椿古道具屋 第二話
少年の神さま 04
かーっとすると、後先考えずに行動する――たいがいは逃げ出す――のは、史朗の悪い癖だった。凪の家に行った翌日早々、史朗はそれを後悔することになる。
奥さんが入院している病院を聞き、様子を見させてもらいたい、と言うと、手嶋はすんなり了承してくれた。だが、肝心の凪の了承は、結局得ていない。神様たちだって、荒魂の存在はわかるはず、と思ったが、誰かに来てもらうためには、凪を説得できなかったと言わなければならない。そうなればきっとまた、「うちの主人は物知らずな上役立たずだね」と呆れられるに違いない。ついでに、どうして説得できなかったのか、事細かに訊かれるに決まっている。いい加減、史朗も神様たちの性格がわかってきた。噂好きでおせっかい、その上人をからかうのが大好きなのだ。困る史朗を見て楽しむのは、もはや彼らの娯楽なのだろう。
病院に行くのは、授業があるから早くても土曜日だった。それまでずっと、史朗はいろいろ考えていたが、良い案は一つも思い浮かばなかった。結局、神様たちに頭を下げるか、と観念して、放課後椿屋へ向かった。
椿屋は、今日も休業中である。シャッターの上に、「只今休業中」の紙を張ったのはつい最近だ。すぐに病院に向かうことを考えると面倒だったが、史朗はそのシャッターを最後まできちんと押し上げた。店の中に、柔らかい日差しが入る。冬晴れの、ぽかぽかと暖かい日だった。こんな日に暗い中にいるなんて、自分たちはなんて可哀そうなんだろう、と言う神様たちの声が聞こえてきそうだった。頼み事をするのだから、少しくらいは胡麻をすっておかなければならない。
ところが、店の中は、いつもと違ってしんとしていた。史朗が来ると、挨拶をしてくれる神様や、文句の一つも言う神様が必ずいる。だが、今日は誰も声を掛けてこなかった。
首を傾げつつ、奥の座敷に上がると、広縁に人影があった。史朗はぎょっとして息を止めたが、すぐにそれが誰だかわかり、ほっと肩を落とした。そもそも、神様たちがいる。やたらな人間がここに入れるわけがないのだった。
「凪……何してんだよ」
凪は広縁に胡坐をかいて坐っていた。傍らには、お茶とおにぎりが置いてある。史朗の腹が鳴りそうになった。
「家に電話したら、こっちだろうって言うから。史朗、携帯持ってんだよな? 番号教えろ。アドレスも」
質問に答えていない上に、命令だ。史朗は溜息を吐きつつ、携帯電話を取り出した。確かに、番号を訊いておけばよかった、と何度思ったことか。そうしたら、この間の夜だって、部屋に行かずに済んだのだ。
ふいに、あのとき間近に見えた凪の顔を思い出して、史朗は慌てて首を振った。追い払わないと、なんだかわからないけど顔が赤くなりそうだ。凪はその仕草に誤解をしたのか、目を眇めて「嫌ならいい」と言う。
「違うって! 別に番号を交換するのが嫌なんじゃないよ。じゃなくて、ちゃんと答えろよ。何やってんだよ」
「史朗を待ってた」
ふいに、真っ直ぐな視線に射竦められる。どきりと胸が鳴り、目が泳いだ。
「だ、だから、待ってたって、なんで?」
「招き猫持って来た客の奥さん、見に行くんだろ。病院だから、昼食べたらさっさといこう」
赤外線、できんだろ? と凪が携帯電話を差し出して来る。史朗は慌てて、携帯電話を赤外線受信ができるようにした。
「病院って……」
「訊いてあるんだろうな、場所」
「え? ああ、訊いた。ついでに会いに行く許可も取ってある」
凪は頷いて「今度はそっちの送信して」と言う。
史朗には、何が何だかわからなかった。凪は決して協力的ではなかったはずだ。それなのに、どうして「病院に行こう」なんて誘ってくるのだ。
史朗が口を開きかけたところで、神様たちが騒々しくやってきた。先頭の便利水様たちが、お茶やおにぎりを載せた盆を持って、真剣な目をしてこちらにやってくる。「もう零すなよ」と言われているから、一度ひっくり返しでもしたのだろう。
「しろ、ごはん」
「ごはんー」
「しろ、お茶」
「お茶ー」
史朗がありがとう、と言うと、便利水様たちは何がおかしいのかきゃらきゃらと笑った。お盆を持っていた便利水様の一人は、凪にお茶を持ってきたようだ。凪の隣にそっと持っていき、怖々置いたと思ったら、ぴゅっとばかりに史朗の後ろに隠れた。思わず笑ってしまう。その史朗を見て、凪が眉をひそめた。
「なんだよ」
「いや、おまえよっぽど怖いんだなあと思って。便利水の瓶の神様は近寄れないらしい」
「便利水?」
「うん。なんか、昔の接着剤とか言ったかな? 凪にお茶を持ってきた神様は、今は俺の背中に貼りついてる」
ふうん、と言いながら、凪はおにぎりをぱくりと食べた。史朗も「いただきます」と手を合わせ、おにぎりを掴む。
「なんだよ」
「へ?」
「まだ笑ってる」
指摘されて、史朗は誤魔化すようにおにぎりを食べた。凪はじっとその史朗を見ている。
「別に、大したことじゃないって。凪でも知らないことがあるんだなーって思ってさ」
教えを請うのはいつでも史朗だ。だから、些細なことだったが便利水の説明ができて、史朗は嬉しかった。
「当たり前だろ。なんでも知ってるわけじゃねえよ」
凪はまるで心外だ、とでもいうような顔をして、そう呟いた。
病院に行くと、手嶋が待ってくれていた。「こういうときは何か持って行くもんだよ」と糸巻き様に言われて持たされた花束を渡すと、恐縮された。
「あの、それで、こちらの方は……」
手嶋はあくまでも丁寧だ。だが、それは彼の気弱さからでているのではないか、と史朗は考え始めていた。
「あ、えーと、俺の幼馴染で……」
「神鳥凪と申します。椿屋のおじいさんもよく知っていたので、ときどきお店の手伝いをしています」
凪はそう言って、すっと頭を下げた。史朗はあんぐりと口をあけ、隣の幼馴染を見た。
凪という男は、本当にわけがわからない。いつもの無口はどこにいったのかと思うほど、滑らかな喋り口だった。その上、やけに丁寧ときている。こんな話し方もできるなんて、詐欺みたいなものだ。
手嶋は気圧されたように、ひどく恐縮して何度も頭を下げていた。どちらが大人なのかわからない。
「では、どうぞ病室へ……。あ、今日は息子の亮一も来ていますが、邪魔はさせませんから」
手嶋はどこまでも腰が低い。二人を先導する姿も、校長先生の前を行く平教師のようだった。
病室に入ると、確かに少年がいた。古ぼけた人形を抱えて、じっと大きな目で凪と史朗を見ている。挨拶をして、と父親に促されても、緩慢な動作で頭を下げただけだった。
病室はかなり暖かく、史朗は上着を脱ごうか迷った。手嶋はシャツ姿だが、亮一は厚手のトレーナーを着ている。ズボンもスエットの長ズボンで、まるでパジャマのようだった。母親が家にいないからだろう。
「すみません、躾がなってなくて……。あの、それで、これが妻の藍子です」
ベッドには、病人には見えない、色艶の良い顔をした女の人が眠っていた。腕から出ている点滴が痛々しいが、なかなかの美人で、色も白い。ただ、目を閉じていても、きつそうな人だと史朗は思った。
黙って立つ凪をそっと見ると、頷かれた。彼女に、確かに何かが憑いているのだ。史朗はもう一度、彼女の背後に目を凝らしてみた。だが、荒魂がその意志で形を作ってくれない限り、史朗にその姿は見えない。
「あの、奥さんはいつから……?」
「もうすぐ、ひと月になります。それまでは普通だったと思うんですが……」
手嶋は小さく嘆息して、寝入っている妻の顔を見た。心底困っている、という顔だった。僅かな苛立ちも見える気がする。原因不明で目が覚めず、一か月もこの状態では、確かに大変だろうと史朗も思った。
「そのひと月前に、あの招き猫が?」
「ええ。お客さんの一人に貰ったんです。正直、あんなに大きいので困ったなあと思っていたんです。まあ、事務所に持って行こうかとも思ったんですが、お客さんはわざわざ私に、って話でしたし、それで事務所に置いてあるのが見られたら気まずいですし……」
やっぱり気が弱いのだ。史朗は一抱えもある招き猫を思い出して、うんうん、と頷いた。
「まあ、ちょっと大きすぎますよね。でも、あの招き猫は関係ないみたいです」
手嶋が顔を上げた。それから「そうですか。そうですよね」と苦笑しながら首を振った。
「馬鹿なことを考えたものです。そうですよね、関係ないですよね……。何かが憑いてる、なんて……」
「あの、いえ、奥さんには、その、もしかしたら、何か憑いているかもしれないです。招き猫は関係ないですけど」
「どういうことですか?」
史朗は「えーと」と口ごもって凪をちらりと見た。だが、先刻の愛想の良い挨拶は何だったのか、今はだんまりを決め込んでいる。
「その、ちょっと詳しい人がいるって言いましたよね? その人に訊いてみたら、可能性はあるって言ってて」
「妻に、何かが憑いてる?」
こくっと頷く。手嶋は眉根を寄せ、一層困惑したような表情をした。やはり、何かが憑くだのお祓いだの、信じていないのだろう。史朗はどうしたらいいのかと、立ち尽くしてしまった。
「亮一君、でしたか? いくつになるんですか」
ふいに凪が口を開いた。あまりに脈絡のない質問で、手嶋は動揺したかのように「え、はい。六歳になりましたけど」と答えた。
「来年、小学校ですか?」
「ええ。それなのに、妻がこんなことになって……」
手嶋がまた溜息を吐く。亮一は、話題にされていても気にしていないようで、人形をベッドの手摺の上で歩かせたりしている。体は何か硬いものでできていて、足を持ってもきちんと立っている。古い人形だと思ったが、良く見れば、洋服は新しいもののようだし、顔や肌にも汚れはない。ただ、髪の毛がばさばさだった。短い茶色の毛が、適当に切られている感じだ。
「それ、ビスクドールですか」
また唐突な質問だ。手嶋が史朗に困惑した目を向けてきた。だが、史朗だって困っているのだ。
「ビスクドール?」
「その人形です。陶器でできた人形のことです」
「さあ……私は詳しくないので……。古いものではあるようですよ。妻の実家から貰って来たのですが、妻の祖母辺りの持ち物じゃないかって言ってましたから」
凪が手を伸ばすと、亮一はさっと人形を抱きかかえてしまった。手嶋が慌てて「お兄さんに見せなさい」と言ったが、凪を睨みつけ、人形を隠すように身体を捻った。
凪は別段見たかったわけではないのか、すぐに手を引き込めて手嶋を見た。
「奥さんのお祖母様の持ち物と言うのは、確かですか?」
「え、いえ。そうじゃないか、って話なだけです。妻も子供のころ、よくおままごとをしていたらしく、そのとき祖母に「おばあちゃんも良くその人形で遊んだよ」と言われたそうです。まあだから、祖母のときにはあったんだ、とみんなで感心したのですが……。あの、それが何か?」
それは史朗も知りたかった。だが、凪は「いえ。古そうなので気になって」と言ったきり、また黙り込んだ。
「男の子が人形遊びと言うのもどうかと思うのですが、まあ気に入っているようですし、大事にしているので、いいかな、と。妻も懐かしくなったようで、服なんか作ったみたいですし」
手嶋がそう言いながら頭を撫でると、亮一はその父親を上目づかいにじっと見つめた。
この子は、口は開かないが、何か言いたいことがたくさんあるのではないか、と史朗はその目を見て感じた。大きな目は何かを訴えかけるようで、不思議に惹きつけるものがある。思わずじっと見ていると、ふいに目があった。
どこかで見たことがある。こうしてやはり、目が離せずにいたことがある。
史朗はふいに、幼い頃の凪を思い出した。この子と同じように無表情で、見つめると胸を衝かれるような目をしていた頃の凪だ。今でも少し、その頃の名残がある。幼いときにはみんなに不気味がられたこともあったが、今では「クール」という言葉のもとで、女の子たちを魅了しているのだからわからない。
そう、この子は凪に似ている――。
三人に見つめられている中、亮一はその視線を気にも留めず、再び人形と遊び始めた。傍らで眠る母親でさえ、目に入っていないようだった。