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サイレント・ノイズ 第四話
――螺旋階段――

  04

 蘇芳と交わした約束は、守られるだろうか。
 手のひらにのる、小型のサンプルガイアを日に透かして煙草を吸いながら、葵はぼんやりと考えていた。
 サンプルガイアは、小型の地球とでもいうのか、ガラス球の中に七十パーセントほどの水と、数種類の生物と植物が入っている、この地球の生態系のしくみを小さく、簡単に再現したものだった。小さな球体の中では、光の加減によってエネルギーの循環がなされる。持ち主は、そのエネルギーの循環がうまく行われるように、光の調節をして、水温を適温に保たなくてはならない。
 小さな、小さな海が、その中にある。
 交換条件のように交わされた約束に、蘇芳は最初、柔らかく反対した。
「覚えていても、切ないだけだよ」
 それは、確かなことだろう。自分と同じ立場から、蘇芳がそう言ってくれたことは分かっている。
 でも、葵はどうしても出来ないと思った。紫苑を、自分の過去から消してしまうなんて。
 この計画では、意図的に誕生させられた当事者以外にも、関わったものの記憶は消されることになっている。
 少しずつ、日常の中で。
 睡眠学習の中でも、端末の画面からも、それは発信されている。
 そしてある日を境に、そのプログラムは起動するのだ。
 葵のように高い割合で関わったものは、直接的な操作をされることになっている。それは、家族として関わっている蘇芳も同じ。
 そうやって、紫苑は国を動かす重要な地位を占めていくのだろう。そうとは、知らずに。
 消された記憶には、代わりがある。決して会えない、架空の人々との記憶が。
 サンプルガイアの中では、数匹の美しい色をした桜色の海老が泳いでいた。とても、気持ちよさそうに。
 手のひらの上のこの小さなガラス球の重みを、葵はとても愛しいと思う。太古の地球と、きっととても似ている、この海を。そんな愛しいと言う気持ちを、忘れることなどできるのだろうか。
 紫苑に、話す気はない。こんな残酷なことを、話せるはずがない。
 葵はサンプルガイアを机に置くと、煙草を消して、紫苑の部屋へと向かった。今日はもう、紫苑も講義はないはずだ。
「どうぞ」
 指紋照合もせずにノックをすると、中から答えが返ってきた。部屋のノックをするのは、葵ぐらいしかいないからだ。目の前の扉が、するりと開く。
「今終わったところだ。なんか飲みに行こうぜ」
 紫苑がラフな格好へと着替えながら、後ろを振り返りもせずにそう言う。葵はそれに、くすりと笑った。
「何?」
 小さな笑い声も聞き逃さない紫苑は、怪訝な顔を葵に向けた。それに、なんでも、と葵は答えて、紫苑に近づく。
 葵だと、信じて疑わなかったのだ。そういう心地よさに、葵はにっこりと笑って、紫苑に口付ける。
「……また煙草吸ったな」
 唇が離されると、紫苑がそう顔を歪めた。身体に良くないと、何度も言っているのだ。大体、養成学校の生徒の喫煙は認められていない。
 葵にとってはそれは、精神安定剤なのだが、そんなことは言わない。どうして精神が不安定なのか、聞かれるに決まっているから。そんな問いには答えられない。
「口が寂しくって」
 葵はそう言って、もう一度唇を重ねる。紫苑の腕が背中に回って、葵にその温もりを伝える。
 ――この温もりさえも……?
「一運動してから行くか?」
 紫苑が、そう囁く。葵は賛成、と言いながら、されるままにベッドに倒れた。
 心が少しずつ、貪欲になっている。
 いつも傍にいてくれないと、不安で仕方がない。
 目の前にいる限り、存在そのものを忘れられることはないから。
 細い指先が、柔らかく、ときには荒く、葵の肌の上を滑る。胸の突起を含むその口内の熱さに、葵は自分が溶けていくのを知る。
「紫苑……」
 何度も、名を呼んでしまう。確信するために。
「いれて」
「葵?」
 まだ慣らしていないのに、葵はそう懇願した。紫苑が心配そうに、葵を覗き込む。
「何かあった?」
 優しく口付けながら紫苑が聞いても、葵は首を横に振るだけだ。
「……いれ、て」
 感じたかった。紫苑を。抱かれていることを。
「せっかち」
 紫苑が笑う。とりあえず、望むことをしてやろうと、葵の異常さをそれ以上咎めなかった。それからゆっくりと、葵を口に含んだ。
「んぅ……やぁ……」
 何度も責めたてて、快楽を引き出す。それと同時に、そこからあふれ出た蜜で、葵の中を弄る。
「しお……ん……いい、から。はやく……」
「葵……」
 何を、隠している?
 何を、抱えている?
「んっ、あ……」
 いつも以上に敏感で、紫苑を必至に誘っている。無意識のように、腰を浮かせたりして。
「はや、く」
 何度も、その言葉を繰り返す。
 ようやく紫苑が身を沈めたときには、葵は自分では気付かずに、泣いていた。
 紫苑と繋がっている、その幸福感。
 ――この、幸せも……?
「何を隠してる」
 だらしなく二人でベッドに寝転がったまま、葵は煙草を吸っていた。紫苑はそれを、呆れたように眺めながら、ふいに言った。
「何が?」
「おまえ、ずっと何か隠してるだろ」
 葵は煙を吐くために横を向いていて、紫苑には顔が見えない。それが嫌で、紫苑は半身を立ち上げて、葵の顔を覗き込むように見た。
「なにも」
 葵がポーカーフェイスが得意なのは分かっていた。だからその無表情さにも、紫苑は驚かない。それでも、それを困り顔で眺める。
 どこかで、葵がおかしくなってきているのは分かっている。その原因が、自分はわからないと言うのが、紫苑には気に入らなかった。
「葵、大体お前、最近……」
「ねぇ」
 紫苑の話などまるで聞いていないような口調で、葵がその言葉を遮った。相変わらず、顔は紫苑の方には向かない。視線も合わない。
「もし僕が、紫苑のこと忘れたら、どうする?」
 馬鹿なことを聞いている、と思いながら、葵は思わず呟いた。
 ――あと一年。
 紫苑が記憶操作によって、葵の記憶を消されるまでに。
「は?」
 訳がわからないと言うように、紫苑が聞き返す。
「何も、なかったことになったら」
 この、気持ちさえも。
「何馬鹿なこと言ってんだ?怒るぞ」
 声に少しだけ真剣さがあって、葵は思わずくすくすと笑った。
「怒る?」
「あたりまえだろう」
 冗談でも、言って欲しくないことがあるぞ、と背中から声がする。
「そうだよね」
 葵は、笑いを止められない。
 さもなければ、泣いてしまいそうだった。

 忘れない。
 自分だけは、忘れない。
 ――ずっと、覚えている。
 
 
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