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  サイレント・ノイズ 第一話  
    ――眸ノ記憶――


05

 カイがそこから動かなかったのは、決着をつけてしまいたいと思ったからでもなく、いい加減にしてくれと言いたかった訳でもなく、なんとなく、だった。
 自分にも分からない、奇妙な懐かしさ。出ていくときにひどく後ろ髪をひかれて、結局なんとなく居座ったのだ。自分のその奇妙な感覚の意味を、知りたかったのかもしれない。
「……サラ……戻ってきたんだね」
 男はカイがいることに驚くよりも、喜んだ。カイはざわりと嫌な感覚をその目に見ながらも、逃げることは出来なかった。鳥肌が立つほど嫌なのに、動くことが出来ない。
「誰だよ。お前は誰だ?サラって誰だ?」
「誰かだって?お前の兄じゃないか、サラ。寂しいな。忘れたのかい?」
「俺には兄貴なんていない!それにサラなんて知らないっ」
 写真の少女が、サラなのだろう。カイはそう思って、ちらりと写真を見る。間違うほど、似てなどいない。
「泣くんじゃない、サラ」
 男が優しくそう言った。それで初めて、カイは自分が泣いていることに気付いた。哀しくなどない。泣く理由など、ないのに。
「今、助けてやる。だから、泣くんじゃないよ」
「……何が」
 自分に、何が起こっているのかわからなかった。意識と離れたところで、涙だけが流れていた。
「何なんだよっ。俺はサラじゃない、俺は何で泣いてるんだっ」
 男が、怖いほど優しい顔をして近寄ってくる。カイの顔を包もうかとするように、両手を伸ばしている。逃げなければいけないと分かっているのに、カイは逃げられない。視線を、そらすことが出来なかった。
「サラ、長かったね。待たせたね」
 男がカイの顔をしっかりと挟む。それは撫でるというよりも、押さえるという感じだった。そのまま、カイを壁際に追い詰めていく。指がのめり込むかと思うほど、きつく押さえられていた。ただ目だけが、合っている。
「……ようやく、会えたね、サラ」
 男はそう言って、ふと片手を離した。そして、ポケットからナイフを取り出すと、それをカイの顔に向けて振りかざした。

 目を閉じたかったのに、できなくて、カイはその切っ先を見ていた。それが降ってくると思った途端、男がうめいた声が聞こえて、カイは正気に戻ったかのように、男の手を振り払って逃げた。
「殺されるなら、つけを払ってからにしてくださいね」
 にっこりとそう笑って、男を気絶させたのは、いつかやはりカイを助けた、ゼロ区の住人だった。
「あんた、なんで……」
「向かいのバーからここが丸見えでね。――いつかのツケを払ってもらおうかと」
 無造作に男を放り出したために、足元で埃が舞った。
「聞こえていたのか……」
 もう、意識などないときに呟いたはずの言葉だった。それをこの男は、聞いていたというのだ。
「ずいぶんと油断してしまいましたね……あのときは」
 男は、優雅に笑う。どう見ても上等に見えるスーツを、隙なく着こなしている様が、ため息ものだ。
 やっぱり、いい男だな。
 カイは先程までの状況を忘れたかのように、そんなことを思う。
「どうです?身体の具合は」
「え?あぁ、もう治った」
「それはよかった」
 男の笑い方は、どこか不穏だ。淫靡な不穏というか、少しワクワクさせてくれる。甘い痺れを提供してくれるこういう男が、カイには好みだ。
「二度も助けてもらったし、いいぜ。ここの裏にはラブホがいっぱいあるし」
 カイもにやりと誘うように笑う。最近そう言えば、誰も抱いていないし、抱かれてもいなくて、欲求不満気味なところもある。この男なら、身元も確かだろうし、変な病気も持っていないだろう。なにしろ、好みだ。
 床でのびている男に聞きたいことは、山ほどある。でも当分起き上がりそうにないし、少しだけ――怖い。この男を見ていると、自分の意志とは関係なく、身体が動いている気がするのだ。
 さっきのあの感覚。それを、忘れてしまいたいとも思う。この男に身を任せて、全ての感覚をしっかりと、確認したい。
「……泣いたんですか?」
 カイの頬に残る涙のあとに、男がそっと触れた。カイは答えようがなく、早く行こうと男の腕を引っ張った。
 ――やばい……
 とカイが思うほど、男のセックスは上手かった。久しぶりなこともあるだろうが、意識を飛ばすかと思ったほど――良かった。
 決して乱暴にではなく、全身をくまなく愛撫され、最後にはカイからねだったほどだ。はやく、欲しいと。そういうのが趣味の男もいるが、この男――蘇芳と名乗った。やはり、純粋日本人の名だ――は、そういう趣味でもないらしい。欲しいと訴えれば、それだけで欲求を満たしてくれたのだから。
「蘇芳ー」
「ん?」
「もう一回、しよう」
 ベッドの端に腰掛けて、蘇芳は煙草を吸っている。闇ルートでもない、正規購入のばか高い煙草だ。
「ほー満足できなかったか?」
 ねだると、新しい煙草をパッケージから出して寄越した。カイはそれではなくて、その吸いかけが欲しいのだと、手を伸ばして口から抜き取った。蘇芳がそれを笑う。
「違う。満足したんだけど、うーん。やり溜め?」
 だいたい、二回助けられたんだから。カイがそう言うと、蘇芳がそのカイの口から煙草を取って笑いながら口付けた。了解の、印だろう。
 そのまま口付けは首筋や、耳やその裏、胸元まで落ちていき、カイはあられもない声を上げる。一度で性感帯を探り当てたのか、蘇芳はその柔らかい唇で、的確にカイの快楽を引き当てる。
 こんなにも相性のいい相手は、初めてだろう。
 カイは突き上げられながら、そう思った。なくしていた半身を、見つけたようだ。
 知らずに、足を絡める。もっと欲しいと、何度もねだった。
「蘇……芳……」
 掠れるようにしか、声も出なかった。部屋の中に、据えた匂いと吐き出された熱い息が、充満していた。
「ん……あっ……はあっ」
 最後の記憶は、ほとんどない。あまりにも気持ちよくて、頭の中が真っ白になったのだけは、なんとなく覚えていた。

 目を覚ますと、誰もいなかった。身体のだるさだけが、まるで置き土産のように残っている。
 いや、もう一つ。
 几帳面な字で書かれた、メモだ。
『また会おう。蘇芳』
 連絡先も何も書いていない。でも、きっと会えるだろうと確信に近い思いをカイは持っていた。
 名前しか、知らないもの同士。
 でも、あの強烈なまでの快楽を、忘れられるはずがない。
「蘇芳……ね」
 カイはそう呟くと、重い身体を引きずって、シャワーを浴びにいった。

 その後、あの男は消えた。発信機にも反応せず、部屋に行っても誰もいなかった。どれだけ探しても、その消息は知ることが出来なかった。
 写真も、消えていた。
 はじめからいなかったかのように、その男は、消えてしまった。
 残されたのは、サラという少女の名前。
 ――そして、記憶。
 
 
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