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花の咲く頃
05
三日経っても、俺は客を取らされなかった。何か病気でもあったのだろうかと思ったが、そうではなく、俺にはもう、買い手がいるのだという。それも初物じゃなければならないらしく、俺はその客が訪れるのを待たなければいけないらしい。
待たされるのは嫌だった。早く終わってしまって欲しい、と思う。怖いのは、どんなことをされるかわからないからで、一度体験すれば、心構えだって耐性だって付くはずだ。
五日目は、レースの日だった。日付も狂い始めそうだったけれど、俺はその日だけは覚えていた。カイ兄ちゃんがレースに出ている姿はなかなか見られないかもしれないけれど、街中でのレースだから、チャンスがあれば見ることもあったかもしれない。
俺はここでずっと監禁されるわけではない。でも、一度は働かないと、出られないのだ。逃げられたら困るのだろう。契約のときに確認される。
帰ったら。
いつもみたいに笑えるだろうか。
母さんに、心配をかけないように。今度は、俺が明るくなんでもないことのように話す番なのだ。
庭のオレンジに、母さんは水をあげているだろうか。
万年春のこの地で、まだ小さなオレンジは、すぐに枯れてしまうだろう。
六日目の朝、オーナーが乱暴に扉を開けて入ってきた。それから、苛々とした顔で、まだベッドに寝ていた俺のシーツを剥がした。いつもより、目がいやらしく光っていた。
「確かにおまえはいい身体をしているかもなあ。こんなんだったら俺が頂いておくんだったか」
「どう言う意味?」
「おまえをね、買うっていうんだ。一晩じゃなく、おまえ自身をね」
舐めるようにオーナーが俺を見る。俺は、半身を起したまま、ただ動けなくなっていた。
「そんなの、契約にないっ」
それでは、俺はもう帰れない。その客のもとにいるしかないじゃないか。
「商品の身柄は店に帰属する。それは契約にあったはずだ」
「でもっ」
「そんなに長いことじゃないかもしれないよ?少年好きなら二、三年、背が伸びたらただのサービスに回されるかもしれないし」
そんな甘いものじゃないだろう。商品を買うのだ。かなりの金額だったに違いない。サービスなどといって、どんなことをされるかわからないし、再びどこかに売られることだってあるかもしれない。
オーナーは俺の顔が強張ったことなど気にもせず、俺に薄いシャツを投げて遣した。久しぶりに着る服がそれなのだ。ここでは少年達は、このシャツだけを身に付ける。たぶん、オーナーの趣味だろうと俺は思っていた。
「キイ、おまえはまだ運がいい。今回の客は上客だ。太ってもいないし、若くて見た目もいい。そんな客に買われるんだ。幸運だと思え」
これが幸運だというのなら。
きっと、この先の未来、俺には幸運がたくさん転がっていることだろう。
「残念ながらきつく言い含められていてね。手が出せない。絶対に、初物が良いそうだ。何をしたいのかねえ?」
そう笑うオーナーは、とても楽しそうだった。だから俺は、それが想像できた。このオーナーは、人を痛みつけるのが好きなのだ。だから初物はよく、このオーナーに食われると俺も聞いていた。
男の初物なんてわからない。だから、オーナーは自分で食っておいて、初物だと売り出すのだ。でも、今回は余程の人物なのだろう。俺はそれが余計に怖かった。
そんな人は、俺とは遠い世界だ。遠い世界の人間が何を考えているのか、わかるはずがない。
実際、綺麗に整えられた部屋に連れて行かれたとき(ここの部屋はどこも清潔だと母さんは言っていた。それが母さんがここを気に入っている理由の一つだ)、目の前で長い足を組んで黒いサングラスのようなものを着けていた男は、ものすごく冷たそうだった。表情が動かないのだ。
ただ、それを、俺はどこかで見たことがある気がしていた。
地味だが上質のスーツを着ている男は、顔の大部分をサングラスで覆っていて、年齢さえわからない。微かに見える肌や身のこなしから、まだ若いのだろうと思わせる。黒い髪は頬に掛かるほどの長さで、さらりとしていた。その服装からも、政府高官のような印象が合った。
こんな街に、いるような人間じゃない。
俺はすぐに身を硬くした。このまま、この街から出ていかなくてはいけないかもしれない。
俺がいなくなったら、母さんはどうするのだろう。
あの、オレンジの木は。
「……ここにいるにしては、悪くない。貰おう」
男がゆっくりと口を開いて発した声に、俺は目を見張った。
今にも、泣いて縋りそうだった。
その声を、知っていたから。
俺が驚いて立ち竦み、息を呑んだのを、周りは恐怖と勘違いしてくれたようだった。俺はただ、目の前の人物をじっと見つめていた。
見えないはずなのに、その濃い黒のグラス越しに、その目が笑った気がした。
すっと手が伸ばされる。
俺はその手を、きゅっと握った。
泣きそうになって、でも頬が緩みそうで、俺は俯いた。
その手は変わらず、温かかった。
からくりを聞いたのは、母さんからだった。俺を「買った」男は、何も話さずに、俺を家に送り届けてくれた。俺は話をしたくて仕方がなかったけれど、周りを酷く警戒していて、車の中だとしても、声を発することは出来なかった。
帰ったときには、隣の家はすっかり片付いていて、俺はその綺麗に何もなくなった部屋の中で、ぼんやりと立っていた。
「カイ君がね、これをキイにって」
俺の後から部屋に入ってきた母さんが、そう言って差し出したのは、青いスケーターだった。履いてみたら足にぴったりで、驚くほど軽かった。
「なんだか、あまりに綺麗ね」
母さんがぐるりと部屋を見渡した。確かに、今の今まで誰かが住んでいたようには、見えない部屋だった。
カイ兄ちゃんは、レースに勝ったのだ。
これだけの規模なら数日掛かるはずなのに、異様な速さで優勝者が決まったのは、ホン兄ちゃんが裏で何かしていたのかもしれない。
詳しいことなど何もわからないけれど、カイ兄ちゃんがレースに勝った賞金で、ホン兄ちゃんと二人で俺を買ってくれたのは確かだった。
それから、少しばかり、俺と母さんにお金も残してくれた。
どうするのかは、あなたたち次第だ、とカイ兄ちゃんは言ったのだという。
ただ、キイの願いを叶えたかったから、と。
ホン兄ちゃんが渋々ながらレースに出ることを許したのも、その所為だったらしい。
「カイ君がね、私とキイは似てるって言ってたわ」
「そりゃあ親子だもん」
「顔だけじゃなくてね、強がりなところも、だって」
「強がりなところ?」
俺は少しだけ上にある母さんの顔を見上げた。母さんは、ものすごく優しく笑っていた。
「怖かったわよね、あんなところに連れて行かれて」
「ちょっとね。でも、母さんの仕事場だし、俺と同じ年の子も一杯いるでしょ?」
笑った俺を、母さんがきゅっと抱きしめた。
「いいのよ。怖かったら、怖かったって言いなさい。母さんだってね、本当は怖いのよ」
本当はいつだって、行きたくなかったの。
母さんは囁くようにそう言った。俺はその母さんを、抱き返した。
そうだ。
生きていくために、俺たちはいつでも強がっていたけれど。
本当は、怖かった。
母さんがこのまま、この仕事を続けていくことは出来ないことも、いつか病気になってしまうかもしれないことも。俺が、その代わりに身体を売ることも。
そして、哀しかった。
父さんの影を追って、他人に身を任せざるを得ない母さんが。
「街を、出ようと思うの」
抱き合ったまま、母さんが言った。
俺はそれに、ただ頷いた。
新しい街で、今よりもっと貧しくなるかもしれない。もしかしたらもっと酷い生活になるかもしれない。でも、俺たちは二人で、きっとやっていける。
カイ兄ちゃんとホン兄ちゃんだって、ここで静かに暮らしていたのに、それを投げ出してくれたんだ。
目立つことを恐れていた二人が、カイ兄ちゃんだけだとしても、レースに出て顔を知られた。ホン兄ちゃんだって、俺を助け出すために、あんな芝居をした。店のオーナーは顔が広いから、いつかはばれてしまう。
それに、あの夜のこと。
二人は何かから、逃げているのかもしれない。それなのに、目立つことだと、危険だとわかって俺を助けてくれたんだ。
「新しい街に行ったら、好きな料理の出来るところで働こうと思うの」
「うん。俺は筋力トレーニングをして、このスケーターを使いこなせるようにする」
そうしたら、もっと色々な仕事ができるはずだ。
新しい街には。
あのオレンジの木を持っていこう、と俺は思った。
あの実の美味しさを教えてくれたのはカイ兄ちゃんだ。それから、あの木には白い小さな花が咲くと言ったのはホン兄ちゃんだった。
二人の喧嘩がもう聞けないのは残念だけれど。
いつかまた、会える日が来たら。
カイ兄ちゃんにはお礼を言おう。
ホン兄ちゃんには、文句も言いたい。
「ここにいるにしては悪くない」っていうのは、全然誉めてくれてないよって。
それから、このオレンジを、一緒に食べよう。
二人の惚気でも聞きながら、ね。
了
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