サイレント・ノイズ 第一話
――眸ノ記憶――
「もし」というならば、パリだって壜に詰められる。(フランスの諺)
01
目標物:No.717赤い髪。灰色がかった目。名称……
名称、カイ
レベル5、レベル4、レベル3、レベル2、レベル1、レベル0……
「……っと」
地上に出てすぐ、カイは防護も兼ねたマスクをはずした。追っ手の足音は、レベル3位から聞こえていない。もともとカイのスケーターは改造してあって、普通より軽く、かなり高く飛んだり、速く走れたりするのだ。その上、カイは良く、ねずみのようだと舌打ちされるほど、小回りがきいている。
スケーターを靴仕様にして、カイは久々の地上を鼻歌交じりに歩き始めた。今回の仕事は、簡単なわりに値が張る。既に噂を聞きつけた連中が、二件ほど買取の交渉をしてきていた。
地上は、いつでも春だった。人工的に調節された温度や湿度によって、絶えず花が咲き乱れている。これもまた人工的に調節された太陽光が、夕景を映し出していた。
絶えた言葉が、たくさんあるんだよ。
そう話して聞かせてくれた祖父のことを、カイは地上に来るたびに思い出す。昔は、日が長いとか、短いとか、言ったのだとか。春一番と言う風が吹いたとか、台風とか、時雨とか。
今は全て管理されていて、日はきっちりと半分ずつ。雪も人工的に作られたものしか見たことがない。この天空から落ちてくるなど、想像も出来なかった。街では、今夜は雨を降らせると知らせが出ている。
それならば、今日はこのまま地上にいようか。
カイはそう思って、宿をとることにした。カイは、雨の夜が好きだった。空々しく巨大プロジェクターで映し出された月も星もなく、人工的といえども、まるで本当に雨が空から落ちてくるかのように錯覚できる、夜。
一秒の狂いもなく日が落ちると、街はたちまち光に溢れた。安宿に泊まるために、いかがわしい雰囲気たっぷりな繁華街を歩いていると、あちらこちらから声がかかる。
たまには、女を買っても良いかな。
カイはそう思ったが、まだ今日の情報が売れたわけではない。その情報の詰まったチップを持ってもいるし、今夜は大人しく雨を見ていよう。これが売れたら、存分に楽しめばいい。
そう考えて、カイはしなだれかかってくる細く白い腕を解きながら歩いた。最近この辺は、東洋系なのか西洋系なのかわからない女が多い。
いつも泊まる宿につくと、カイはそれでも今日の褒美にとビールを飲んだ。窓際に腰掛けて外を眺めていると、やがて、雨が降り始めた。
久しぶりに、朝日に起こされる。カイは地下のレベル30区域にねぐらを持っているから、滅多に朝日は拝めないのだ。レベル0の地上で朝日が出る頃、天井に明かりが点されるだけだ。それはチューブのようになっていて、空のように高さはない。全体的に明るくなりはするが、温かいオレンジ色の光を放つ朝日とはやはり違うな、とカイは思った。
ぎしぎしとなるいまどき珍しい木製の階段を下におりていくと、何人かの客が、もう朝食についていた。最近安くて栄養の高いカプセル食の多かったカイは、珈琲やトーストの匂いに、思わず舌なめずりする。地上はやはり、豊かだ。
「昨日の銃撃戦、聞いたか?」
「あぁ。白昼の惨劇だろ?何人死んだって?」
「国側が一人、連合側が二人、巻き添え食らった民間人が二人」
「ひでぇな」
隣のテーブルの二人組みが、ひそひそと話しているのを聞いて、カイは顔見知りの初老の宿主が食事を運んでくるときにたずねた。
「何かあったんですか?」
昨日は一日、仕事のためにニュースも見ていない。
「東区で例のごとく小競り合いからの銃撃戦があってね。やるなら、誰もいないところでやって欲しいものだがね」
宿主はそれだけ言うと、珈琲のおかわりを催促する客のために立ち去った。カイは、ふーんと呟きながらトーストを齧る。ここのところ、少し大人しくなっていた連合側が、また動き出したのだろうか。彼らはカイの重要な客にもなりうるから、カイとしても動向を知っておきたいところだった。
三度目の世界大戦に参戦しなかったこの国は、闇の武器取引によって、巨額の財産を手に入れた。そして、この強大な帝国を築いたのだ。その後の四度目の大戦では、世界が核兵器によって全滅しようというときに、このシェルターによって生き長らえた。それはひとえに、現総裁の父であった、弦武総裁(げんむそうさい)の手腕と呼べるだろう。手に入れた財産を使っての、技術者の招聘。あくまでも中立を保った、二度の大戦。影では何をしているか分からないが、表面上は彼の判断は正しかったのだ。
それでも、二度目の大戦後に流れてきた移民がこの地に慣れ親しんでくると共に、民主化の波がこの国を襲ったのが、カイが生まれた頃のことだった。その内戦で、カイは両親を亡くしている。父親は国外の人間だったようで、カイにもその面影が残っていた。
普段は黒く染めているが、薄茶色と言うより赤みがかった髪の毛に、光によって灰色に見える瞳。顔の作りも、どちらかと言うと西洋系かもしれなかった。
色が白いのは、生まれてからずっと、地下で暮らしていたからだろう。レベル0区域は金持ちか名ばかりの政治家たちの専売特許で、両親もなく、年老いた祖父母に育てられたカイの住めるような場所ではなかった。
何度も繰り返される内戦は、地上の機能を全面的に握った国に他国から来た移民が勝てるわけがなく、いまではゲリラ戦のようになっていた。それでも、絶対的権力とカリスマ性を持っていた前総裁が崩御した後は、連合側も再び力を盛り返していたようだった。
とにかく今は、こいつをどうにかしてしまおう。
カイは奥歯の偽歯の中に隠し持っているチップを、舌で触る。と言っても、チップは完全に歯の中に収まっているから、触れることは出来ない。たった二ミリ四方のかけらには、S社の次の新製品開発の情報が詰まっている。シェルター機能に関するその新開発は、このまま行けばS社と国の独占契約となるはずだった。
「おい、久しぶりだな」
珈琲をおかわりして、昨日のニュースをコンパクトテレビで見ていると、後ろから肩を叩かれた。ふいと視線を上げると、梅(メイ)の組織――梅花(ばいか)――で働いている情報屋だった。さらりと金髪がゆれる。地上に出るときは光が強いからと、サングラスをいつもつけているこの男は、ジェイクと言って、梅花の中でもトップクラスの情報屋だった。そのサングラスをはずして、碧眼が現れると、カイはつい、笑みを零した。彼らも今回の情報を狙っていたはずだ。
「地上では、ずいぶん会っていないな」
「地下でだって会ってないだろ?ボスが寂しがってたぜ」
にやりとジェイクは笑うと、カイの目の前にそのガタイのいい身体を椅子におさめた。それから、煙草を一本すすめてきた。カイはそれを、ありがたく受け取る。地上で吸う煙草は、閉塞感がない分、格別に上手い。
「ま、色々忙しいようだな」
煙を一吹きしてから、ジェイクが呟くようにそう言った。カイはその言い様に、煙を吐き出しながら小さく笑った。このジェイクと言う男は、あまり油断ならない。昨日情報を掻っ攫ったのが、カイだと知っているのだ。カイは、この男をちらりとも見ていないと言うのに。
「そう言えば、そっちはずいぶん可愛らしい新人が入ったって言うじゃないか」
カイはふと思い出したように、にやりと笑う。ジェイクがその新人の教育係だと聞いていたのだ。そして、その新人はジェイクに嫌になついていると梅花の他の情報屋が笑っていた。
「今日は一緒じゃないのか?」
「まだ足手まといなだけだからな」
なんだ残念、とカイは笑った。それがジェイクは面白くない。大体、組織の人間でもない奴がそんなことを知っていることがおかしいのだ。梅花の人間は、まったくカイに甘い奴が多い。自分も、含めて。
「だいたい、俺が組みたいのはお前だって何度も言ってるだろうが」
ジェイクがそう言って、目元を甘くする。この目で、何人の男女がひれ伏してきたのだろうと思うと、カイは苦笑せざるをえない。
「俺は誰とも組まないよ。それにジェイク……そんな目してるから、新人君にもなびかれるんだよ」
カイがそう言うと、ジェイクは鼻で笑う。そんな目と言いながら、自分は一寸足りともなびかないくせに。
「さてと、俺はそろそろもぐるかな。カイ、奴らしつこいから気をつけろよ」
最後のほうは声を小さくして、ジェイクが呟くようにそう言った。まったく、自分もカイに甘い。
「どうしたんだよ」
「何が」
「優しい」
カイがそうにっこりと笑うと、ジェイクは照れたように横を向いた。そう言う顔に弱いと知っていて、カイは微笑むのだから性質が悪い。
「俺はいつだって優しいだろ」
そういい捨てて、ジェイクはくるりと背を向けた。カイがその背に、ひらりひらりと手を振った。
ジェイクの言うことを、軽く受け止めたわけではなかったが。
まずったな。
とカイは思った。地下への入り口はそこかしこにあるのだが、カイはそのまま交渉に出かけようとして、宿のある北区から南西区まで足を伸ばした。そこが一番、この情報を買ってくれることになっているN社ともO社とも近かったのだ。どちらに売ることにするかは、道々決めようと思っていた。金額は同額だから、これからどちらの会社が伸びるかを考えたりしながら。
そんな風に考え事をしながらスケーターで滑っていたら、周りの少し異様な雰囲気に気づくのが遅くなってしまった。
入り口に五、六人。どの道も塞がれてるな……
一番の手薄は、南東方向。二人ほどなら何とかなる。それに、カイは地下への入り口をほとんどすべて把握していた。地下に入りさえすれば、それこそカイの庭みたいなものだ。勝算はあった。ただし、相手が気泡銃をもっているのが、カイに動くことを躊躇させた。何気なく方角を変えて、南東方向へ進む。スケーターを高速に設定して、思い切り蹴りだした。途端、後ろから気泡銃の音がしたと同時に、背中に大きなショックを受ける。カイはほとんど無意識で、細い路地に入り込んだ。が、それからすぐに、気を失って倒れてしまった。
何か、温かいものに包まれたのは覚えている。それはやけに安心できて、カイは気を失いながら、気持ちいいなぁ……などと呑気に思っていた。