。華奢な手足、薄い胸板。すべて、生きていくための。
 馬鹿だと思う。そうまでして、あんな生活をしているなんて。あれは、生きているとは言わない。生かされ、飼われているだけだ。
 それでも、死を覚悟したことがないのは、都住に対する憎しみがあったからだ。いつか自分が、あの男より強い力を手に入れる日が来る。そんなものがなくても、あの男を地獄に落とすこともできる。自分が、いる限り。
 あの男にとって、自分は絶対的な弱点だと、響貴は知っていた。求められれば、求められるだけ、あの男は地獄に嵌っていく。だから、あの男に抱かれた後に吐きながら、響貴はいつも笑っていた。あの弱い男は、響貴がいなければ欲望を押さえきれなくなる。そしていつか、罪を犯すだろう。響貴以外の、人間に。
 そうやって、響貴は生き延びる手段をとってきた。
 食事が終わって、寝ようとした坂倉が閉めようとしたドアを、響貴は止めた。二人が二人とも、何かに怯えているように、それまで一言も口を開いていなかった。
 昨夜のことが、ぐるぐると二人の中で繰り返されている。小雪が感じた闇を、二人が感じなかったはずがない。でも、小雪には恐ろしく足の竦むような闇であったとしても、二人には甘美で、絶え間ない妖艶さをたたえる闇だった。
 坂倉が響貴を見ると、響貴がじっとその目を見詰める。それから、一瞬泣きそうになりながら、唇を求めてきた。細く白い指が、坂倉の髪をかき回す。伸ばしたつま先の重みに、坂倉の頭を引き寄せる。そうやって、響貴は舌を坂倉の口に滑らせる。まるで獣のように、ぺろりと下唇を舐め、貪るように吸い上げる。それから、舌を絡ませて音を立てた。坂倉は、されるがままになっていた。坂倉の舌は答えず、目は冷たく開かれたままで、響貴はそれを見ないように目を瞑った。下半身を押し付けて、欲望を示す。少し大きめのジーンズから、その感触はしっかりと坂倉に伝わっているはずだった。
 それでも動かない坂倉のズボンに、手を伸ばす。それから前を開けて、響貴はやっと唇を離すと、その前に膝をついた。そして、自分からは決してした事のない行為をする。
 口に咥えて何度も頭を前後させるうちに、坂倉の手が頭に触れてきて、響貴は夢中になって舐めた。大きな、手のひら。それが首筋に落ちたりするのを楽しんだりして、響貴は舌を絡ませる。
 わからない。
 これが欲望かなんて、わからない。
 細い指で支えながら、筋に沿って唇を滑らせる。それからまた咥え込んで、歯を少し立てると、ぐんと重量を増したのに止めずにいた響貴の口から、液体が流れ落ちた。先端から零れるままにまかせて、唇をゆっくりと離すと、白い液体が床にぽたりぽたりと落ちた。それを坂倉が見ていることをわかっていて、響貴は下からその坂倉を上目使いに見た。瞳が、欲情に濡れている。でも坂倉の目は、冷たいままだった。響貴はそれでも満足したかのように、にやりと笑う。それから口の端に流れた雫を、親指ですくって、ぺろりと舐めた。
 響貴はそのまま、壁際に押し付けられる。そして、ズボンと、濡れたパンツを一息に下ろされる。どちらも足に絡んだままで、そのまま、下から突き上げられた。
 響貴は両足をズボンから抜き、坂倉の腰に絡ませて、腕は首に回して嬌声を上げる。どろどろと、繋がった部分も、絡ませている足も、髪を掴む指も、全てが溶けていくようだった。
 それを、――溶けてしまうことを――響貴は望んだのかもしれない。
 堕ちる――
 響貴はその感覚に酔った。何度も、何度も、坂倉が突き上げる。二人は獣のような声だけを上げた。それはそのうち、声さえも失って、息遣いだけになる。響貴の開けられた目が、白い天井を見つめていた。暗闇の中、でもそれは、どこにも焦点はあっていなかった。
 一際激しく上下に揺れて、二人が絶頂に達した後も、二人は何も言わなかった。坂倉は人形を捨てるように響貴を放し、響貴は壁をずり落ちるように座り込み、ただ乱れた息を、何度も繰り返した。目を合わせることも、なかった。それから、坂倉が響貴の腕を取って、無理やり引きずるようにベッドに転がして、また絡み合う。
 息が整わないうちに、両足を肩に担がれて、打ちつけられる。そうかと思うと、ゆっくり何度も、ぎりぎりまで引き抜かれては入れられたりした。
 荒い息と、据えた匂い。獣じみた声。それが、部屋中に充満しても、二人はいつまでも、揺れていた。

 響貴は、日中をぼんやり過ごすことが多くなった。それでなければ、坂倉と抱き合っていた。
 ベランダに面した窓辺に座って、響貴は床に落ちている日の光を指でなぞっていた。なんども、自分の影の輪郭をなぞる。
 響貴はまだ、鍵を持っていない。ドアはまだ、閉められない。
 抱かれていないと、不安だった。それしか、ここにいる理由がない気がした。響貴には、それしかなかった。
 ――父のときも
 欲望という情熱は、人をなかなか飽きさせない。何度でも、父は自分を捨てることが出来たのに、手放すことがなかったのは、それがあったからだ。いつか、どんな形であれ、自分を脅かすことになることは、わかっていただろうに。
 だから、坂倉がいると手を伸ばしてしまう。そうやって、頼りない関係を結ぼうとする。でも、こんな風に坂倉がいないときは、もう帰ってこなければいいと思ったりもする。
 だからと言って、自分から出て行くことは出来ない。
 無茶苦茶なのはわかっている。大体、坂倉は自分を誘拐したのだ。でも、響貴にとっては、それは救出であったと今は思う。坂倉にとっては、計算外のことだ。だから響貴は、不安で仕方がない。
 小雪はあれから、来ていない。一度だけ、心配だといってきたことがあった。でももう遅いと悟ったのか、何も言わずに連絡先を響貴にそっと渡して、帰っていった。
 坂倉は前より頻繁に、女の匂いをさせて帰ってくるし、連れて帰ってくることもよくあったが、毎回その顔は違っていた。そんなとき響貴は、じっと待っている。
 坂倉は、自分のしていることが無駄なことだとわかっている。そんな風に女を抱くたびに、それでは満足しない自分を知る。そして必ず、響貴を求めるのだ。そんなときは、たいがいひどい抱き方をする。
 響貴は、薄っすらと自分の首についている坂倉の指の跡を自分の指で触れた。鏡で見たら、まだ赤かった。昨日も、坂倉は女を連れて帰ってきたのだ。
 その女と散々抱き合ってから、女が眠ると、坂倉がふらりと部屋を出てきた。それから、当たり前のように、響貴を抱き始める。と言っても、散々女を抱いた坂倉は、よく響貴を弄ぶ。全てを脱がせて、手足を縛って放り出して、ときどき触れたり、自慰行為を要求したりする。薬を使うことも、多かった。響貴はただそれに従う。娼婦のように。坂倉が求めるのなら、懇願したりもする。そして最後に、坂倉はよく、首を締めながら響貴を犯した。乗りかかり、響貴の中に身を沈めてから、最初は愛撫をするように首に手をかけるのだ。するりと撫で上げられたりすると、響貴は堪らなくなる。
 互いにただ、二人の関係を確認しているだけなのかもしれない。誘拐犯と、人質。それがなくなったら、響貴はもうここにはいられない。そんな奇妙な関係としてしか、二人がこの部屋にいる理由がないのだから。
 だから響貴は、開いているドアの存在を無視する。
 だから坂倉は、響貴を手荒く扱う。
 それなのに、大きな手には、残酷なほどの温もりが、ある。
 その手に力がこめられると、いっそうのこと、そのまま殺してくれたらと思う。
 あの長くごつごつした、細い指に首を締められて、響貴はいつも達してしまう。その手が首にかかるだけで、背筋が震える。息が上がって、恍惚となる。坂倉も、苦しくて伸縮する響貴の中が気持ち良いのか、同時に達することが多い。そのときは、本当に死ぬと思うのだ。そして、響貴はそれを望んでいた。
 そうしたら、何もかも振り出しにもどる。誰も狂うことなく、穏やかな日々が流れる。坂倉が、あんなに苦しそうに自分を抱かなくても。自分は、こんなに不安な思いをしなくても。
 はじめから、なかった命。
 存在してしまったことが、誤りだったのかも知れない。
 幼い頃に、何度も思ったことが、胸を掠めた。響貴は決して、その思いを拭うことが出来ない。生きるということが、どう言うことなのかわからない。
 響貴は、指を床に滑らせながら、自分に影があることを不思議に思った。そして、この影だけになっても、何も変わりはしないのだろうと思った。


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