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□ibuki ex01:http://recipe.electro.xx (正人視点)
 冷凍庫を覗くと、白い琺瑯の入れ物が整然と並んでいた。手際よく料理をする青年は、生理整頓も得意なのだろう。ほとんど物がなかったキッチンだが、それでも以前より綺麗になっている。収まるべきものが、収まるべきところに仕舞ってある。自分の家ながら、気持ちの良いキッチンだ。
 正人は一人、そんなことを思いながら、琺瑯の一つを取り出して蓋を開けると、オーブンにいれた。少し緑が見えたから、ほうれん草のグラタンだろう。上に乗っている丸いチーズは、山羊のチーズだと教わった。正人はweb electroを知ってから、食べたことのないものをたくさん食べた。さまざまなチーズもそうだが、かき菜やつるむらさきと言った、見たことのない野菜もあった。今ではかき菜は、正人の気に入っているおひたしの一つだ。
 おかげで正人は、書いている小説の食事場面も、以前よりリアリティがあると担当にも誉められた。
 正人は、イブキに教えられたとおりの温度と時間をオーブンに設定して、そこの時計を見た。まだ一時を過ぎたところで、イブキの就業時間には遠い。今日は日勤だから、定時の五時まで待たないとならない。
 それまで、仕事をすればいい。
 そうは思ってみても、正人は自分がイブキに餓え始めているのがわかった。締め切りが近かったこともあって、最近は上手くイブキを呼び出せずにいた。結局、一週間も会っていない。
 web electroは、いつでも好きなときに担当を呼び出せるわけではない。あんな出方をしてくるのに、担当は生身の人間だ。きちんとした契約がなされている。
 冷凍庫の琺瑯の数々や、いつのまにか増えていった調味料や、果物を眺めて、正人はため息をついた。こうして長い間会えないでいると、つい冷凍庫の中を眺めたりしてしまう。そうやって、イブキの存在や愛情を確認しているのだ。馬鹿なことだと思う。
 だが、イブキはいつでも自分から離れられる。彼から拒まれたら、正人にはどうすることも出来ないのだ。この間のバレンタインとそれ以後の数週間で、正人はそれを痛感した。
 バレンタインのときも、何度呼び出してもイブキは捕まらなかった。
「只今ビジー状態です。他の担当をお呼びになるか、時間を置いて検索してください」そう画面に出るばかりで、イブキは出てこなかった。イライラしてかなり酒を飲んだ。そのうち、イブキの就業時間が終わったのか、その担当はサービスを提供していない、という旨のことが画面に現われて、正人は酔いの勢いもあって、他の担当を呼んで「イブキを呼べ」と繰り返した。
 あの日のあのホテルの部屋は、正人なりのプレゼントだった。いつも温かい料理を作ってくれるイブキに、何か贈りたかった。人前には出られないから、あのホテルでルームサービスを取って一緒に食事をしようと考えたのだ。そのために、自分の担当に食事も美味しいホテルを訊いた。仕事以外で外に出ることは滅多にないのに、あの日はスーツまで着て出かけた。
 それなのに、イブキは出てこなかった。
 振り回していると思ったのに、振り回されているのは自分だと、あのとき悟ったのだ。
 そのイブキがいないと駄目だと悟ったのは、その後だった。
 朝起きたら、抱えて眠っていたはずのイブキはいなかった。一人取り残されて、なんともいえない気持ちになった。そんな気持ちは初めてで、そのぽかりと身体の内が空洞になったような気持ちを持て余した。
 知らなかったのだ。
 それが淋しいということなのだと、正人はそれまで知らなかった。


 ほうれん草のグラタンを食べてから、コーヒーを淹れて、パソコンに向かった。シリーズものの連載の締め切りが来週ある。ミステリー作家と呼ばれる正人は、現在連載を二本抱え、書き下ろしも頼まれている。最初は鳴かず飛ばずだったが、五冊目に出した本が売れ、シリーズ化され、映画にまでなって、それからは順調に売れていた。営業努力など自分が書いているミステリーの謎以上に難しい正人にとって、そこまで育て上げてくれた担当には、本当に感謝していた。
 ――それで本を書いてるっていうのも不思議ですけれど。
 編集者にはそう言われた。だが、文でのコミュニケーションはそこそこできるのだ。話しているときは、色々考えているうちに相手は進んでいってしまうし、言い直すこともできない。だから勢い、言葉も少なくなる。
 だから、この作家という職業は天職だと思った。手を広げようとしなければ、最小限の人間と接触するだけでいい。今はインターネットという便利なものもあるから、電話で話したりするのも、少なくてすむ。だが。
 人肌が恋しくなることもある。
 人との接触を避けているのは自分だ。正人はだから、自分が一人であるのは仕方がないと思っていた。でも、それでも、無性に誰かに居て欲しいと思うときがある。
 あの日は、自分の父親が死んだと知った日だった。祖父と言っていいほど年の離れた父親に、正人は一度も会ったことはなかった。所謂愛人の子で、母親を早くに亡くした正人は、その父からの援助で暮らしていた。だが、その代わりとでも言うように、一切会うことはなかった。
 あの日、奇妙な検索サイトに「手料理」なんて言葉を入れてしまったのは、その父親の死に、母との思い出が蘇ってしまったからかもしれない。もう覚えていないのに、その温もりを思い出そうとしてしまったから。まさか、本当の人間が出てくるとは、思っていなかったが――。
 イブキが作った料理は、とても温かかった。母の手料理の記憶もおぼろげにしかない正人だったが、懐かしい、と思った。そんな料理を作り出した手に触れたくなって――目の前の手首を思わず握ってしまった。
 あとは、ひたすら温もりを求めた。
 抵抗している相手を組み伏せ、貪った、あれは、犯罪だった。
 それなのに、イブキは次の呼び出しにも出てきてくれた。どうやって指名できるのか訊いて、名前を検索窓に入れてエンターキーを押したとき、正人はひどく緊張したのに、イブキは変わらぬ笑顔で頭を下げた。
 だから、あの検索サイトは、実はそう言った風俗系のサイトなのかと疑ったことがある。いつか法外な額の請求がくるのではないかと。だが、そんなことはなかった。そして、イブキが傷ついていることに正人はやがて気付いた。だが、そのときには離せなくなっていた。
 デスクトップパソコンの画面の左上が点滅して、目覚し時計が鳴った。時計を止め、点滅している部分をクリックする。四時になったのだ。そろそろイブキを呼び出してもいい時間だった。
 名前を入力して、検索ボタンを押す。それから少し経って、イブキが現われた。
 イブキは走った後のように荒い息を吐いていた。それでも決り文句を述べて、ぺこりと頭を下げた。正人はそれを見て、僅かばかり目を伏せる。洩れそうになったため息は、なんとか押し留めた。
 仕事できているのだ。それはわかっているが、ときどき遣り切れないような気持ちになる。
「あの、今日は何にしますか? ご飯と麺類、どちらがいいですか? それとも何かおつまみ系で」
 にこやかに言ったイブキの言葉を遮って、正人は「麺類」とだけ答えた。
 イブキの口調は、すっかり以前と同じになっている。丁寧な接客態度――それに苛立つ日が来るとは、正人も思っていなかった。
 捕まえたと思ったのに、少しも手の中になどいない。
 イブキは少し伺うように正人を見てから、キッチンへ行ってしまった。これから下ごしらえをして、デザートを作り、何か足りない惣菜があったらそれも作り、キッチンを磨き上げ、五時になったら業務終了のお知らせをするはずだ。この一時間は、イブキはあくまでweb electroのサービス担当だった。
 呆れられたかもしれない。
 正人はそう思って、後姿を目で追った。だが、声をかけられない。――出てきてくれて嬉しいと、伝えられない。
 そもそも、伝えていいのかさえ、わからなかった。


 言葉で気持ちを示すことのできない正人は、それを他の形で表そうと躍起になることがある。バレンタインのホテルがいい例だ。だが、やはり言葉が足りないせいで、その努力が無駄になることも多かった。
 ――私は仕事だからいいですけど。先生、それで恋人とかにはどうやって意思疎通するんですか。
 担当女史に、そう言われたこともある。ただでさえ誤解が起きやすいのに、何も言わなかったら苦労しませんか、と。
 そのときは、恋人なんかいないから構わない、と答えた気がする。
 キッチンに立つイブキの後姿に、正人は言いようのない苛立ちを覚えた。イブキは無駄のない動きで、冷蔵庫から材料を出したりしていた。イブキもまた、ここには仕事で来ているのだ。そう思った瞬間、正人はイブキの手を掴んでいた。
 向けられた目に、一瞬怯む。怯えたようなそれに――でも、凶暴な欲望が湧きあがった。
 ほとんど引き摺るようにして、正人はイブキをソファーに押し倒した。僅かな抵抗を、掌に感じる。
「あの、まだ仕事が……」
 言いかけた口を口で塞ぐ。無理矢理に舌を差し入れると、イブキも観念したようだった。ふっと、腕の力が抜けた。
 だが、唇を離したとき、ふとその目が濡れていることに気付いて、正人は動きを止めた。目が赤くなっている。涙は零れていないが――泣きそうだ。
 思わぬことに胸が酷く痛んで、正人は手を離した。最初に無理矢理抱いたときでさえ、イブキは泣かなかった。快楽に泣くことはあっても――こんなにつらそうな顔は見たことがない。
「悪かった」
 強引過ぎた。そもそも最初からそうだった。イブキの気持ちなど、考えなかった。正人はそっと身体を起こすと、イブキの上から退いた。
「俺、なんで呼ばれてるんですか」
 イブキが腕で顔を隠しながら呟いた。
「俺の料理が好きだから呼んでくれてるんでしょう? それとも、セックスが目的?」
 正人は思いがけない言葉に、思わずイブキの顔を凝視した。でも、腕に隠れて目が見えない。
 ――セックスが目的? そうじゃない。イブキの料理は好きだが、それだけでもない。
「イブキが、好きだからだ」
 絞りだすように言ったら、顔を隠していた腕がずり落ちていった。
「なん、て?」
 イブキの目が見開かれていた。正人は急に恥かしい気持ちになって、視線を逸らした。
 馬鹿な男だと思われるかもしれない。さんざんなことをしてきて、今更何を言っているのだろうと思われるかもしれない。だが、好きという言葉が、正人の正直な気持ちを表すにはぴったりだった。
「だって、そんなこと一言も言ってなかった。俺の料理が好きだって……」
「料理だけじゃない」
 言うと、イブキは一瞬惚けたような表情をして、それからゆるやかに顔を綻ばせた。正人はそれに息を呑んだ。料理と同じ、温かい笑顔だった。イブキ本来の笑顔なのだろう。
 イブキは上半身を起こすと、正人に向かって手を伸ばした。それに誘われるがまま、ソファーに乗り上げると、正人はイブキに口付けた。イブキの腕が背中に回される。
「ねえ、ちょっとその前に」
 そのまま押し倒して、首筋に噛みついた正人の髪をイブキが引っ張った。顔を上げると、イブキが頬を赤くして真っ直ぐに正人を見詰めていた。
「一つだけ教えて欲しい。あんた、名前なんて言うの」
 ――やっと訊いた。
 やっと、訊いてきた。
「正人。……古賀正人」
 興味なんてないのかと思っていた。惨めに痩せた男に同情して、来てくれているのだと思っていた。だから、仕事である、という姿勢を崩さないのだと。
 正人、と呼ばれて、すぐ下にある顔を見つめた。
「俺もね、正人が好きだ」
 そっと、腕を掴まれる。正人は何も言えずに、再びその口に唇を寄せた。
 自分の方が、泣くのではないかと思った。



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