サイレント・ノイズ 第三話
――柔ラカイ光――
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薬とアルコールの同時摂取による体力と身体機能の低下は二、三日で回復するにしても、無理やり男を受け入れた傷は、簡単には治らなかった。客と違って、後々割増料金を請求されるわけではないジュリアーノが、いかにひどい抱き方をしたのか、よくわかる。それでもウォンは、痛み止めを貰って街に出ると言ってきかなかった。
ジェイクはときどきしか吸わない煙草を取り出して、火をつける。その煙を思い切り吸い込んで吐き出すと、その紫煙越しに、ウォンがジュリアーノと話しているのが見えた。
どうして突然煙草を吸いたくなったのか、ジェイクにはわからなかった。普段なら、アルコールを摂取したときなどに限られている。
ウォンの艶かしい笑い顔が、街燈に映る。歩行者天国になっているこの通りには、異様なほどの人がひしめいていた。ウォンはそんな中でも、すぐに見つけられるのだ。ジェイクはその片隅で、目立たぬように煙草をふかす。
二人がようやく歩き出すと、ジェイクも煙草を消してその後を追った。ときおり派手な格好をした女が寄ってくるが、ジェイクはそれを煩そうに避けるだけだ。
ジュリアーノの手が、ウォンの腰に回っている。
ジェイクはまた、煙草を取り出した。
二人の会話は、聞こえてこない。大体、耳元で囁きあっているのだから、分かるわけがない。
ジュリアーノはウォンを連れて、前回と同じホテルに入っていった。ジェイクは小さく舌打ちして、裏から入ることにする。ホテルのボーイには、顔を覚えられている可能性が高い。ただ、部屋は同じ部屋を取るだろうと予測できたのは幸いだった。
「ジェイク」
部屋に入ってすぐ、ウォンがドアから顔を出してジェイクを呼んだ。どうやら上手くやったらしい。ジェイクがウォンに使ったことのある、即効性の睡眠薬を飲ませたのだ。
「大丈夫か?」
「うん。早く」
ウォンの顔色が悪い。でも目だけは気丈に、輝いていた。
ジェイクは手早く目を見開かせ認識コードを読み取って、持っている端末でジュリアーノの簡易コンピュータにアクセスをかける。それはあっという間のことで、ウォンは感嘆のため息をついた。密着型のコンピュータにアクセスをかけるのは、他人ではそう容易なことではないはずだ。
「どう?」
「あぁ、これで証拠が揃ったよ。行くぞ」
ジェイクはそれだけ言うと、端末を仕舞ってさっと部屋を出る。それからそのまま、二人は裏口から逃げ出した。
「ねぇ、怒ってる?」
帰りながら、ウォンが恐る恐るそう聞くと、ジェイクは怒ってなどいないと言う。
「でも……」
ウォンは険しいジェイクの横顔に、納得しない。それに、先刻から一言も口をきいていないのだ。わき目も振らないジェイクに、ともすれば置いていかれそうにもなる。
やっぱり怒ってる……
ウォンはそう思ったが、そう言えばジェイクはもっと怒りそうで、口を噤んだ。困るのは、ジェイクがなぜ怒っているのか分からないことだ。色とりどりに照らされるジェイクの顔は、じっと地面を見つめて、動かない。それでよく周りが見えていると思うほどのスピードで歩いているのだ。
ウォンは堪らなくなって、立ち止まった。ジェイクはそれに気づかないのか、人ごみの中をどんどん進んでいく。背の高いジェイクの姿も、その中に埋もれてしまいそうになる。
「ジェイク」
ウォンは思わずその名を呼んだ。騒がしい音楽と人の声に溢れている夜の街では、その声はかき消されてしまう。
立ち止まるべきではなかったのだろうか。
ウォンは泣けそうになるのを我慢して、唇を噛んだ。ジェイクと会ってから、なぜかすぐに涙が出てくる。自分の気持ちが揺れすぎて、わからなくなる。
パートナーとしていさせてくれると言うだけで嬉しいのに、欲は留まるところを知らない。見て欲しいと思う。自分を、見て欲しいと。
「何やってんだよ」
ジェイクがそう、ため息をついて目の前にいた。向かい合って留まっている二人の周りを、人の波が流れていく。
「……僕がいることなんて忘れたのかと思った」
「ウォン……」
「もう後悔してるの?」
ウォンがいつもの揺るがない瞳で聞いてきて、ジェイクは困ったようにため息をついた。でもそれは、自分自身に対する、苛立ちだった。
怒っていないとは言ったが、ウォンを見ていられなかった。自分のその気持ちが、ジェイクを苛立たせている。
ジュリアーノを誘った目つきが、目の前の真摯な瞳と重なる。
「違うよ。悪い」
「理由もなく謝らないでよ」
ウォンのきつい言葉に、ジェイクは視線を逸らした。人の波は、留まらずに流れている。それぞれが、それぞれの速さで。
「どうしたんだ」
ジェイクの困惑した顔に、ウォンが顔を歪める。それを聞きたいのは、自分なのに。
そっとジェイクの腕を握ると、優しく離される。それから、行こう、と言われた。
「ジェイク」
もう一度その名を呼ぶと、今度はジェイクは振り返った。そして、ウォンをじっと見つめた。そこに、確かに自分が映っていることを確認するように、ウォンは顔を近づける。そのまま背を伸ばすと、唇が重なった。
温かな唇を、ウォンは何度も確かめる。そうしているうちに、ジェイクの舌が口内に忍び込んで、その手が腰を抱いた。
「……っん……ジェイ、ク」
腰が砕けそうになって、ウォンが思わず身を引くと、ジェイクがにっこりと笑う。その顔に見惚れて、ウォンはもう一度唇を近づけた。
「ウォン……こんなところで盛るなよ」
「なんで?ちょうどいいでしょう?」
ウォンは無邪気にそう言うと、ジェイクの腕を引いた。近くには、手ごろなホテルがたくさんあるのだ。でも、今度はジェイクは動かない。
「何考えてるんだ、お前は。無理に決まってるだろ」
「ジェイク」
呼ぶ声は掠れて、見上げる目が潤んでいる。堪らないな、とジェイクは思いながら歩き始めた。
「帰るぞ」
「ジェイク!」
「ほら」
ジェイクがそう言ってすたすたと歩いていくのを、ウォンは今度は追い駆けた。
「ねぇ、ジェイク」
「うるさい」
「傷が治ったら、してくれる?」
その問いに、ジェイクはため息をついただけで、答えなかった。