サイレント・ノイズ 第八話
――左目ノ行方――
02
ウォンに選ぶことは出来ない、とジェイクは思っていた。酷なことを言ったと思うが、言わなければきっとわからなかっただろうとも思う。
ウォンはしばらく一人でいたいと言って、梅花に帰ってきた後、部屋に閉じこもった。ジェイクは自室で煙草を吸ってぼんやりしていたが、ふいに立ち上がると携帯端末を取り出した。カイヘのアクセスを試みるが、やはり通じない。
ウォンはきっと、ジェイクがこれほどまでするのは、カイだからだと思っているだろう。だが実際には、ジェイクにはジェイクの理由があった。
厳重にロックされた壁の棚の一つを、暗証番号と瞳の認識コードで開けたジェイクは、中から小さな瓶を取り出した。透明なその瓶の中には、ホルマリンに漬けられた丸い目が浮いている。
青く、透き通った瞳だ。
最後にこの目が自分を見たのは、一体いつだったか、とジェイクはその目を見つめた。
『今回のことは、俺個人の仕事なんだ。だからおまえには話せない。わかれよ、ジェイク』
『わかるかよっ。だったら、どうしてチームなんて組んだんだよ?俺は、ただのお荷物か?』
『そんなこと言ってないだろう?チームを組んでいても、一人で仕事をするときだってある。それだけの話だ。おまえにもそのうち、そんな仕事が来る』
『嘘だ。梅花ではチームの仕事が義務付けられてるじゃないか』
『ジェイク……嘘じゃない。トップクラスの情報屋には、そう言う仕事が来るんだ。おまえにもそのうち、って言ったのは、俺たちはおまえに期待してるから』
『どこが?俺なんか役立たず何だろう?だから、何も話してくれないんだ』
あの頃、毎日のように言い合ったことを思い出して、ジェイクは自嘲した。
今から思えば、ただの我侭と子供じみた自尊心を振りかざしただけだった、と思う。あげく、一人で勝手に行動して、大切なものを失った――。
キースとウォンは違う。わかっているから、今回もあんなことを言ったのだ。
梅花でようやく自分の安心できる居場所と、自由と、誇りを手に入れたウォンに、梅花を裏切れと言うのは、残酷すぎると思った。
ジェイクはもともと――そして多分キースも――梅花に依存しきってはいなかった。この組織を上手く利用しながら生きていた、というのが本当で、トップクラスの組織員は、少なからず、同じ気持ちを持っている。そのことをメイも気付いているだろう、と思う。それでも良かったのだ。メイもまた、彼らを利用しているに過ぎないのだから。
メイがエリカのことと同じように、カイのこともいつでも気にしているのは、ジェイクも知っていた。ジェイク達が関わるときは、それとなくカイを見ているように言われたが、普段はきっとあの二人、ジルとクリストフが見ていたのだろう。
そう思えば、カイが何者であるのかは簡単に分る気がした。
メイも、そしてキースも知らなかっただろうが、ジェイクはあのとき、キースが何について調べているのか、かなり詳しいところまで追っていたのだ。だから、調査対象がカイだと言うことも、知っていた。それが最も隠されていた、重要事項だと言うことも。
カイに近づいたのは、それが最も大きな理由だった。ジェイクとカイはただ気の合う情報屋仲間、とメイもウォンも思っているだろうが、そうではない。ジェイクはいつでも、カイを見張っていたと言っていい。
カイ本人がどこまでそれに気付いているのかは、わからなかったが、今回のことが失踪ならば、ある程度は勘付いていたのだろうと思う。だから、何も言わずに姿を消した……。
手の中で、ゆらりと瞳が揺れた。識別コードから、これは右目だとわかっている。
キースのこの美しい瞳は、閉じられてしまったのだろうか。
ジェイクは、自分がまだどこかで、キースが生きていると思っていることに苦笑した。
ひどく自分勝手な希望だ。生きていても、地獄にいる可能性のほうが高いのに。
もう、五年。
そろそろ、大人しくしているのにも限界だった。それはきっと自分を取り巻く世界も同じで、だから今、それが歪んで、揺れて、壊れようとしているのだろう。
全てが、五年前から始まっているのだ。
この歪んだ世界が生まれたのは、間違いなく、あの五年前。
叩き壊すことで歪みが直るなら、いくらでもやってやる、とジェイクは思った。
温かい体温を感じて、カイは目を醒ました。さらりとした布の感触が、違和感を覚えさせる。
――ああ、そうだった。
逃げなければいけない。そう思って、ゆっくりとカイは身じろいだ。ベッドから起き上がると、まだ眠っている男の顔を見下ろした。
ばったりと出会ったときは疲れた顔をしていたが、目を閉じた今は穏やかな表情をしていた。寝不足でもあったのだろう。すやすやと、規則正しい寝息が聞こえている。
なぜ、とカイはその寝顔を見ながら思った。
なぜ、自分はこの男を信用しているのだろう。
今まで、そんな疑問ももたなかったことが不思議だった。自分の周りが不穏になる前は、確かに行きずりの誰かと肌を合わせることもした。でも、今は誰も信用してはいけない。
それなのに、抱き合ったらひどくほっとして、何もかも忘れたように貪りあった。セックスをしているときは、一番無防備にも近いと言うのに、その快楽に溺れた。
なぜだろう、とまた思う。
答えなどないのだろう、と巡る思考に決着をつけるようにカイは頭を軽く振った。それから、そのままそっと部屋を出て行こうとした。
「どこに行く?」
すっかり眠っているとばかり思っていた蘇芳の声に、カイは息を呑んだ。それから、強張った顔を戻して、にっこりと笑って振り返った。
「シャワー、浴びたいんだけど」
「シャワーが外にあるとでも思ったのか?」
蘇芳はすっかり目が覚めた顔で、にやりと笑った。カイはそれに諦めて、ため息をついた。
「眠ってると思った」
「二度も同じ手に引っかかるほど馬鹿じゃない」
昨晩、さんざん抱き合ったとき、カイは最初に蘇芳と出会ったときと同じように、睡眠薬を飲ませたのだ。即効性ではなかったが、薬の効き目はまだまだ続いているはずだった。
「いや、馬鹿だろ。大人しく騙されておけば良かったと思わない?」
「どうして?」
「そうじゃなかったら、俺はあんたに、あんたの正体を聞かなきゃならない」
カイはドアの前に立ったまま、そう言っておどけたように笑った。
どうして、と先ほどの疑問がまたくるくると頭の中で回りだす。聞きたくなどなかった。このまま、知らないまま、別れた方がいいと思っていた。
「俺の正体?」
カイはもう気付いている。今まで、そんなことを気にもしなかったことが不思議だが、それはアキのせいかもしれない、と蘇芳は思っていた。
アキなら、無条件で蘇芳を受け入れたはずだから。
「そう、蘇芳は、一体何者か」
カイからそんな言葉を聞くことが、蘇芳にはどこか滑稽だった。この目の前の人物こそ、一体誰なのか、わからないというのに。
「わかっているんじゃないのか?」
「ずるい答えだな。俺のことは、知ってるんだろ?」
「身体の隅々までね」
「その上、俺の過去も――未来も知ってるんじゃないのか?」
蘇芳は何も答えなかった。ただ、どこか悲痛な顔でカイを見た。
カイの過去が、どんなものなのか、蘇芳には答えられない。そもそも、カイに過去があるのかも、わからなかった。
蘇芳が知っているのは、たった一人の幼馴染の過去だ。
でも、それはカイの過去ではない。
「黙り込むなんてずるいだろ。仕方ない。選択肢を上げるよ。答えるか、俺を逃がすか」
「逃げるのか?」
「え?」
「逃げろと言ったら、逃げるのか?」
蘇芳の目は真剣で、カイは微かに目を眇めた。カイが蘇芳に選択肢を与えるような立場ではないことは、わかっていた。隠れ家だったあの廃屋を破壊し、必要最低限のものだけを持って、他の隠れ家を転々としていたカイを拾ったのは蘇芳だ。
いや、拾ったのではなく、待っていたのかもしれない。
今まであったことも全て、蘇芳には偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
蘇芳の正体がもし、カイの考えている通りならば。
「どう言う意味だ?なんで、そんなことを言う?」
蘇芳がもし、カイ担当の警察ならば。
「逃げて欲しいから――そう言ったら、信じるか?」
蘇芳が真っ直ぐにカイを見た。本気で、そう思っていた。逃げてくれるなら、逃げて欲しかった。でも、カイはきっと逃げない。今ここから逃げることはしても、自分が抱える疑問からはきっと逃げないだろう。
「蘇芳……あんた、一体何者だ?」
混乱したカイが呟くと同時に、外で足音がした。二人同時にはっとドアを振り返り、カイは素早く窓際に移動した。それでも窓からは見えない位置に立つと、蘇芳が窓に近寄って、外を覗いた。
「朱理の奴、一人で来たな。カイ、飛び降りられるか?」
カイはその声に窓から外を覗いて頷いた。持っているロープの長さなら十分だった。
カイ、と間近で呟かれた声は、何か懇願するようだった。カイは窓を開け、ロープをベランダの手すりにくくりつけながら、蘇芳を見た。
「逃げろよ。逃げて、もう何もかも忘れて、大人しくしていろ」
蘇芳はそう良いながら、カイに口付けた。絡まった舌に、何かが押されて口移しをされたのがカイはわかった。知っている感触からすれば、チップのようだった。
「蘇芳?どうして?」
「カイ……二度と、会わないことを祈るよ」
次に会うときには、きっと蘇芳の手で逃がすことは出来ない。そして、カイはそのときこそ、全てを知ることになる。
インターホンがなって、カイはまだ聞きたいことも言いたいこともあったが、それを諦めざるを得なかった。
二度と会わない。
それがどこか哀しくて、カイはもう一度、自分から乱暴に蘇芳に口付けた。
それは一瞬で、唇が離れたと同時に、カイの姿は蘇芳の視界から消えていた。
インターホンが、何度も鳴らされる。
蘇芳はくるりと身を翻すと、それに答えるべく、ドアに向かっていった。
逃げた先の自分の隠れ家で、押し込まれたチップをカイが解析すると、通行証が作れるようなデータが入っていた。
その内容に、カイはますます混乱した。
蘇芳は、一体何を望んでいるのか。
本当に、自分が逃げることを望んでいるのか。
そうだというのなら、それは、何故なのか――。