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□yugo05 http://recipe.electro.xx
その後のタチバナとの会話を、ユーゴはほとんど覚えていない。客のランク情報などと言う、最高級機密に近いことをなぜタチバナが知っていたのかと思って、「なんで知ってるの」と言葉は零れたが、ちょっとね、と誤魔化されてもそれ以上追求なんてできなかった。それに、タチバナはすぐに呼び出しが掛かって仕事に行ってしまった。
――だから幸野さんは、お薦めだよ。
タチバナがそう囁いていったその意味も、ユーゴは考えられなかった。
それより、幸野がSランクの客である、という事実がショックだった。
ショックが大きくて、仕事なんて手につかない状態だった。幸いにも、今日は簡単な料理の作り方を聞かれた位で、失敗はせずに済んだが。
ぱたり、と自室のベッドに制服も脱がずに倒れこんで、ユーゴは長い息を吐いた。忙しかったわけではないのに、もの凄く疲れている。
あの人、実はSランクなんだよ――。
タチバナの言葉が、耳から離れていってくれない。
言われて、納得してもいた。幸野なら、そうであってもおかしくないな、と。
客のランク付けは、実は担当達の間では公然の「機密」だった。web electro側は、ランクがあることを明確に言及してはいない。あくまでも、「いつでも最高のサービスを」というのが会社側の方針なのだ。実際ユーゴは、仕事をしていてもランクのことなど気にしたことはない。とはいっても、web electroも会社である以上、利益追求は免れない。そう言うことなのだろう。それにしては、担当達にはその「利益」の部分を求めないのがユーゴには常々不思議だったけれども。
そのランクの中で、Sランクと言うのはある種別枠だった。利益追求のためではなく、担当の知識向上のためと言えるもので、担当はその客と接することによって何か学べる、と言われている。つまり、客であって客ではない、むしろ師のようなものなのだ。そんなランクだから、Sランクなんて本当はないのではないか、とも噂されていた。
でも、幸野ならわかる。
彼のインテリアに関する知識がどれほどのものかは、ユーゴにはわからない。でも、Sランクと言うのは、その人柄も評価に入るのだと聞いたことがあった。知識、人柄、生活全般で、担当に好影響を与えてくれるだろう――会社側から、そんな勝手な期待をされているのが、この客達なのだと。
ユーゴは両手に力を入れて、起き上がった。それから、着替えて、バターたっぷりの林檎のケーキを作ろうと思った。少しだけシナモンも利かせて、明日のお茶にでも食べられるように。
そうやって、何かを作っているときだけは、ユーゴは何もかも忘れられる。幸いにも、ケーキを作ったら食べてくれるだろう仕事仲間はたくさんいる。
林檎はたっぷり。シナモンは少し。卵白は丁寧に、泡立てる。
料理と言うのは、何かが出来上がっていって、そしてそれが無くなってしまうからいいと思う。いつまでも眺めるためではなく、食べるため――壊すため――に作り上げるその行為に、心血を注ぐ。壊れてもいいから、安心できるのかもしれない。
料理もいつかは芸術の一つになるかもな。
彩りが、形が、と講釈をするユーゴに、幸野がそう言ったことがある。これからは、キッチン用品も探そうかな、と楽しそうに、笑った。
大きめに切った林檎を煮ていると、冷たい夜の闇の中に、甘い匂いが広がった。この匂いに包まれたら、少しは眠れるだろうか、とユーゴは思った。
「なんだユーゴ。顔色が悪いな」
いつもながらあまり忙しくない就業時間、ぼんやりと紅茶を飲んでいたら、ハマナが眉根を寄せて顔を覗き込んできた。
「そうですか?昨日、ちょっと残業頑張りすぎたかな」
「残業?」
「ええ。新婚さんで、なんでも旦那さんの誕生日とかで、料理を頑張ろうとしたみたいなんですけど……」
「まあ、いつものことだな」
ハマナが苦笑して、ユーゴも微笑んだ。
「それがものすごく一生懸命で、つい」
ユーゴはそこで言葉を切ったが、最初は料理のわからないところだけを教えるはずが、実はケーキまで作ることになってしまったのだ。
とても、可愛らしい人だった。外見は、仕事をバリバリこなすキャリアウーマンといった雰囲気だった。料理は苦手で、それでも自分が作りたいのだと、懸命で。なんとなく、応援したくなったのだ。
「で?どれくらい残業したんだよ」
「え……と。時間ギリギリのお客さんだったんです。だから……五時間ぐらい?」
本人が頑張って作る、と言っているところに、手を出すようなユーゴではない。だから一つ一つ作り上げるのに、ものすごい時間が掛かったのだ。呼び出した本人も覚悟の上だったのか、呼び出されたのも昼過ぎで、夜にはまだまだ余裕のある時間だった。
「おまえは、放って置けない人間だからなあ」
ハマナが少々呆れた様子でため息を吐いた。ユーゴは曖昧に笑っただけだ。
本当は、それだけが原因ではない。それぐらいの残業で疲れたりなんかしないほどには、ユーゴも若い。それに、出来上がったときの客の嬉しそうな顔と、その満足感と言ったら。本当は、少しも疲れた気などしなかった仕事だった。
そうではなく。
ユーゴは手に持ったカップの中の、揺れる液体を静かに見ていた。ミルクを入れた紅茶は、どこかとろりとした印象がある。
幸野と最後に会ってから、二週間になろうとしていた。その間、幸野からの呼び出しはない。一度は、風邪のせいで流れた。だがそれからまた一週間が経っている。
忙しいのだろう。風邪で寝込んでいたと言うのだから、仕事が溜まってしまってもおかしくない。ユーゴは何度も、そう繰り返し自分に言い聞かせていた。
ここのところ、眠れずにいる。そして、起きていると何か堪らなくなってきて、台所に立つ。そうなったら駄目で、ただひたすらケーキやクッキーを焼いてしまう。食べることはない。焼きあがったそれらの菓子は、翌日休憩所に持っていって食べてもらうのだ。
あのバターの香り。砂糖の焦げる香ばしい匂い。それらに包まれて、ユーゴはようやく少しだけ眠る。
良くない傾向だ、とユーゴはわかっていた。あの時も、そうだった。
男が来なくなったあとも、会社に居辛くなったときも、シギが亡くなったときも。無性に焼き菓子を作りたくて、毎晩のようにオーブンを熱していた。
焼き菓子は、幸せの象徴なのだ。
ハマナの携帯電話がカタカタと揺れて、恰幅のいいその先輩は立ち上がった。その時になって、その手に紙ナプキンが握られていることに、ユーゴは気付いた。
「ユーゴ……マロンケーキ、上手かった」
ハマナが、もの凄く複雑な目をして、そう言った。知っているのだ。ユーゴのこの病気じみた毎夜の奇行を。
ユーゴは何も言えずに、笑うことさえ出来ずに、目を伏せただけだった。
焼き菓子作りが削るのは、睡眠時間だけではない。ユーゴの食欲もまた、削られていく。甘ったるい匂いに囲まれているいるうちに、何かを口にすると気持ちが悪くなってしまうのだ。
ハマナや他の担当仲間たちに心配を掛けまいと、勤務時間中の食事はなんとか食べる。だが、そのうち気持ちが悪くなって、トイレに駆け込むのだから実のところ食べていないに等しい。
こんなことで料理担当だなんて、よく言うものだと自分でも思う。ユーゴは口を漱ぎながら、心の中で料理を作ってくれた人間に何度も謝った。web electroの社員食堂は、舌の肥えた人間も満足させる、そして栄養バランスもとても考えられた、素晴らしい食堂だった。そこで働いている人たちが、とても努力をしていることを、ユーゴも知っている。調子が悪そうだと、食堂の料理人は、特別に身体に優しそうな野菜のスープをおまけさえしてくれた。
それなのに、それを全て無駄にするなんて――。
所詮、自分はあのときから何も変わらない。弱いままで、人に心配ばかり掛けていて。
流れる水を、ユーゴはじっと見ていた。鏡を見ることはできなかった。弱々しい自分の顔は、耐えられるものではない。
ふと無機質な音が響いて、ユーゴははっとした。呼び出しだ。慌ててハンカチで手を拭いて、携帯に「出られる」と返事する。それから、急いでブースへと向かった。でも、その途中、窓から差し込んでいた眩しいまでの太陽の光を受けたユーゴは、その光そのまま、目の前が白くなったのがわかった。
ああ眩しい――。
それを最後に、ユーゴの意識は途絶えてしまった。
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