サイレント・ノイズ 第九話
――消エタ記憶――
01
泣くものか、とウォンは思った。あの冷たいカイの眼差しに、負けるものか、と。
確かに、自分は経験も能力もない。でも、ジェイクのパートナーを務めていたのだ。それだけは、誇っていいはずだった。そして、だから、今は一人でも立ち向かわなければならなかった。
「あっ……」
画面が暗くなって、強制的にシャットダウンされる。メイの個人データバンクを探しているうちに、もう何度も経験したことだ。辿り着けるのだろうか、とウォンはため息を吐いた。
カイの言い方で、メイから直接そのデータを手に入れるようにと迫っていたのだろう、ということは、ウォンにもわかっていた。でも、どうしてもそれを出来ないでいる。
期日が、迫ってきていた。あの後、カイから日付、場所指定でデータの引渡しを要求する短いメールが来た。その期日まで、もう間がない。
果たして、メイに頼んでもそのデータを渡してくれるかどうか、ウォンには自信がなかった。姉である前に、メイは組織の長だ、とウォンは思っていた。そのメイに、どう言って頼むと言うのか。
「くそっ……」
自分の技術では、とてもじゃないが膨大で緻密に組まれた梅花のデータバンクを彷徨うことなど出来ない。いっそのこと、メイの部屋に忍び込もうか、とまで考えたウォンの耳に、「何をしてるの」という声が聞こえた。はっとして振り返ると、葵が戸口に立っていた。締め切ったはずが、鍵を掛け忘れていたのだろうか、とウォンは冷や汗を流す。
葵は後ろ手にそっと扉を閉めると、鍵をかけた。じっとみつめてくる目に不信感も迷いもなく、奇妙な違和感にウォンの方が眉根を寄せた。
「だれかがずっとしつこくデータをいじってると思ったら、ウォンだったんだね」
葵は責めるようでもなく、静かな声色でそう言った。ウォンは何も答えずに、ごくりと唾を飲み込んだ。
「でも、これじゃあいつまで経っても辿り着けないよ?」
「葵?」
「手伝って、あげようか」
ウォンが目を眇める。葵が何を考えているのか、わからなかった。
「その代わり」
葵はウォンをじっと見つめたままだった。その瞳はいつも深い深い色を湛えて、ウォンは吸い込まれそうになる。
「僕も研究所に連れて行って」
「葵……メールを見たのか?」
「あんな、プロテクションも掛けてないメール、誰でも見られる」
「だからって」
「必死なんだよっ」
ふいに葵が叫んで、ウォンは口を閉じた。葵が何故、幹部候補生という将来を約束された立場を捨ててまで、こんなところに来たのか、ウォンは知らない。でも、自分達に馴染もうともせず、いつも思い詰めたようなのは傍から見ていても痛々しかった。
「誰にも言わない。いくらでも手伝う。だから、僕も連れて行って」
確かに、葵の手助けがあればそれほど心強いものはない。理由もなしに信用するのもどうかと思ったが、もう既に知られているのだ。かわらない、とウォンは腹を括ることに決めた。
それに、葵の必死さは、どこか自分の必死さに似ている。
大切な何かを守る必死さに、似ている。
国立第八研究所は、地下にあった。それは、地上における地下室であって、レベル1なのではない。
「怖えなあ。落っこちるんじゃないの?」
カイが車の中でモニターを見ながら笑った。
「一応柱の上だからな。平気だろ。この調子じゃ、柱の上には秘密基地あり、って感じだな」
だろうな、と言いながら、カイは準備を始めた。赤い髪は今は黒く、瞳には赤外線感知のついたコンタクトを嵌める。さらにカメラ機能のあるゴーグルを頭にのせると、手には手袋を嵌めた。
「時間か……」
ジェイクが呟くと、カウントダウンする?とカイがにやりと言う。そんな暇ないだろ、と指された画面は、一瞬の揺れの後、また同じ場面を映し出していた。
「よし、成功。行くよ」
緊張感がないのはこの二人だから仕方がない。でも、この先には最も恐ろしい結果が待っていてもおかしくないのだ。
そう言えば、散々コンビを組もうと言っていた自分をジェイクは思い出した。ようやくその念願がかなったが、これが最初で最後だろう、と思っていた。それは懸念でも、不安でもなく。ただ、漠然とした確信だった。
その五分後、二人の後を追うように、二つの影が建物の中に消えていった。
ウォンは、何故カイがこんなところをデータの引渡し場所に指定したのか、わからなかった。どちらにも、危険だということはカイだってわかっているはずだ。それでも、綿密な計画と地図を送ってきたからには、意地でも行こうと決めていた。結局、それによって、葵と言う強力な味方もつけたのだ。葵のおかげで、メイには知られずにカイのデータを手に入れた。それは少なくともウォンにはショッキングな事実だったが、それよりも今はジェイクを助けようと必死だった。
しんとした屋内で、メインコンピュータの部屋に向かいながら、カイは一体どうしたいのだろう、とウォンは思った。
知らなくてもいいことは、たくさんある。
情報屋という稼業をしていても、そんなことはたくさんあるのだとウォンは知っていた。
ここにあるデータを見れば、カイは自分のことを嫌でも知らなければならなくなる。
全てのことが、嘘だったと、知らなければならなくなる。
小さな呻き声のようなものが聞こえて、カイとジェイクは動きを止めた。後ろを歩くジェイクが、そっと振り返る。カイは前方と両隣に視線を走らせたが、何も異常はなかった。
「……誰も居ないぞ。早いところ入ろう」
「そうだな」
ジェイクに促されて、カイは近くの扉をゆっくり開けた。
「指紋なんて、いつ盗んだんだ?」
「盗むなんてひどいなあ。借りたんだよ、ちょっと」
扉は、指紋照合が鍵になっていた。でも、以前から侵入を考えていたカイは、半分賭けである人物の指紋を取っておいたのだ。躊躇なく開いた扉に、カイは自嘲の笑みを浮かべた。開いて欲しかったのか、欲しくなかったのか。わからない。
開いたときと同じ滑らかさで閉じた扉を確認して、二人はそれぞれの目的を果たすべく、並ぶコンピュータを見渡した。ここのデータは、外部とは一切繋がっていない。この建物内だけの、それも数少ないコンピュータ上に仕舞われていて、侵入は不可能だったのだ。
ジェイクは、ジャケットの内ポケットに仕舞っていたキースの瞳を取り出した。最も手っ取り早い方法だとばかりに、それを読み込ませる。
瞳の識別コードは、一生変わることはない。さらに、両目がほぼ同じコードだ。右か左か、それを表すコードが違うだけで。だから、片目だけが送られてきた時点で、ジェイクは片目を持ったまま、キースが生きている可能性を期待した。
赤い光が一瞬途切れて、コンピュータが識別コードを読み込んだことがわかった。知らずごくりと唾を飲み込んだジェイクの目の前に、細かい字が次々と現れる。それを小型のカメラに写し取りながら、やはり、キースはここで片目摘出の手術をしたに違いないと確信した。
そして――
がたんっ、と音がして、キースははっと顔を上げた。自分とは反対側のコンピュータでデータ検索をしていたカイが、立ち上がっていた。
ちらりと見えた横顔が真っ青で、ジェイクは素早く自分の方のデータを写した。じっくり読むのは、ここから出てからだ。
「カイ、どうした」
声をかけても、立ち尽くしたままのカイは画面をじっと見つめて、動かなかった。その画面には、いくつかの人物の写真と共に、そのデータが載っていた。
その中の一つに、ジェイクはどこで見た顔だと記憶の底を辿った。
あの、カイを襲った、イアンの妹だ。
「カイ……これは……?」
「俺、誰だよ」
え?とジェイクは呆然としながらも震えているカイを見た。
「俺、一体誰なんだよ」