サイレント・ノイズ 第四話
――螺旋階段――
01
知らなければ良かったことなど、たくさんある。
うららかな春の日差しを浴びながら、ベッドに横になって本を読んでいた葵(あおい)は、その日差しがふと陰って、顔を上げた。にせものの空には雲は浮いているが、それが日を遮ることはない。
「やぁ紫苑(しおん)。講義は終わったの?」
目の前に立っている人物ににこやかに言うと、葵はまた本に視線を落とした。紫苑はそれに、小さくため息をつく。
つれないなぁ、と思うのだ。
自分は講義の間中、葵のことを考えていたのに。
「ちょっと」
ベッドに乗って、覆い被さってきた紫苑に、葵が抗議の声を上げる。でも、紫苑はそんなことはお構いなしに、その背中に口付けた。柔らかな、日差しの匂いがする。
「紫苑……」
「何の本?」
口付けをやめずに、首筋にまで唇を押し付けて、紫苑が聞いてくる。葵はそれに、身体をびくりとさせた。
「今日図書館から借りてきた……んっ」
「借りてきた、何?」
「紫苑!」
耳たぶを噛まれて、思わずのけぞった葵が、とうとう観念したように本を閉じる。それを、にやりと笑いながら、紫苑が取り上げた。
「旧世界の歴史的考察……またえらく難しい本を。それも紙媒体で」
そう言いながら、床に本をばさりと置く。その手はそのまま、するりと葵のシャツを捲り上げて、背中を滑った。
「睡眠学習は……んっ……嫌い、なんだ」
紫苑の細い指が、捲られた背中や脇を、するすると滑る。それと一緒に唇も背中を滑って、葵は思わず甘い息を吐いた。
「往生際悪いなぁ」
紫苑が、くすくすと笑う。
「だって、こんな明るいのに……」
昼も夜もなく抱き合うことだってあるのだから、それがもはや逃げる理由にはならないことを分かっていながら、葵がそう呟くと、紫苑の動きが止まった。そろりと葵が首を捻ると、紫苑の精悍な顔に、にっこりと笑いかけられる。
「暗ければいいの?」
まるで、悪戯を考えている子供のようだ。実際、きっと何か悪戯を思いついたのだろう。こんなときまで、学年一の優秀な頭を働かせないで欲しい。
「じゃぁ、暗くしてあげる」
紫苑はそう言うが早いか、危機を感じて立ち上がろうとした葵の腕を捕まえて、自分のしていたネクタイをするりと外した。
「紫苑、わかった。わかったから、変なこと考えないで」
葵のその懇願は、たいがい受け入れられることはない。ベッドの上では。
「変なこと?そんなこと考えてないよ。葵の望むとおりにしてあげるだけで」
紫苑は楽しそうにそう言いながら、葵の目をネクタイで覆う。それはきっちりと後ろで結ばれて、葵は厚い布越しに、微かな光しか感じられなくなった。
「外そうとしちゃ駄目だよ?そうしたら、手も縛るからね」
紫苑はあくまで楽しそうだ。葵はため息をついて、この状況を受け入れることにした。逆らえれば逆らうほど、容赦なく抱かれることになる。ときどきはそれもいいが、今日はそんな気分ではない。目隠しぐらいで、楽しんだ方がいい。
「紫苑……?」
少し不安げな声に自分でも驚きながら、葵が手を伸ばすと、紫苑が優しくその手を取って、口付ける。指の間を丁寧に舐められて、葵はもう片方の手も伸ばした。
そこにではなく、唇に口付けて欲しいのだ。
「ん……ふ……」
上半身だけ起こして、手探りで顔を探し当てて葵がそっと口付けると、紫苑が微かに笑ったのがわかる。そう言うときの顔が好きなのに、見えないのは少しもったいないと、葵は思う。
静かな部屋に、二人の舌の絡まる音が響いている。目の見えていない葵は、ことさら他の感覚に敏感だ。たったそれだけで、身体が熱くなってくる。
見えない分、唇が離れると淋しくなって、また求める。そこでまた焦らされて、葵は抗議の声を上げた。
「ずるいよ、紫苑……」
紫苑は何が?と言いながら、葵の服を脱がせる。葵はされるがままで、自分の状況がよくわかっていない。
シャツだけ脱がされると、ようやく口付けられる。それがふと離されると首筋に落ちてきたりして、葵は予想が出来ない動きにいちいち敏感になる。
「あっ……は……」
突然胸の突起を口に含まれて、甘い声を上げた。そのまま舐め上げられると、背中が小さく震えて、恥ずかしいほど敏感になっているのを確認させられた。
「紫……苑……」
「ん?」
「目隠し……やばい」
「なんで?」
紫苑の声に笑いが含まれているのに、葵はそれすら気付けない。与えられる感覚に、翻弄されてしまう。
ズボンのボタンが外されて、チャックが下ろされる。脱がされると思っていたのに、紫苑はそのまま、布越しにそこを撫で上げた。
「やっ……」
思わず、葵は紫苑に抱きつくと、耳元で小さく笑われた。その間も休むことなく、柔らかく刺激を与えられる。強烈ではないその動きに、葵の腰が勝手に揺れた。
紫苑はその葵の様子が堪らなく愛しくて、甘い果実を食べるかのように、首筋や耳を舐め上げる。いつもは印象的な黒い瞳が隠されて、紫苑の目に赤い唇が鮮烈な印象を刻んでいた。
どうしてこんなにも、抱きしめたくなるのだろう。
どうしてこんなにも、抱きしめられたいのだろう。
はっきりとしない刺激に喘ぐ葵の声を耳元で聞きながら、紫苑はいつも浮かぶ問いを考えることなしに考えていた。抱きしめることも、今のように縋りつかれるように抱かれることも、本当はきっと、理由など要らない。
「紫苑」
名を呼ばれると、切なくなる。こんな、甘い声も、なんの意もない、呼びかけにさえ。
「紫苑……やだ……」
「何が?」
「ん……一人は……んぁ、はぁっ」
葵はいつも、一人はいやだと言う。いつもならここで、潤んだ壮絶に色気のある瞳を見ることができるのだが、今日は隠されている。少しばかり、もったいないことをしたと、紫苑はその目の上に口付けた。
「ねぇ……」
葵はこんなときだけ、素直だ。そのギャップにも、紫苑は参っていると思う。
「腰、上げて」
そっと寝かせられて、ズボンを脱がされる。その姿に、全裸に目隠しは、かなりそそると紫苑は発見した。
「確かに……目隠しはやばいね」
紫苑がそう囁いた。
そのまま、もう何度も自分を受け入れてきた葵の中をゆっくり探る。
「うんっ……はぁ……紫……苑……はや、く」
小さく震える葵に、紫苑も堪らなくなってくる。見えないせいか、いつもよりずっと大胆な格好をしてる葵にも、煽られつづける。
「葵……」
囁くと、再びせがまれた。それにくすりと笑いながら、紫苑はゆっくり自分を埋める。途端に葵の中が柔らかく紫苑を包んで、紫苑は目を閉じて迫る感覚をやりすごす。
受け入れられる、と言う感覚が、紫苑を無条件に安心させる瞬間だ。
言葉だけではなく、身体全てで、紫苑を受け入れてくれている。
セックスはそう言うものだと、葵に会って知った。それはたぶん、友達でも同じことだ。でも、紫苑にとって、友達と恋人のセックスの違いは、明白だった。
自分が、わがままを言ってしまう。
友達だったら、抱くのだからと遠慮してしまう気がするところを、葵相手だと、甘えてしまうのだ。今日のこんな、遊びに似たセックスをすることも。たぶん、二人とも知っているのだ。本質で、抱き合っていることを。ゆるぎないものがあるから、遊ぶこともできる。
「紫苑、紫苑……」
うわごとのように繰り返されるのは、自分の名前で。
激しく動いて、意識が飛びそうになっても。
二人で抱き合っているのだと、わかっているのだ。