home モドル 01 02 03 04 * 06
overflow 1
05
「イズルッ」
呼び止められて、振り向いた。その一瞬で、内心の動揺を隠すには十分だ。
東は走ってきたのか、俺の前に来ると、荒い息を整えた。バーから既に、わりと早足の俺の足で五分は歩いている。黒い革のパンツに同じく黒い革のTシャツ。すらりとした長身に良く似合うが、結構目立つ東に俺はため息をついた。繁華街とまでは行かないが、飲ませるお店がいくつかある通りだ。静かで品のいい店が多いが、そろそろ帰る客などで人通りが皆無なわけではない。
俺はさり気なく周りを見て、近くの路地に入った。とりあえず、電灯の届かないところにいたほうがいい。
「ばれたら面倒だろ。何してるんだよ」
走ってきて、名前を叫ぶなんて。それ以前に、入ったばかりのバーを抜け出てくるな、と俺は思った。それは東仕様ではないだろう。
「おまえが悪いんだろ。連絡しろって言ったのに、一向に掛けてこないから」
別に約束したわけじゃない、と俺が言うと、東はむっとした顔をした。それから、少し、傷ついた顔をした。薄暗い路地で、それはひどく頼りない。
「早くもどれよ。化けの皮、剥がれっぞ」
どこか責められているようで、居心地悪く視線を逸らす。それからそれを誤魔化すようにそう言うと、東が今度はため息を吐いた。
「そんなやわじゃないよ、残念なことに。おまえには、負けるかもしれないけど」
「お褒めに預かりまして。とにかく、戻れよ」
「戻らないよ。そう言って出てきたんだから」
何を言ったかは知らないが、その辺は如才なく言ったのだろう。俺は、ふうん、と言って歩き出した。
「ちょっと、イズル、待てよ」
「何?」
「家で飲もう」
は?と俺は結構間抜けな顔をしただろう。バーをさっさと出てきた奴が何を言う。
「連絡くれなかった罰として、俺に付き合いな」
「罰って何だよ。あれは東が勝手に」
また、傷ついたような目をする。それで、俺は途中で言葉を呑み込んだ。そんなのは藤原東らしくない、と思いながら、それは言えなかった。基準が、テレビの中だからだ。
ぽろりと、本当の東が零れる。それが、俺には少し羨ましかった。
「イズルは冷たいよな」
「なんだよ」
「あのな、わかってる分、互いの前でだけ武装解除が出来たらいい、と思ったんだ。その場所として俺は部屋を提供する。……いいと思わないか?」
武装解除。同じようなことを考えるものだ、と俺は思った。
「一人のときだけ、じゃなくて、誰かの前で寛げるって言うのがいい物だって、おまえが教えたんだ。責任取れよ」
「どんなだよそれ」
「あの部屋の中だけでは、俺もおまえも好き勝手にする。誰もそれを咎めないし、眉根を寄せたりもしない。何なら、部屋から出たらすっきり忘れる」
どうだ?というように突然覗き込まれて、俺は一瞬目を泳がせた。
とても、魅力的な提案だった。あの夜のように、感情のままに存在できる、他人がいる空間。
素のままを認めてくれる、誰かの目。
それは、傷を舐めあうに近いことだと、俺はわかっていた。たぶん、東もわかっていた。それでも、俺はつい、頷いてしまっていた。
アパートには、古いエアコンがついてはいる。でも、馬鹿にならない電気代に、決して快適ではない風が、俺にそれをつかうことを諦めさせていた。七月中は我慢が出来た。毎年我慢してるじゃないか、と思いながら、それでも八月も半ばになると、俺は暑さに根を上げていた。夏バテとまでいかずとも、食欲はないし、睡眠不足にもなる。
それなら家で寝泊りしろ、と言ったのは東だった。あの日から、俺はときどき東の飲みに付き合っていたが、憔悴した様子を心配してくれたのだろう。
「そこまではなあ」
確かに、俺の家とは違って直接に風を感じさせない東の家のエアコンは快適で、飲んで遅くなって泊まってもぐっすり眠れるし、勉強するにもいい環境だ。
ビール片手にそんなことを言うのも変だが。
「なんだよ。ここでは本音を出せって言っただろう。おまえがどうしたしたいか、それだけ考えろよ」
東は珍しく酔ったのか、どんっとビールの缶をテーブルに叩きつけた。開けたばかりの缶から、金色の液体が飛び落ちる。今日はビール大会だ、と世界各国のビールを買ってきて、珍しくビールだけでかなりの量を飲んでいる。俺はもともと、始めの一杯が美味しい、という口だからあまり飲んでいない。
「何やってんだよ東。あーあ。服染みになるぞ」
俺はまったく、と言いながらテーブルを拭いた。それから、一向に自分では拭こうとしない東にため息を吐きつつ、シャツに飛び散ったビールを拭こうと手を伸ばした。
「なんだよ」
ふいに手首をつかまれて、俺は眉根を寄せた。酔っているのに、その手はひんやりと冷たい。
目が合って、どきりとした。
ひどく真剣な目。でも、どこか縋るような色とそれを摩り替える強引な視線。柔らかな眼球が、無防備に素の東を見せている。
「さっきの答えを聞いてない。おまえは、どうしたいんだ」
「酔っ払いが。手を離せよ」
「どうしたいんだ」
引きそうにない東に、ため息をつく。加減のない力が痛い。
「ここは快適だから、東が良いって言うなら寝泊りしたい。せめて夏休みの間だけ……っておいっ」
ぐいっと手を引かれて、倒れそうになった俺は慌てて掴まれていない方の手を床につく。
ぐらり、と東が後ろにのけぞったのだ。そのまま、床に仰向けに倒れる。
「寝るなら手を離せ」
まったく、と小さく息をつきながら、俺はなんだか可笑しくて笑っていた。
夏休みも残るところ二週間で、俺は昼間は宿題の残りを快適な部屋で、夜はバーでアルバイトという生活をしていた。東は俺が荷物を持ってきた日に、ロケだとかで二、三日いないと言う話だった。
最初にぶち当たった問題は、東はどうやら全く料理をしない、ということだった。さすがに基本調味料はあったが、冷蔵庫など酒のためだけに存在していた。少しある食料はつまみなのだから、やはり酒のためだ。
節約生活の俺は、自分で料理をすることが多い。好きでもなければ嫌いでもなく。得意でもなければ不得意でもない。ただ一時母親がおかしくなっていたときは、実の弁当などは俺が作っていた。
実は、どうやら新しい父親と上手くいっているらしい。母親の再婚相手は本当にいい人で、実を連れて俺に会いに来てくれた。母親が俺を疎ましく思っていることもどうやら勘付いているようで、弱みに付け込んだのは私の方なのに、と言っていた。
とりあえず、俺はほっとしていた。実は可愛い弟だが、母親の被害者意識は会うたびに俺を苛立たせていたからだ。父親は結婚する前からあんな感じで、わかっていて結婚したのだろうに、と俺は思っていた。これは、俺が男だから余計なのかもしれない。俺は本当は、父親のことは密かに尊敬している。
東がロケから帰ってきた日はバーの定休日で、俺は料理をしていた。玄関からキッチンにやって来た東は、それはびっくりして、固まっていた。
「おかえり。何その失礼な反応は。俺だって料理ぐらいできるよ。誰かさんとは違って」
「悪かったな、まったくしなくて」
「冷蔵庫の中酒しかないんだもんなあ。普段どうしてるわけ?コンビニ、とはいかないだろ、東仕様じゃ」
東はくすり、と笑ってほとんど外で食べる、と言った。弁当がでるときもあるし。
俺のこの東仕様だの東方式だのという言い方を、東は面白がって気に入っていた。それなら俺はイズル仕様だと言うのだが、俺はもっと役割で分けているから少し違う。兄、元息子、優秀な生徒、アルバイト、そう言う風に言ったら、じゃあここではイズルだな、と東に言われて、俺は不覚にも泣きそうになった。
誰かが、こんな風に自分を認めてくれる。それが、とても嬉しくて。
思い出してまた胸の奥底で疼くものを誤魔化すように、今日は食べてきたのか?と俺は聞いた。
「なにー?」
東は着替えに言っているようで、奥の部屋から声が聞こえる。
「晩御飯、食べたのかって」
「え?俺の分もあるとか言う?」
「肉じゃがもお浸しも元々多めに作ってあるし、あとは魚を二人分焼けばいいだけだからな。食べるなら」
食べる、と元気な声が返ってきて、俺は思わず笑ってしまった。もしかしたら、とは思っていたのだ。寝泊りの代賃変わりに、少しぐらい何かをしたかった。
それを言ったら、東がまた傷ついた目をする気がして、言わなかったけれども。
home モドル 01 02 03 04 * 06