サイレント・ノイズ 第八話
――左目ノ行方――
05
「なあ、いつから知ってた?」
まだぼんやりする頭をコーヒーで覚ましながら、ジェイクは窓際で空を見上げているカイに尋ねた。
「何を?」
「俺に何も言わずに失踪した理由」
その言い方に、まどろっこしいなあ、とカイが笑った。
「最初から、かな」
「なんで?」
「だって、キースがいなくなってから、おまえは一匹狼を気取ってただろ?それなのに、俺に近づいてきた。何かあるって思うだろ、普通」
気取ってとはまたひどい言い方だ、と抗議しながら、ジェイクは苦笑を隠せなかった。
最初から。カイは、みんなお見通しだと言う。
「じゃあ、キースがどうしてあんなことになったのか、知っていたのか……」
「知ってたって言うか、ジェイクのことを調べているうちにおまけでわかった、というかね」
相変わらず、カイは視線を空に向けている。映し出された、偽物の空。それでも雲は、ゆったりと流れていた。
「結構ショックだったんだよ?あの頃は、まだ俺も可愛かったから」
ウォンみたいにさ、と呟くように言う。じっとその背を見つめるジェイクには、カイの顔に浮かんだ自嘲の笑みを見ることは出来なかった。
「でも、お互い様だよ。それで俺も、ジェイクを近づけようと思ったんだ。キースがどうして俺のことを調べていたのか、わからなかったからね。梅花の近くにいれば、いつかは何かわかるかもしれない……」
でも、祖父を無くしたばかりで必死だったカイは、目の前の仕事を片付けるのが精一杯で、いつしかそんなことは忘れていった。いや、忘れたと言うより、仕舞いこんだと言うほうが正しいのかもしれない。
本当は、ジェイクたちといるのは、楽しかった。一匹狼を気取っていたのはカイのほうで、でも、無くしたばかりのぬくもりは、ひどくカイを淋しくさせて。
「馬鹿だよなあ」
小さく呟いたカイに、ジェイクが聞き返す。でも、カイは何も答えなかった。その代わり、ジェイクの方に向き直って、質問をした。
「キースは、まだ生きてると思うの?」
今度は、ジェイクが天を仰ぐ番だった。剥き出しのコンクリートの天井に、いくつもの小さな染みを見つける。
「さあな。でも、生きている気がしてる」
その答えに、カイが笑った。そんな不確定要素で行動するなど、ジェイクらしくない。
「どっちにしろ、けりはつけなきゃならない」
そうしなければ、自分は進めない。あの右目から、逃れられない。
ジェイクは、持っていたバッグの中からそっとそのケースを取り出した。
「それ、キースの?」
「ああ」
せめてこれを、返してあげたい。
傷つかないように、ゆるい液体の中でぷっかりと浮かぶ球体は、その青さもあって、地球を思わせた。
参ったな、と言いながら、朱理がどさりとソファーに沈み込んだ。それを見るとはなしに見ながら、蘇芳は窓を開け放ちに行った。ぬるい、春の空気が部屋に入り込む。
――まだ予兆といった段階だが、解決策が見つからない限り、このまま悪くなっていくだけだ。
思いつめたような研究者の声を反芻する。
わかり切っていたことだ、と蘇芳は思う。そもそもが、間違っているのだから。
――はやく、No.717を探してくれ。
突然子供のようになってみたり、訳のわからないことを口走ったり、皇太子は錯乱し始めていた。「変調」が、こんな形であらわれるとは、研究者達は考えていなかったらしい。それにうろたえて、実験体を早く探せと詰め寄った、愚かな者たち。
「見つけたからって、どうにかなるのか……」
朱理の呟きに、蘇芳が振り返った。
「見た限り、彼はとても健康そうだった。身体も、心もね。まあ、予兆がそのときは現れていなかった、とも言えるが」
朱理の言葉に、蘇芳は答えず、また庭に視線を戻した。
「彼の方が、より成功していた、ということなんだろうか」
そんな蘇芳を気にもせず、朱理は独り言を続けた。聞こえていることはわかっている。しばらくの沈黙の後、蘇芳は朱理に背を向けたまま、違うだろう、と言った。
「彼の傍には、少なくとも一年間、ウォルター教授がついていた。だから、彼は未だに変調の様子を見せていない」
「どういうことだ?」
「ウォルター教授の研究は、完成していなかった、ってことだ」
ふいに振り返った蘇芳の目が、朱理をじっと見つめた。
「教授は、それをわかっていた。だから、メンテナンスをしていたのだろう。その分、変調は遅れる」
「浅葱さまも同じだろう?研究者達がメンテナンスはしていたはずだ」
「だから、研究は完成していない、というんだ。それをわからずにメンテナンスをしても、意味はない」
「蘇芳……?」
「ウォルター教授の記憶操作の研究は、完成していないんだ」
断言した蘇芳に、朱理は眉根を寄せた。確かに、ウォルターの逃亡時、研究は完成していなかった。でも、その後、その研究仲間たちがそれを完成させたはずだった。
ウォルターは逃亡の際、研究資料を全て持ち出していた。だが、それは取り返され、ウォルターは抹殺された。それも、研究が完成したからだ。
「記憶は、消えない。塗り替えられるだけだ。ウォルター教授は、それをわかっていた」
みつめる蘇芳の目は、逸らされなかった。それに、朱理は知らずごくりと喉を鳴らした。
「蘇芳、おまえは何を知っている」
声が、震えそうになる。そんなはずはないと思っても、それならば、蘇芳の今までの行動も納得がいくとも思う。
もし、蘇芳が忘れていないというのならば。
「何も」
微かに笑いながら、蘇芳はそう言った。
「何も、知らない。ただ――」
ただ、忘れていないだけで。
「いつからだ」
長い沈黙の後、朱理は力なくそう言った。ぱたりと窓が閉められて、息苦しさが増した気がした。
「見当もつかない、か?」
微笑んだ蘇芳が、ゆっくりとソファーに向かってきた。朱理はゆるゆるとその頭を上げて、五年前か、と呟いた。
「正確には、五年半前、だ。だから俺は、叶わないことを承知で、ここに異動を願い出た」
よく許されたものだ、と蘇芳は笑った。
「それは、研究者の一人が、興味深いと言ってね。記憶は、どこまで呼応するのか。ただそれより、呼応などしない、と考える研究者の方が多かったというのもある。そして実際、おまえには変化が見られなかった」
「当たり前だろう?変化は、その前にあったんだからな。半年もあれば、俺は自分が被験者としてどんな風に反応すればいいのか、わかっていた」
ああ、見事だったよ、と朱理はため息をついた。
騙していたつもりが、騙されていた。あるはずのない罪悪感が、朱理の中に湧き上がる。五年間だ。そんなに長い間、この男は自分に騙されているふりをしてきた。
その隣に、自分はどんな顔をして立ってきたのか。
「きっかけは?」
「些細なことだ。朝コーヒーを飲むときに、いつか誰かと一緒に飲んだ気がするとか、赤い花をちぎる手を知ってるとか、雨の日の孤独とか……そういう些細なことが重なって、俺は誰か大切な人間を忘れていると思った」
そしてある日突然、思い出したのだ。はっきりと、何もかもを全て。
蘇芳は朱理の向かい側に腰をおろして、ゆっくりと息を吐いた。
「迷った末に、俺はウォルター教授を訪ねた」
その言葉には、朱理が驚いて顔を上げた。わずかに正面からはずれた、蘇芳の顔を凝視する。
「俺の話を、彼は嬉しそうに聞いていた。そんなこともあると、実に嬉しそうにね。記憶なんて物は、そんなに簡単に消えないのだと。自分の研究の失敗を見せられているのに、どこかほっとした感じだった。それから、ある一つの計画を打ち明けられた」
「蘇芳……おまえ、まさか」
「一介の研究者が、そんなに簡単にあの研究所を抜けられると思うか?それも、実験体を二体も連れて」
朱理は繰り返し、小さく首を振った。それは、蘇芳に同意していると言うより、その話を信じられないと言っているようだった。
「自分の身に降りかかるかもしれない危険など、考えなかった。ただ、自由にしたかった」
それは、今も同じだろう、と朱理は目の前の男を見つめ続けた。何度も、カイとの接触を隠し、あまつさえ逃がしたのだ。まるで、そのために、この地位を確保したのだとでも言うように。
実際、そうなのかもしれない。いつかくるこんな日のために、蘇芳は自分に騙され続けたのかも知れない。
「どうして、俺に話した?」
「同じだからだ」
簡潔に言った蘇芳に、朱理は目を眇めた。
「俺たちが探しても探さなくても、あいつはきっと現れる。自分から、来る」
もう、自分にはどうすることも出来ないのだと、蘇芳は哀しそうに言った。