サイレント・ノイズ 第一話
――眸ノ記憶――
02
ぼんやりと目を開けると、一瞬ぐるりと世界が回った気がした。それで、カイはまた目を閉じた。でも、そばで誰かが動く気配がして、重たい瞼をこじ開ける。カイは、自分が眠っているときに、他人が動くと言うことになれていない。誰かと行きずりのように肌を重ねあった夜が明けるときさえ、相手より先にカイは目を覚ましていることが多かった。それが、祖父が亡くなって以来と言うことは覚えている。
「気が付きましたか」
にっこりとそう笑ったのは、黒い艶やかなストレートの髪を持った、完全東洋系の美しい男だった。カイは起き上がろうとして、声も出せずに顔をしかめた。
「お医者様がタフだとおっしゃってましたよ。あれだけ近距離で気泡銃を受けながら、軽いうち身ですんだのですから」
軽いと言われても、背中は痛い。カイは諦めたように、頭を枕に沈める。品のいい男だ。跡から身につけた品のよさではなく、先天的なものを感じる。カイは、こういう男が好きだ。
「ここは?」
「ホテルです」
それは、部屋の装飾を見ればだいたい見当がつく。カイなどとてもじゃないが泊まれない、高級ホテルだ。
「警戒なさらずとも。私はあなたを助けただけですから」
男がにっこりそう笑うと、カイは思わず視線をずらした。この男の笑顔には、なんだか照れるのだ。
「えーと……ありがとうゴザイマス」
とりあえず、カイもにこりとお礼を言う。布団は温かいし、寝心地は抜群だ。たとえ彼が敵だとしても、今はどうしようもない。逃げる算段は、もう少し待とう。
カイがそんなことを考えているときに、蘇芳(すおう)はその髪に触れてみたくてたまらなかった。ふわふわと柔らかいその前髪に隠れた、きつい瞳。こちらから見ると、その瞳がすこし灰色がかっているのが分かる。さっき倒れてきたときに抱き上げた身体は細く、華奢だった。その白い肌は、地下生活の長さを思わせたが、陶磁のような滑らかさがある。できるなら、もう一度触りたかった。
いいものを見つけたな。
というのが、蘇芳の感想だった。幸い今日は、うるさい朱理(しゅり)もいない。彼でたっぷり遊べたら、と思わず顔を緩めそうになる。
そう今日は、非番なんだから。
「君、名前は?」
きょろきょろと、部屋の中を忙しく瞳が回っているカイに、蘇芳が語りかけると、カイ、と小さな返事が返ってきた。そんなことはどうでもいいとでもいい風で、自分の置かれた状況を把握するので手一杯らしい。
「あのー」
「はい?」
「俺ちょっと、大事な用事があって。地下に潜んなきゃいけないんですけど、ここから行けます?」
そろりそろりと身体を起こしながら、カイがそう聞くと、男は目を片方だけひょいとあげて、面白そうな顔をした。その表情に、カイは失敗したかな、と心の中で舌を出す。どうやらこの男は敵ではなさそうだ、と思ったのだが。
「えぇ、ありますが……もう少し休んでいったらどうです」
「いや、そんな悪いですから」
と、ちっとも悪びれずにカイが言うと、男は少し思案する。あぁこれは、とカイはその顔に一人で納得した。
「すいません。助けてもらったのに、御礼も出来なくて。でも俺、今金ないんです」
と、この先どう続けて同情を誘おうかと思ったところに、男がにやりと笑って話を遮った。
「そう言うときは、何で払うか、君ならご存知なのでは?」
「は?」
あくまでも丁寧な口調を崩さずにそんなことを言うから、カイは思わず聞き返した。でもそれからすぐに、男が何を言っているのか分かる。
「別に良いですけどね。でも、俺今病人ですよ」
こんな男に抱かれるのなら、それもまぁ悪くはない。少し惜しいが、でも今は、この奥歯に隠した物をどうにかするのが先だ。
「大丈夫。手荒なことはしませんから」
男はそう言いながら、ぎしりとベッドに手をついてきた。間近に見ると、怖いほどに整った顔をしているのが分かる。
もったいないなぁ……
カイはそう思いつつも、仕方ないと諦めた。またそのうち、会えるかもしれない。
それでもたっぷり、キスだけは楽しんで、カイは男の舌に自分の舌を絡ませる。いやに上手いキスで、そのまま持っていかれそうになりながら、カイはぎりぎりの理性で、男の口に小さな丸薬を押し込んだ。
「何を……」
男はそれだけ言うと、ずるりとカイの上に覆い被さったまま力なく倒れこんだ。
「悪いね。即効性の睡眠薬なんだ、それ。ごちそうさま。あ、今日のことはツケといてね」
カイはまだ名残惜しそうにしながらも、その部屋を抜け出した。
普通、組織に入っていれば、情報を集める人間と売る人間は分かれているが、フリーのカイは全てを一人でこなすしかない。それはかなりのリスクを負うのに、カイはフリーの立場を好んでいた。
地下に入ると、街は夜仕様になっていた。少しだけ暗くなって、街燈がつけられる。馬鹿馬鹿しいほどの、地上への焦燥がそこには見えて、カイは夜の地下は嫌いだった。そうは言っても、仕事はしやすい。昼夜問わず明るく見えるように作られたコンタクトレンズを嵌めているカイには、だいたい、関係がないはずだ。カイがそれをはずすのは、地上に出たときだけだ。
レベル5区域まで来ると、カイは時計を見て仕事を片付けることに決めた。時間に関係なく、担当者は情報を欲しがるだろうし、これを持っていては次の仕事ができない。カイは、情報を集めるのが一種の趣味になっていて、新しい情報と聞くとコレクターのように血が騒ぐのだ。そんなときに荷物があるのは良くない。カイは携帯端末で相手を呼び出すと、すぐに裏の入り口を教えてもらう。
「レベル10の西区まで行って、それから……」
話はすでに通っているらしく、カイが行くと、すぐに連絡屋はドアを開けてくれた。入り組んだ裏口への入り方は、カイに信頼感を持たせる。
それぞれのレベルに行くには、わりと移動が必要だ。出入り口はたくさんあるが、一本立てに繋がっているところはなく、慣れないと探し出すのも面倒だった。ただ、カイの頭の中にはレベル32ほどある地下道の地図がほぼ隈なく入っている。これなら、情報屋をできなくなったら案内人(ガイド)ができるほどだ。
さっきまでいたレベル5区域に戻ってくるまで、カイは7分ほど要した。少し、疲れているかもしれない。それでも、予想外に速く現れたカイに、O社の担当は驚きを隠さなかった。
「噂はお聞きしていますが、本当に地下を良くご存知のようですね」
にこりと笑った担当者は、カイからチップを引き取ると、それをすぐ情報解析に回させた。それから、それが確かに自分たちが欲しがっていた物だと分かると、カイに別の少し大きめのチップを渡した。それが、今回の報酬だ。これを銀行に持っていけば、すぐにカイの懐は暖まる。
「そのうちまた、お願いするかもしれませんね」
そう言う担当者に、カイは愛想よく、ご贔屓にと笑った。
それから、カイはまだ痛む背中を見せに、近所の医者に行った。ここは昔からのなじみの医者で、無茶なカイの傷をいつでも見てくれるところだった。
「……」
そのリュウ先生と慕われている若先生は、カイの背中をみるなり、黙ってしまった。カイが首をかしげてリュウのほうをちらりと見ると、難しい顔をしている。
「何?そんなに悪いの?」
恐る恐るカイがそう聞くと、リュウはいいえ、と言って上げていたシャツを無造作におろす。それから、異常なし、と背中を叩いた。
「痛……って!!」
この先生は、自分でへまして傷をつけた病人を、あまり丁寧に扱ってくれないのである。
「ずいぶんと優秀で高級なお医者様に見ていただいたようですね。処置は完璧。君のその不死身な身体なら、すぐに治りますよ」
リュウは「高級」と言う言葉に力をいれてそう言うと、にっこりと笑った。カイはホテルの男を思い出す。確かに、金持ちそうだった。
「私の見立てに間違いがなければ、これは政府関係者が独占しているお薬だと思うのですがねぇ」
と、意地悪くコーヒーを飲みながら言う。そのコーヒーは、カイがいつも闇市で手に入れてくるものだ。
なるほどね……
カイは一人、納得した。それならあの雰囲気もわかる。それにしても、気前がいい奴だ。レベル0区の、それも南区の住人は、やはり自分とは世界が違うのだとしみじみカイは思った。
「カイ?カイが来てるの?」
服を着て、さて帰ろうと言うときになって奥から聞こえてきた声に、カイはびくりと肩を震わせた。一度捕まったら逃げられない。それに今日は遊べない。
こっそりと逃げ出そうとしたカイの目の前に、エリカがひょこりと顔を出した。既に目が、キラキラと輝いている。
「だめ。今日は駄目」
お馬さんごっこなど、こんな体じゃ出来ない。カイがそう、きっぱりと言うと、その目線の下の方で、エリカがむっと膨れたのがわかる。金髪に緑の瞳。大きくなれない、小さなエリカ。カイがこの病院に通うようになった二年前から――いや、もっと前から――エリカのまわりだけ時が経っていない。
「エリカ。カイはヘマをしてしまいましてね。背中が痛いのですよ」
リュウが、面白そうにそう言う。するとまた、エリカの目がキラキラと輝いた。
「痛いの?背中が痛いの?」
今度は何をしようと言い出すのだろう。この間は、覚えたばかりだと言って骨折した腕にぺたぺたとなにやら大きな葉を貼られた。それがきちんと洗われていなくて、かぶれてひどい目に遭ったのだ。
「リュウ先生に見てもらったからもう平気」
そう言うのに、エリカはすでになにやら持ち出している。
「リュウっ。いらんこと言うなっ」
小声でそう言ったら、くすくすと笑われた。
あぁ、早く帰りたい。
カイはいつになく、自分の部屋のベッドが恋しかった。