サイレント・ノイズ 第九話
――消エタ記憶――
03
現皇太子、浅葱が生まれてすぐ、その母である王妃は病のために亡くなっている。産めば自分の命が危ないとわかっていても、王妃は子供をおろすことを拒否した。
――例えそれが、王の継承権のない、女の子だとしても。
この国がカバーフィールドに覆われたときから、きっと病み始めたのだろう、と蘇芳は思う。汚染されていない、たった一つの島国は、身体を蝕む病を退けた変わりに、精神を病んだのだ。
王は、その子供を、男として育てる決意をした。
その以前から、第八研究所では、密かに人体実験が行われていた。苦しい生活ゆえの孤児は地下には溢れるほどおり、極端な階級社会が人間の尊厳を踏み躙っていた。
最初に行われたのは、ホルモン操作による性別の転換だった。しかし、脳の意思を伴わない、発育期のホルモン操作は思った以上に難しく、研究は慎重に行われなければならず、困難を極めていた。そこに、さらなる問題が持ち上がる。
「ホルモン操作が、どうして移植研究になるんだ」
カイが、搾り出すように言う。蘇芳は大人しくなったウォンから手を離して、自分も壁に寄りかかった。
「浅葱さまの心臓が、持たないことがわかったんだ」
成長するにつれ、心臓が極度に弱いことを知った研究者達は、一様にホルモン操作を取りやめるよう王に進言した。それよりも、その心臓を強くしなければならない。
しかし、既に浅葱以外の後継者を認めていなかった王は、移植研究に熱心だった研究者の言葉に飛びついてしまう。
それが、プログラムナンバー700の始まりだった。
「目だけ違うのは、浅葱さまの目を殊のほか愛でていた王の意向だ。本来なら脳の提供者と同じ目になるはずだが、彼女は目が見えなかったからな。急遽他の人間の目を移植した」
一人のために。
それも、自然に真っ向から対立する形で。
「ウォルター教授が、連れ出したのは?」
カイの隣でじっと聞いていたジェイクが、問い掛けた。それに蘇芳が答える前に、カイが呟いた。
「シリル・J・スミス。ウォルターの、息子、か?」
カイは、じっと自分の手を見つめていた。それを見ながら、蘇芳が小さく頷いた。
「シリルは、事故がきっかけで脳死になっていた。それでも諦めきれなかったウォルターは、研究所の友人に頼んで、ずっと生かしていたんだ。そして、プログラムナンバー700のことを知る。浅葱さまの記憶操作をするために、彼も必要だったからな。
彼はそのプログラムに協力する変わりに、シリルを身体の提供者とすることを条件として出した。そのとき既に、ここから逃亡することを考えていたのかもしれない」
コンピュータの明かりだけの室内は、薄ら寒かった。手を離されたウォンは、動くことも出来ずに、自分の腕だけを摩った。
「逃亡する前に、ウォルターは「カイ」にシリルの記憶を埋め込んだ。もともとは、全く作られた記憶が入っていたところに」
静かだった。微かなコンピュータの起動している音が、その静けさを余計に際立たせていた。
「もう一つ、聞きたいことがある」
長い沈黙の後、ジェイクが再び口を開いた。
「カイには、どうしてすぐに担当がつかなかったんだ?エリカは連れ去られてすぐ、山吹がついているだろ」
「ほう、梅花のナンバー2が何を言ってるんだ?」
一瞬の沈黙が流れた。ウォンにも、葵にも、蘇芳の言葉の意味がわからなかった。
「メイか……でも、ウォルターはメイを知っていただろう?」
「ああ。だが、それもメイの計画だったとしたら?徹底的に隠しているが、彼女は日本人だ」
ひゅっと、息を呑む声が聞こえた。許容範囲を越えるような真実の連続に、ウォンが耐えられなくなった音だった。ずるり、と座り込む。床の冷たさも、目の前の人間達も、何もかも幻だと思った。
「警察の人間だとでも言うのか……」
さすがに呆然と呟いたジェイクを、蘇芳が笑った。
「違うよ。それなら、何故今俺たちが出てくるんだ?」
「じゃあ、どうして……」
「この計画には、もう一人の少年が必要だということを忘れていないか?」
皇太子、浅葱の、身体となった少年。
「それが……?」
「メイの、息子だ」
もう聞きたくない、とウォンは耳を塞いだ。自分のいた世界が、全部嘘だと言われているようだった。
「移植に際して、拒否反応が出ないように研究者達は適合者を徹底的に探し出した。もちろん、日本人の中で、同じ年頃の男の子を。メイの息子は、そうして探し出されてしまったんだ。彼は、故意に起こされた事故によって、研究者達によって仮死状態にされた。そして、メイには死んだと、伝えた」
事故はもちろん、偶然を装って起こされた。ただ幸せに暮らしていたメイには、疑いようがなかったのだ。突然の、不幸だと言われて。
「同じ事故で、メイは夫も亡くしている。だから、皇太子を見たとき、直感のように感じ取ったんだろう。それが、自分の息子に違いない、と」
不幸の底で、一縷の希望が見えたに違いない。それから、メイは身分も国籍も偽って、自分の息子を探すことに心血を注いだ。
ウォンとは、片親違いの兄弟だった。民族意識の強い中で、中国人と結婚したメイの母親は、街を離れるしかなかったのだ。そして、貧しい生活の中で、両親は病に倒れてしまう。その後、日本人だったメイは施設に、ハーフだったウォンは売られていったのだ。
「その息子のことを調べるために、メイにはエリカもカイも格好の餌だった。ここと間接的にでも連絡を取れるというのも、大きかっただろうな」
「それが、どうして後になってカイ担当がついたんだ?」
「それはメイに聞けよ。あるときを境に、メイからの連絡がなくなった。そして、明らかにこちらを探る動きを見せ始めた」
「それが、キースか……。当初、メイはカイの研究と皇太子のことが関連しているとは思ってなかったんだろう。それが、カイの研究が皇太子のためだと知った」
そんなところだろうな、と蘇芳は小さく息をついた。
じっと一点を見つめて動かないカイを、そっと見る。
もう、自分ではどうすることもできない。これは、カイ自身が決着を着けるしかないのだ。望むとも、望まぬとも、生まれた自分に対して。
残酷すぎる、と蘇芳は思う。まるで、生を弄ぶような行為だ。
自分が誰なのか、と叫んだカイが痛々しかった。それに、「カイだ」と答えたのは、嘲笑でも、ましてや同情でもなかった。
狂ってもおかしくない状況で、それでも必死に自分を保っている人間は、蘇芳にとっては、紛れもなくカイだった。それ以外の、誰でもなかった。
「俺も聞きたいことがある」
静まり返った室内で、カイの声はいやに凛と響いた。狂わない方が、おかしいのだ。
「あんたは、俺に誰を見ていたんだ?」
カイの目が、真っ直ぐ蘇芳を見ていた。その目に、やはりここにいるのはカイだ、と蘇芳は思う。
「誰でもない」
「嘘だろう?じゃなかったら、どうして逃がしたりするんだ。最初から、俺をつけていたんだろう?」
「さあ、どうしてだろうな。同情、でもしたか……」
その言葉を、カイは首を振ることで拒否した。そんなはずはないのだ。蘇芳がいくら違うといっても、自分の中で確信している。
この手を、声を、ずっと前から、知っている、と。
「そうだよ、君は蘇芳を知っている。思い出さないのか、アキ」
音もなく扉が開いてそう言いながら入ってきたのは、朱理だった。
「あんたは、あのときの……」
「あのときは挨拶も出来なかったね。よろしく、君のもう一人の担当だ」
にっこりと笑った朱理の顔は、その場にそぐわないほど綺麗だった。
「なるほど。それで俺の名を知ってたのか。それで?俺が誰だって?」
「思い出さないのか」
「アキって、脳の提供者だな。それが、蘇芳とどんな関係だったんだ?」
カイ、と蘇芳が呟いた。首を小さく振るその蘇芳を無視して、カイは朱理を見つめた。
「ここまできても思い出さないのか……」
「朱理、やめろ。これ以上は混乱させる。混乱させたら」
そこまで言って、はっと蘇芳は口を閉ざした。
思い出してはいけないのだ。
自分が、女だったときのことを。
アキと呼ばれた、一人の少女だった記憶を。
「混乱したら?……俺は、どうなるって?」
「カイ、」
「もう十分だ。今更だろ?俺には全てを知る権利がある。知らないほうが、おかしくなる」
吐き捨てるように言ったカイに、蘇芳は口を閉ざした。それを横目に、朱理が薄く笑う。
「君は知らないんじゃない。忘れただけだ。蘇芳を良く思い出してごらん。アキ」
「朱理っ。おまえ一体……」
教えればいいことだ。それを、なぜ朱理は無理やり思い出させるようなことをするのだ。
蘇芳がそう思って、叫んだときだった。
それを上回る、大きな高い悲鳴をあげて、カイが頭を抱えて、崩れ落ちた。