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時計を見たら、七時だった。ふいに、どうして数字なのだろう、と思った。7、00と続いたデジタルな時計。俺の部屋の時計はアナログだ。あの長針と短針がないと、どうも時間の感覚がすぐに掴めない。そんなことを思っているうちに、0が1に変わって、俺は飛び起きた。
「嘘だろおい」
呟きながら、俺はふらりとまたベッドにダイブしそうになった。いつもより寝心地のいいベッド。広くて、大人の男が二人寝ても十分なスペースがある。
そう、二人寝ていても。
ふるふると頭を振って現状の把握と記憶の整理をしようと思ったが、がんがんと痛い頭と吐き気に、すぐに止めた。その代わり、その痛みのおかげで昨晩のことを思い出す。
実を送って、東に送ると言われ、そのまま飲むことになって……
さらにそのまま、泊まってしまったのだ。
「なんだ?まだ七時じゃねーか。寝てろ」
ぐいっとシャツを引っ張られて、俺は考え事から我に返った。
「学校!」
叫ぶと、東がゆるゆると目を開けた。
「うるせーよ。一日ぐらい休め。代返頼むとかさ」
どうやらこれが東の普段の口調だとは、飲み始めてすぐにわかった。そして、すっかり慣れた。わりと我侭で、でも気遣いはびっくりするほど細かくて、話し上手で聞き上手で……と、東の素の部分の発見を数え上げている場合ではない。
「代返?大学生じゃないんだからそんなことできるか。それに今日は委員会が……」
言いかけたところで、後ろでがばりと東が起きたのがわかった。
「今、なんつった?」
寝起きで、口が回っていない。でもそれを笑っていられるほどの余裕は、俺にはない。
「俺、学校では手の掛からない優等生なんだよ。このままじゃ遅刻!」
服のまま寝ていた俺のズボンもシャツもくしゃくしゃだったが、そんなことは考えていられない。ここからアパートまではタクシーでも十五分、割と近くて助かった、と安心している場合じゃない。
タクシー代、痛いよなあ。
「待てって。部屋まで送ってってやるから。それより、おまえ大学生じゃないのか?」
のそり、と起きた東はパンツ一枚で、俺は反射的に目を逸らした。
「言わなかったっけ?高校二年生」
あたふたと自分の荷物を確認している俺に、知らねーよ、と不機嫌そうな声が聞こえる。
「家どこ?それより、二日酔いじゃないのか?」
「え?ああ、頭痛いし吐き気するけど、大丈夫だろ。とりあえず今日は休めない」
実は生徒会役員だったりする俺は、夏休み前の今日の会議に休むわけにはいかなかった。役員をしている自体で、まさに「作ってる」俺がいる、という感じだけれど。でもおかげで穏やかに学校生活も過ぎていく。これを壊すわけには行かないのだ。
東は俺の家の場所を聞いて、わりと近いな、と言って服着てくるから、顔でも洗ってろ、と言われた。シャワーを浴びてもいいといわれたが、そんな時間はない。アパートから学校まで、電車を乗って三十分は掛かるのだ。もう時計は十五分進んでいる。
服を着てきた東は、自分もざっと顔を洗うと、ほら行くぞ、と俺を促した。昨日はわからなかったが、あのリビングの隣に寝室があって、その向かいにバスルームがある。玄関に向かう途中でちらりと見えたリビングには、昨晩の残骸が残っていた。
「ごめん……」
車が動き出して、俺がそう言うと、東が不思議そうな顔をした。
「自分が寝るとは思わなかった。その上送ってまで」
「いいんだよ、俺が誘ったんだから」
最後まで言わせてくれずに、東が怒ったような声で遮った。それに、でも怒ってるじゃないか、と思ったが、それは言わなかった。
しばらく気まずい沈黙が流れて、もうすぐアパート、と言うところで、「そうだ」と東がごそごそと後ろのジャケットを探った。そこからシルバーの携帯電話を取り出すと、はい、と俺に渡した。
「携帯の番号、登録して」
「なんで?」
「なんで?また飲むに決まってる」
東はそう言ったが、俺は真意がわからずに動けずにいた。それに焦れたのか、信号で車を止めた東は、ちらりと俺を見ると、ひょい、と俺の胸ポケットから携帯を取り出した。
「俺のプライベート回線のほうだから、滅多に取らないけど、メッセージ残して。折り返し電話する」
結構強引。それも、昨日発見した素の東だ。俺は適当に頷いて、東に携帯を返す。
「なんだ。イズルの番号は教えてくれないんだ」
呟かれた言葉は、無視した。
昨晩は、正直に言えば楽しかった。俺はあんな風に人前で酔ったこともなければ、馬鹿みたいに笑い転げたこともない。自分の沸きあがる感情を、何のフィルターも通さずに発散させたことはなかった。それが、あれほど気持ちいいことだとも、知らなかった。
でも、だから怖かった。
そんなことを知ってしまった自分が、とても怖かった。
忘れてしまうか、過去にするか。
どちらでもいいから、未来にあるかもしれない可能性への期待はやめよう、と俺は決心していた。本当に欲しいものはそうそう手に入らないことは、幼い頃から知っていた。手に入ったとしても、それはすぐに消えてしまう。つまりは、手になど入らない。両手は、いつも空っぽだ。
そんなことを言いながら、東の電話番号は消せずにいた。ご丁寧にもフルネームだったために、名前の部分は削ったと言うのに、そのまま一気に消去することはできなかった。
東は映画にドラマに、と忙しいようだった。テレビの東は、作っていると言ってもときどき本当の東と重なる部分はあって、それがあの夜を俺に思い出させる。それが苦しくて、俺はあまりテレビを見なくなった。
そのまま夏休みに入って、俺はバイトを始めた。父親の古くからの友人で、その写真のファンでもある鷲見さんは、ちょっと洒落たバーをいくつか経営している。その中で最も俺のアパートに近い、少し大人な雰囲気が俺には似合わなくて申し訳ない「earshot」は、声の届く距離という意味そのまま、空間を贅沢に使って、一つ一つのテーブルが親密な空間を作れるように置かれている。だから逆に、一人になりたいときもいいのだと、客の一人は言っていた。
俺の役どころはバーテン助手で、つまみを作ったりコップを洗ったりする。夜の八時から十一時までの三時間だけだが、息子の小遣いなど思いも至らない父親を持つ身としては、十分に助かった。父親のいくつかの写真集の印税、ときどきする雑誌の仕事の報酬、それだけでも母への慰謝料、実の養育費、俺の生活費などを補う分にはなんとかなるのだが、それは父親が旅行をしなければの話だ。どこかの出版社の依頼ならまだいいが、自分の興味の赴くままに行く旅行費用はもちろん自分持ち。ときには借金までするのだから、俺は呆れて何も言わない。その旅行が結局は仕事に繋がることが多いのだから、あまり文句をいう気もない。
でも、だから俺は自分の小遣いなんてものを日々の生活費から捻出できない。いつ借金もちになるかわからないから、細々と生活するしかないのだ。
鷲見さんは、それを知っているのだろう。バイトの話は、鷲見さんから言って来た。そして、俺はそれに、甘えさせてもらうことにした。
そうやって、バイトを始めて一週間が過ぎた頃。落ち着いた雰囲気で、厳選されたインテリアと酒並びの豊富さに、ファッション関係や出版関係、芸能関係の人たちがよく訪れることはわかっていた。もともと、オーナーの鷲見さん自体が、出版関係の人だ。それで、俺の父親を知って、俺とも知り合ったわけだけれど。
でも、近場にあるバーにはきっと顔を出さないだろう、と俺は思っていた。プライベート空間に近いところで仮面を被りつづけるのは、余計に疲れるものだ。
「いらっしゃいませ」
そう頭を下げた俺に、ひどく険しい視線が降ってきて、俺は内心訝しげに思う気持ちを隠してにこやかな笑顔のまま顔を上げた。
東がいた。
驚いて、怒っているようだった。でも、いつもの作り物の藤原東だから、あまり良くわからない。
「東、どうしたの?」
するりと腕を絡めた女は、今ドラマで共演中の女優だ。テレビで見るより小さい。媚びた様子が、やはりどこか作り物の気がして、やはり俳優は大変だ、と俺は思った。いや、この場合女は大変だ、なのかもしれない。
東はなんでもない、とにっこりと笑いかけると、するりとその腕を解いて「行こう」と促した。そう言えば、あまり女優と噂にもならないな、と俺はまた考える。それもまた、藤原東方式だ。スマートで、大人っぽくて……あの夜とのギャップに、俺は可笑しくなって、それからひどく切なくなった。もう、思い出にしかならない。
週末だったせいもあって、店はわりと混んでいた。そんな中で東たち団体さんが来て、とりあえずつまみと一杯目のグラスを出すときまではいたが、俺は上がる時間になっていた。帰るのは申し訳ないと思ったが、鷲見さんから俺も、そして店長をしているバーテンの岸さんもきつく言われているために、すみません、と言いながら店を後にした。
外に出て見上げた空には、満月が一つ、ぽっかりと浮いていた。
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