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その夜、俺はずっと煙草を吸いながら、静かな道を見ていた。俺の狭い部屋から、頼りない街灯に照らされたアパートの前の道が見える。窓を開け放していても、それほど寒くはなかった。
ひと月に一箱も減らない煙草が、見る間になくなっていく。最近は吸っていなかったから、火の点きが悪かった。
暗い中、俺はただ外を見ていた。煙を吐き出しながら空を見たら、か細い星の瞬きが見えた。都会にあっては、目を凝らさなければ見えない光だ。煙草の先の火と、変わらないのじゃないかと思った。
山奥に行ったら、もっと降るような星が見えるだろうか。
もっと静かで、安らげる場所があるだろうか。
そこでひっそりといれば、俺は何も傷つけずに済むだろうか。
誰かと関わるというのは、多少なりとも何かを傷つけることなのだと俺は思った。
母親も、俺に傷つけられたに違いなかった。再婚して精神が安定したのか、この間電話が来て、ごめんねと、謝られたのだ。その一言だけで、後は何も言えなくなったようだった。たぶん、泣いていたのだと思う。
母親も、辛かったのだと知った。親父は帰ってこないし、それなのに俺はそんな親父の味方をするようなことを言った。親父が帰ってこない間、俺を育ててくれたのは、確かに母親だったのに。それを忘れて、俺は、親父を捨てたんだと軽蔑に近いものをどこかで抱えていた。そうやって、傷つけたのだ。
結局そのことで、実も傷つけた。今でも、会いたいといわれると躊躇する俺がいる。あの手を離した、後ろめたさに。
煙草を挟んでいる右手の掌をなんとなく眺めた。
この手に何かを握ってしまったら、それを離すとき、誰かが傷つく。それは相手かもしれないし、自分かもしれない。――両方、かもしれない。
そんな風にずっと外を見ているうちに、遠い空が明るくなってきて、俺はその頃になってようやく布団に潜り込んだ。
眠かったわけではなく、その朝の光に耐えられなかったのだ。何もかもを照らし出す、その光が。
だから布団を頭から被って、俺は少しだけ、眠った。
親父の旅支度は、とても簡単だ。カメラとフィルムと、小さなノート。それだけあればいいのだといつも言う。それから寝袋と少しだけ着替えを持って、親父はまるで近所に行くように旅に出る。
そのカメラの手入れをしている親父の背中に、俺はドアに寄りかかって声を掛けた。あの晩から三日が経っていた。
「なんだ?」
「うん……今回、何処に行くんだっけ?」
「最初は国内の滝か湖を撮ろうかと思ってるんだが……あとは川とその源流もいいと思ってる。最初の一ヶ月はそれだ。それから、アジアを回って、そっちは少し生活に近いところでの水の風景を撮ろうと思ってる」
そうやっていくつも撮って、その中から毎回小説に合うような写真を編集に選んでもらうのだという。アジアの旅は、それとは別の写真も撮ることになるだろうが、と親父は付け足した。
「どうした」
ふいに、レンズをひっくり返したりしながら見ていた親父が振り返った。俺はその目から視線を逸らして、俯いた。
「……連れて行ってくれないかと思って」
俺の言葉に、親父が少し目を眇めた。
「迷惑ならいい」
「いや。俺も一回誘っただろ?あの時は全然興味なさそうだったのに、どうしたのかと思ってな……」
親父は、多分わかっているのだろう。俺がついていきたい、その理由を。
逃げなのだ、とこの時はっきりわかった。でも、これ以外に良い方法が俺には見つからなかった。
逃げることで、前進することはないのだろうか。
「そう言うつもりで、俺は誘ったんじゃなかったんだけどな……もう一回、考えろ。それでも行くというなら、来たら良い」
出発は、二日後だった。夏休みまでまだ一週間ある。だが俺はもう、担任に話はしていた。突然で驚いていたが、将来のことも考えて父親の仕事場を見て勉強したいのだと言ったら、なんとなく納得してくれたらしかった。考えろというのなら、何度も考えたのだ。あの晩から、毎日。
俺は頷いて、でも決まっている答えに、一人、旅の支度をした。親父を見習って、荷物は少なくする。
将来のことを考える、と担任に言ったのは、決して嘘ではない。俺は将来について考えたことはなく、これからのことを考える、良い機会だと思ったのだ。すべての、これからのこと。
東とのことも、考えるつもりだった。
でも、出発前日、その必要はなくなったのだけれど。
一緒に旅をすることを考え始めた日から、俺は冷蔵庫の中身などは考えて買い物をしていた。だから前日は、冷蔵庫に大したものはなくて、二人で食事をしにいった。そのときも親父は何も言わなかった。
その帰りに親父がコンビニに寄ると言って、俺はなんとなく雑誌コーナーを見た。東のことが頭にあったからだろう。ファッション誌の表紙を飾っていることも多い東の姿を探したのかもしれなかった。
でも、飾っていたのはファッション誌の表紙ではなくて。
思わず、じっと見てしまった。センセーショナルな見出しの、大きな黒いその文字を。
『藤原東に、恋人発覚!』そう書かれた文字は表紙の中では一番大きくて、スクープなのだとわかった。どきりとしたのは一瞬で、俺は思ったより冷静に、その雑誌を手に取った。
相手は俺じゃない。だが俺も知っている人だった。可愛くて、でもやっぱり「歌手」という外面に少しばかり泣いていた、間宮さんだった。写真では東ははっきりと写っていたが、間宮さんは大きなサングラスもかけているし、かなり顔を俯けているのでわかりずらかった。でも、両者の事務所に問い合わせた様子が載っていて、ノーコメントだと言った事務所の対応は、つまりは肯定を表わしているに違いなかった。
どんな経緯でこんな記事が載ることになったのか、いろいろ考えられると俺はわかっていた。でも、もう、考えたくなかった。
どうしたって駄目なのだと、これが嘘でも真実でも、俺たちの関係は危ういものなのだと、突きつけられた結果だった。
嘘ならば、そうしなけらばならなかった原因を考えなければならなかった。
真実なら、俺たちは終わったということだった。
どちらにしろ。
俺はもう、東の隣にいるわけにはいかないのだ。
親父がレジに並んだのが見えて、俺はゆっくりとその雑誌を戻した。
それから部屋に帰って、俺はあの親父に写真を見せられた晩からずっと切っていた携帯の電源を入れた。
東から、何通かメールが来ていた。
会って、話がしたい。
どうしても、話がしたい。
少し切羽詰ったようなメールに、俺はあれはやはり嘘の記事なのかも知れないと思った。
でも、関係なかった。あれが嘘でも真実でも。
俺は一言だけ、東に返信した。
ありがとう、と。
それしか、言葉がなくて。
翌朝、俺は小さなバッグと親父のフィルムの入ったバッグを持って、部屋を出た。親父は何も言わずに、歩き出した。ひどく出来の悪い息子を見るような目をしていたが、しかたないと、苦笑してもいるようだった。
まだ早朝で、空気はひんやりと冷たかった。
東と二人で迎える朝、東は起きると窓を開け放つ癖があった。清々しい空気に、一日を始める覚悟が出来るのだと言っていた。その静かできっぱりとした空気の中の東は、いつも綺麗だった。窓枠に両手をついて、外を見るその身体は、とてもしなやかだった。
東。
一番、傷つけたくなかったのに、もしかしたら、一番、傷つけるかもしれない。
俺は多分、自分が一番かわいくて。
臆病というのは、そう言うことなのだと思う。
でも、これ以上深い傷を作るようなことは、したくなかった。
今なら、まだ浅い傷ですむ。
何もかもを、壊さないですむ。
広げた掌に、光のかけらが残るとしても、そんなものはいらない。
それならば、俺は両手が空っぽのままでも、その光があるべき場所で輝いているのを見ているほうが良かった。
――東。
それでも会えたことを、俺は後悔していない。
だから、ただ、ありがとうと伝えたかったんだ。
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