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加速する日々 04

 立ちすくむ影を見つけて、笠木は一瞬どきりとする。それから、逃げようかと思ったが、それも出来ずに、見つかってしまう。
 どうしていつも、自分に気付くのだろう。
 他の生徒のときは、とことん無視するのに、笠木を見つけたときだけは、友江は視線をきっちりと合わせる。そうなったら、笠木は逃げられないのだ。
 もう下校時間はとうに過ぎていて、辺りは真っ暗だった。非常灯のぼんやりとした、頼りない光だけが、目の端に映っている。友江はきっと、帰るところだったのだろう。
「先生、いいタイミングだね。ねえ、靴かしてよ」
 薄明かりの中、友江が値踏みするような目で、にやりと笑う。この、友江の掌で踊らされているような、居心地の悪い眼が、笠木は嫌いだった。
 だから、少しだけ、ほんの少しだけ、生徒たちの気持ちがわかるのだ。
「靴?」
「そう」
 俺のないんだよ、と友江は言うと、ぱかりと下駄箱を開けてみせる。そこには確かに、何もなかった。
 またか、と笠木は思う。また、隠されでもしたのだろう。
「ちゃんと探したのか?間違ってどこかに入ってるとか……」
 そんなはずがないことを知っていながら、笠木はとりあえず言ってみる。それから、近くの下駄箱の中や、ごみ箱を見てみるが、どこにも靴はなかった。
「本気でそんなこと考えてんの?馬鹿だな。あるわけないじゃん。ごみ箱になかったら、焼却炉だね。もう燃えて灰になってる」
 友江はまるで他人事のようにそう言うと、薄く笑った。自分を馬鹿にしているのか、靴を捨てた生徒を馬鹿にしているのか、笠木には判断できない。
「だからさ、いつも言ってるだろ?俺は泣き喚いたりしないし、登校拒否なんてこともしない。先生の迷惑になるようなことはしないから、そのかわりに――」
 友江が、そう言って笠木の頬をするりと撫でる。それに笠木は、小さく口を開いて何かを言おうとしたが、無駄なことだとわかっていて、すぐに閉じられた。
 始まりは、同情だったのか、それとも友江の言うような口封じだったのか、よくわからない。いや、今でも、笠木はどうして許しているのか、わからないでいた。
 やはりこんな放課後だった。ばらばらになったノートが机の上に置かれていて、友江がぼんやりと外を見つめていた。
 正直に言えば、困ったな、というのが最初の印象だった。友江があまりクラスに馴染めていないのはわかっていたが、それだけだと思っていたのに。
 教師になって三年目で、そろそろ慣れてきた頃だった。きっと新任だったら、そのときに騒いだかもしれない。でも、学校と言う色に染まったあとでは、自分のリスクと立場を素早く計算するようになっていた。
 友江は、そんなこともわかっていたのだろう。笠木が、面倒な生徒を受け持ったと思っていることも。
 どうして自分が転校してきたか、知ってるだろ?と、最初のときに聞かれた。にやりと笑ったその顔と、下半身の異物感を、はっきりと覚えている。笠木は何も答えなかったが、それが肯定だと取られたとわかっていた。
「あ、そう言えば今日はローション持ってないんだよなあ」
 無言で笠木を従えていた友江が、理科準備室のドアを開けてそう呟いた。そのまま、そんなことは問題ではないと言うように、中に入っていく。笠木はその後から準備室に入ると、長いため息を吐きながらドアの鍵を閉めた。友江のこんなやり方は、笠木を傷つける。無理やりでもなく、まるで笠木が自分から求めているかのように連れて来て、こうして部屋に入るときでさえ、促しもしない。
 本当に怖いのは、友江なのかも知れないと思う。陰湿ないじめを繰り返すあの生徒たちではなく。それを使って、こうして笠木を弄ぶ、この男のほうが。
 理科準備室が三つもあるこの学校では、この準備室は主に笠木が使っていた。化学の教師はほかにもいるが、理科室から遠いこの準備室は使っていない。それをどこから聞いたのか、友江は必ずこの部屋でやる。少し薬品の混じった匂いが、笠木に教師と言うものを思い出させた。
 友江はふらりと机の上に座ると、手元の紙を何となく手にとって眺めている。初めこそは笠木に色々と指示を出してはやらせていたが、この頃は何も言わない。笠木が手を出すのを、待っているのだ。笠木は笠木で、早くやらなければ後で自分が大変な思いをすると知っているから、一瞬だけ迷って、すぐに諦めることにしていた。
 その一瞬で、プライドとか、立場とか、不安とか――そういうものを捨てるのだ。
 ゆっくりと友江に近づくと、笠木はその足元に膝をついた。それから制服のズボンのチャックに手をかけると、すっとおろす。目の端で見える範囲では、友江はその笠木を見てはいなかった。すっと隣の本棚に左手を伸ばして、何か本を取り出したのがわかる。こういうことをするなら、まだ卑猥な言葉を吐いていてくれる方がいいと、笠木は思う。でもその心中を知っているかのように、友江は本を読み出したりするのだ。
 友江に悟られないように心の中でため息を吐くと、笠木は目の前の布に隠れたものを取り出す。もう、このグロテスクさにも慣れた気がした。これからこれを、さらに醜いものへと変化させなくてはならないのだ。自らの、口を使って。
 耐え難いのは、そうして自分で変化をさせているうちに、身体の奥が疼き始めることだ。それが醜くなればなるほど、自らの熱も高まっていく。入れもしないうちから、自分の後ろが形をなぞっている気がして、耐えがたくなる。
 耐えられないのは、そう感じる自分なのか、それとも――
「先生、なんで今日白衣着てないの?」
 ふと思いついたように、友江が本から顔も上げずに言う。自身は少しずつ反応し始めているのに、涼しい声だ。
「帰るところだったんだ」
 言って、先をぺろりと舐めると、満足そうにぴくりと動く。
「ふーん。良かったね。楽しい思いができて」
 友江がそう笑う。そんなはずがないとわかっていて、そう言うのだ。笠木はそれには何も言わずに、再び舐めることに集中した。
 手を抜けば、逃げようとすれば、後でさんざん泣かされるのは、最初の数回で覚えたことだ。そう言うときは容赦がなく、もはや快楽ではない恐怖を味わうことになる。そんなときに思うのだ。本当に怖いのは、友江のほうだと。きっと、今の生徒たちのいじめなど、可愛いものなのだろう。そう思ってもなお、笠木はいじめを止めさせることも出来ず、友江から逃げることも出来ない。
 もう、逃げられない気がしている。
 食い散らかされ、骨となるまで、もう、きっと――


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