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「なんで?」
そう電話で言われて、俺は沈黙してしまった。東からの電話で、外でご飯を食べよう、というものだった。それを俺が断ったのだ。
「用事がある?」
「そうじゃないんだけど」
歯切れの悪い俺に、東が少し苛々しているのがわかる。東はわりと強引で、我侭だ。でも、俺は頑固で臆病だ。
昨日の今日で、俺は一緒に外を出歩くのを躊躇っていた。いくら東が馴染みにしている店でも、俺も一緒に行ったことのある店でも、誰が居るかはわからないのだ。
外にいるときは、東もさすがに距離を変えてくる。すごく親しい友人とは思えても、それ以上にはならないように。それなのに、それさえ警戒するのは、考えすぎだと俺も思う。
ああ、と俺は天を仰ぎたい気分だった。
失いたくない。そう思ってしまうような存在を持つことに、俺はずっと怯えていた。あのとき、東を追いかけて、その手を取ったとき。
そのときには、もう遅かったのだとしても。
俺は人気のない昼休みの廊下で、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
「イズル?家には帰れそうにないんだ。だからちょっと出てきてくれると嬉しいんだけど」
やっぱり駄目なのか、という東に、俺は「ごめん」としか言えなかった。それに、今度は東が沈黙した。
膝を抱えて、どうしたらいいのだろうと考える。
一体、どうしたら、俺は安心するんだ。
「……わかった。また連絡する」
ああ、と頷くと、東は小さくため息をついた。それが、安堵のため息なのか、それとも諦めのものなのか、俺にはわからなかった。
じゃあまた、と東は電話を切った。
天井を仰ぐと、はあっと、知らずため息が出た。座り込んだ廊下から、ひんやりとした空気が背中を這い上がる。
どうしたら、いいんだろう。
諦めないように、傷つくことを恐れないように、突き進むためには。
いつまで、進んでいけばいいのだろう。
いつになったら、恐れずに済むのだろう。
予鈴が鳴ったのが聞こえて、俺はのろのろと立ち上がった。ばたばたと、足音がする。
嘘みたいだ、と思った。
東はスクリーンの向こうにいる。女の子達は憧れとして、遠い人間のように東のことを話す。その彼女達と一緒に、俺はこれから授業を受けるのだ。
東は、今ごろスポットライトに照らされている。
俺は曇り空に薄暗い廊下を歩き出した。
いつになったら、この関係は「絶対」になるんだろう。
それからしばらく、東には会えなかった。そうやって離れていることに、俺はあまり不安はない。東が仕事だと言っているのだ。俺はそれを信用していればいいだけの話だった。
怖いのは、そんなことじゃなかった。人の心が変わってしまうのは仕方ないと、俺は両親のことで思い知っている。それはもちろん、哀しいことだ。そんなことにはならないで欲しいと、心の底から思う。でも、それは怖いことじゃない。
怖いのは、東を傷つけてしまうことだった。その部分だけは、俺は「東」と俳優の「藤原東」を、分けて考えることはできなかった。
何かあったら、東は絶対に傷つくのだ。もし真実を言えば、東はその名を傷つける。優しい東のことだから、自分が矢面にたって、嫌な思いをすることになるだろう。もし嘘を言えば、そうやって誤魔化したこと、そのことに、東はきっと傷つくのだ。
どうしたら、今の俺たちを守っていけるだろう。
最近は、そんなことばかり考える。それが俺を臆病にして、東と外で会うことを躊躇わせていた。つい先日の土曜日も、東が「一ヶ月近く会っていない」と言うまでは、断ろうかと考えたほどだ。
一ヶ月と言われて、俺もさすがに会いたくなった。それだけ間が空いていれば、大丈夫だろうとも思った。
会ってしまえば、俺の心配は他愛がないと思う。でも、そうして幸福な時間を過ごした後、こうして一人の夜を過ごしたりすると、つい考え込んで不安になる。
俺はカップラーメンにお湯を注いで、小さく嘆息した。久しぶりに帰ってきた親父は、今晩は鷲見さんと飲みに行っている。親父がいるなら腕を振るうが、いないなら手を抜くだけだ。
今回は新しい写真集の編集もあって、親父の滞在は三週間という長いものだったが、それももう二週間が過ぎようとしていた。
俺が夏休みに入る頃に再び旅立つ親父は、珍しく一緒に行かないかと聞いてきた。小さい頃はときどき連れて行ってもらっていたし、母親と別れたときは、「行くぞ」と一言言われて、グアム諸島の小さな島に連れて行かれた。不器用な親父なりの、謝罪だったのだろう。
あのときの、海に沈む太陽は、忘れられない。光る海も、柔らかい光も、温かい風も。そうして、ただじっと海を見ていた俺を、やっぱりじっと待っていた、親父のことも。
今回の旅は、水のある風景を探す旅なのだという。最近来た仕事で、雑誌の連載小説の挿絵代わりに親父の写真が飾られるのだ。
水のある、という言葉に俺は少し惹かれた。まずは国内で、そのあと少し、海外にも行くらしい。
受験のことも何もかも忘れて、水を探す旅をする。逃げなのか、前進なのか、わからない。
考え込んでいるうちに伸びてしまったラーメンを食べながら、ぼうっとテレビを見ていたら、思ったより早く親父が帰ってきた。鷲見さんはバーのマスターらしく、酒には強い。親父はあまり強くはないが、久しぶりで嬉しいのか安心するのか、結構酔った親父を鷲見さんが送ってくるのがいつものことだった。
「何?早いな」
「おまえ……カップラーメンか。そんなんだったら、飯だけでも一緒に食べにくれば良かったのに」
そんなお邪魔虫はしたくない。会って飲むのを楽しみにしているのを知っているのだ。俺は肩を竦めた。鷲見さんは、俺より親父の帰国日に詳しかったりする。
親父はそれでもやはり酔っているのか、少しだるそうに座布団に坐った。お茶かコーヒーか聞くと、お茶を飲むという。そう言うときは、大概日本酒を飲んできたときだ。
俺は自分にはコーヒーを淹れて、少し何か考え込んだような親父の前にお茶を置いた。何かあったのだろうか、とちらりとその顔を見ると、親父はゆっくりとお茶を一口飲んでから、ふいっと俺を見た。
「なあ、イズル」
親父の目は酔ってなどいなくて、真剣だった。俺はそれに、少し緊張した。何か、あまり良くない話の気がした。
「なに?」
「今日は誤魔化さないで、答えて欲しい。おまえ、誰か付き合ってる人間がいるだろう?」
俺は一瞬何も言えず、ただ親父の顔を見つめた。どうして、そんなことを言うのか、わからなかった。
「前にも言ったが、誰であっても俺は何も言わない。反対はしない。今のおまえを見てれば、それがどれだけいい人なのか、わかるからな。なあ……俺の知ってる人だろう?」
確信めいた口調に、俺は動揺した。知っている。親父は、知っているのだ。だが、自分から言えと言う。
「どう、して……」
「ちゃんとおまえの口から言って欲しい。どういう、付き合いなのか。どう、思っているのか。それを、ちゃんと聞かせて欲しい」
喉がからからに渇いていた。
考えていなかったわけじゃない。いつか、言わなければならないと思っていた。でも、俺は今は自分の気持ちだけで精一杯で、ちゃんと話せる余裕がなかった。
「どうして」
同じ言葉が、零れる。なぜ、親父はそのことを知り、なぜ、それを今言うのだ。さっきのセリフから言えば、以前から知っていたのだろうに。
「イズル……自分で、掴んだんだろう?」
俺は情けなくも揺れる目で、親父を見た。何もかも受け入れるかのようなその目に、俺は何度も頷いた。
「いつの間に好きになって……あいつの傍なら、俺は何も誤魔化さなくて良い」
「藤原 東だな?」
どうしても名を言えない俺に、親父が助け舟を出す。俺はこくりと、頷いた。
「すごく安心できて、あの場所を、失いたくなくて……」
俯いた俺の頭を、親父の手がぽんぽんっと叩いた。顔を上げると、そこには少し困ったような、哀しいような表情があった。
「そう言う場所を見つけられたなら、おまえは幸運だ。俺は――絶対に、何があっても、おまえの味方だから」
「親父……?」
「ただ、大事なら、守らないと駄目だ」
親父はそう言って、傍らに放り投げてあったバッグを手繰り寄せた。そこから、白い封筒を出すと、その中身を俺に差し出した。
写真だった。親父が撮ったものかと受け取った俺は、直後にそれを落としてしまった。
身体が、震えた。拾い上げようとして、指が震えてできなかった。見てはいけないと、思った。
「写真というのは恐ろしい。かなり写りは悪いが、見る人が見ればわかる」
そこには、俺と東がかなり仲が良さそうに寄り添っている光景が写っていた。いつか連れて行かれたクラブの写真で、暗い中の隠し撮りのため、確かに写りは悪い。
「これ以上の確信が持てる写真はなかったそうだ。だから、記者も仲が良いだけのことだろうと結論付けた……だが、おまえはマンションにも出入りしていて、顔を覚えられている」
ぞくりと、背筋に何か冷たいものが伝った。思わずコーヒーに手を伸ばしたが、小さく震える手では、カップを持つことは出来なかった。
「親父は、どうしてその写真……」
「鷲見だよ。あいつはこう言う関係にも顔が広いからな。今でも、おまえは鷲見のところでバイトはしてるんだろう?この記者がおまえのことを調べたなら、鷲見にも辿り着く」
俺ではなく、東を付けてもわかることだ。東は俺がバイトで自分が暇なときは、必ずearshotに来る。付け狙っていればわかることだ。
目の前が、真っ暗になった気分だった。東だけじゃない。鷲見さんにも、そして、親父にも、迷惑を掛けているのだろう。
「イズル……いいか。俺はおまえの味方だ。鷲見ももちろん、そうだ。二人のことに、反対なわけじゃない。だからこそ、気をつけて欲しいんだ。俺は、おまえ達が傷つくのを見たくないんだよ」
親父は、自分のことは何も言わなかったが、俺のことを調べたなら写真家、名瀬静己の息子だとわかってしまっているはずだ。それが、親父の邪魔にならないとも限らない。
怖かった。
そんな風に、東や親父の障害となりうる自分が、恐ろしいものに思えた。
どうしたら。
何も傷つけずに済むだろう。
東も「藤原東」も、親父も、鷲見さんも。
親父は、じっと俺を見ていた。縋りたくて仕方がなかったが、これは自分の問題なのだとわかっていた俺は、唇を噛み締めて、頷いただけだった。
桜の花が舞って、ふいに俺を見た東を、思い出す。
狂おしいほどに好きだと思った。
それなのに。
散る桜が、なぜ、あれほどに哀しかったのだろう。
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