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その瞳に映る空
「5.風薫る」
夏の、匂いがする。
時折吹く風が、青々と茂った木々を揺らして葉がざわめいている。その木々からもれ落ちてくる光は、柔らかさにも強さが混じってきている。
直也はふと、足を止めた。
見上げると、真っ青な空が目に入る。上空も風が強いのだろうか。雲一つない。
風が、その薄茶色の髪を揺らす。
その風の、荒々しくも優しい感触に、思い出さずにはいられない。
青い空に狂いながら、優しくその髪に触れていたその手を。空を決して見ることなく、自分に縋っていたその瞳を。
もう、どれほど会っていないのか。
そんなことを考えるのも嫌で、直也は学校を辞めた。冬の、雪のあの日から、一登が卒業するまでの間、放課後ピアノを弾くことが出来なかった。放課後の音楽室は、何もかもが一登を思い出させる。
直也は知っていた。放課後、一登が必ず自分のピアノを聴いていたことを。それがあの雪の日以来、顔を合わせることなく、一登は卒業して行った。
自分も、望んだことだった。一登の存在が、怖くて仕方が無かった。一登もまた、直也と言う存在が怖かったのだと、わかる。
それなのに、青空を見るたびに、一登を思い出す。見事な夕焼けにも、雷鳴が聞こえるような夜にも、雪の日にも。その度に、狂いそうになる。
二人でいたあの時。あの時、狂っていたはずなのに。
あらゆる衝動を、押さえきれなくなる。
街に出れば、ショーウインドウを思い切り叩き割ってみたくなる。
誰もが止まっている交差点では、飛び出したらどうなるだろうと考える。
静寂の中では、今大声を出したらどうなるだろうと、ふと思う。
そんなことばかり。
狂ってしまえたら、楽なのに。もう、何も、わからないくらいに。
風が少し長めの、黒い艶やかな髪を掻きまわしている。緑の濃い匂いが、鼻をつく。
出てくるんじゃなかった。
初夏を思わせる日の光を浴びながら、一登は引き返そうか迷う。食事なんて、一日や二日抜いても平気だろう。そう、考えて。
こんな晴れた日に外出なんてするものじゃない。それも風がひどくて、嫌でもあの薄茶色の髪を思い出す。さらさらと、柔らかく揺れていたあの髪を。
出会わなければ。
全てが上手く進んでいたのだろうか。
雪明りに眩しく光っていた、あの白い肌を忘れられない。
永遠に続く様に温かかった、あの温もりを探して、眠れない夜が続く。
狂っていく。
そう、信じていた。肌を重ねるたびに、狂っていっていると。
でも、本当にそうだったのか。出会う前も、離れた今も、狂っていないと言うのか。
一登には分からなかった。
ただ、あの温もりが欲しかった。自分を求めて掴んでくる、あの指の強さが。
そして、子守唄のような、あのピアノの音が。
全てが、夜を長くする。
やっと眠れたその夜に、二度と醒めないでいたいと、祈るのに。
今は、全てが狂気を呼んでいる。
早く、早く狂ってしまおうと、一登は空を見上げた。
突風が吹いて、乾いた土を巻き上げた。木々のざわめきがいっそう大きくなる。
直也は残りの書類を取りに来た久し振りの学校で、最後にと、音楽室に向かった。試験中の日曜日の学校は、あまりに静かで、いたたまれなくなる。
窓を開け放つ。西日に黄色くなったカーテンが、強い風に翻る。
その窓の桟に腰掛けて、直也は煙草に火を点けた。さらさらと、髪の毛が揺れる。目を閉じると、風を優しい手と錯覚する。
からり、と音がした。
直也は億劫そうにしながらも、そのドアの方に目を向けた。
「新堂……」
思わず、その名を呟いた。もう二度と呼ぶことはないと思っていたのに。手に持った煙草が、じりじりと燃えていることにも構わずに、その姿を、見つめていた。艶やかに光る瞳も、すらりとした長身も、何も変わっていない。
「先生、リクエスト」
真っ直ぐに、直也を見る。その視線の優しさも、甘さも、ずっと直也が望んでいたものだった。
「サティの、je te veux」
一登は窓から動かない直也に近寄って、耳元で囁いた。ずっと、夢にまで見たその薄茶色の髪の毛に触れる。でも、その温もりだけでは足りなくて、そのまま抱きしめる。
ここに来たのは、ほんの気まぐれだった。明日にはこの土地を離れてしまうから、最後にと、思ったのかもしれない。直也が学校を辞めたことは、知っていた。それでも、二人の繋がりは、ここしかなかったから。
カーテンが、強風に煽られる。濃い、夏の匂いがした。
「かず……と……」
直也が、ずっとその名を呼びつづける。まるで、うわ言のように。
「直也……」
そう、囁き返すと、絡ませた指を、きゅっと握り返してくる。それが愛しくて、何度も、何度も、囁きをくり返す。
何度果てても、二人は求めることを止めない。
狂ってなんかいない。
もう、分かっている。ただ、欲しいだけなのだと。その温もりを、存在を。触れ合っている全てが、幻なんかじゃないと、分かっている。
優しく自分の髪に触れてくる、その手の感触に、直也は泣かずにいられない。
自分の手のひらの下で震える、その肌を、一登は求めずにいられない。
「一緒に、堕ちていこう」
「ああ……」
例えそれが、天国ではなくても。傍らに、互いがいる限り。
強い風に、カーテンが音を立てる。
出会って二度目の、夏が来る。
二人は、カーテンが煽られた瞬間、空を見た。
雲一つない、空を。
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