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その瞳に映る空
「4.雪明り」
これが、恋だとは、思わなかった。
雪が降っていた。真っ白の細かい雪は、空気中の汚れを落とすとともに、外の世界の音まで吸い込んでいる。風はない。
静かだった。
吸いかけの、ほとんど減っていない煙草をもみ消して、ピアノに手を伸ばす。白い鍵盤に手を触れると、ひんやりとした。ゆっくりとその鍵盤を押すと、冷たく冷え切ったピアノは、鈍い音をたてた。
「寒いな」
ふと呟く。呟いたら、途端にその寒さが身に染みる。ピアノから手を離して、窓に歩み寄って灰色の空を見上げる。細かすぎる雪は、その空にまぎれてしまう。
「寒いよ」
壁に寄りかかって、呟く。誰かに、訴えるように。
温かいその息が、白く、直也の目の前を曇らせた。
「先生、風邪ひくよ」
いつの間に雪がやんだのか。空には月が出ている。満月のその光は、雪に反射して、室内を驚くほど明るくしていた。
ぼんやりと目を開ける。
求めてやまなかったものが、そこにある。
壁に寄りかかって座り込んでいた直也は手を伸ばして、一登のその首に抱きついた。
温かい。
「どうしたの?」
一登はそう言いながら、抱き返す。その腕の強さに、温かさに、直也は縋りつく。この温かさがたとえ錯覚でも、それでもいいと思った。
「息が熱いな。先生、熱出てない?」
そう、額を寄せられて、直也は目の前にある唇に貪りついた。まるで、飢えた獣のように。
「どうしたの?」
同じ質問を、一登がくり返す。瞳に、不安そうな光りが横切る。直也はそれを、無意識に黙殺した。二人の息が白く、漂う。目の前の一登の顔が見えなくて、直也は不安になる。
怖い。
そう思い始めたら、それが全身に伝わって行く。
この男を失うのが怖い。
その思いに、直也はもっと恐怖を感じた。失うことより、その想いに。
「抱いて」
狂ってしまいたかった。いや、それとももう狂っているのか。
一登はじっと直也を見つめた。直也のその色素の薄い茶色の瞳が、不安に揺れ動いている。何にそんなに怯えているのか。一登は、その答えを、知っている。
同じように怯える自分がいることを、知っている。
「狂ってしまおうか。今だけ」
低い、落着いた声で囁かれて、直也はその腕の力を、強くした。
冷たく冷え切っていた体が、次第に熱を帯びてくる。冷たい空気にさらされて、直也の肌は、鮮やかな紅に染まる。一登はそこに、執拗なほどの愛撫の痕を残した。いつもなら、そんなことはしない。そう気付いて、直也はもっと乱れてゆく。
その大きな手のひらの温かさも、口付ける唇の感触も、すべてを忘れないように。
何度も、何度も、求め続ける。
普段異常に感じる直也に、一登は狂ってゆく自分を止めようとは思わなかった。この声も、自分の手のひらの下で震えるこの肌も、今この瞬間は、自分のものだという思いに溺れた。
決して離しはしないと、嘯いた誓いさえ囁いた。
直也はその声に涙が止まらなかった。でもそのことに、直也自身は気がついていなかった。
「離……す……な」
そう直也が呟いた瞬間に、一登の動きが激しくなった。何もかもを忘れて、二人はその快楽に溺れきる。
何よりも、欲しかったもの。でも何よりも、手に入れてはいけないもの。
それでも幼子の様に、手を伸ばした。手に入れれば、さらなる欲求があることを分かっていたはずなのに。
「一……登……かず……」
何処か、遠いところを見て直也が繰り返しているその名が、自分のものだとは、一登は思いもしなかった。
こんなに近くにいるのに。抱き合ってさえいるのに。
繋がり合ったその部分の熱でさえ、二人は幻のように感じていた。
この思いは、恋ではない。
ただ、その想いだけを、二人は共有していた。
縋り、縋られ、傷を舐め合うように抱き合うことを繰り返した。
いつからか、その快楽に狂っている自分を見つけた。なによりも、他人がいることを感じられる瞬間。
わけのわからなくなるほどの、気絶するほどの抱き方を、直也は好んだ。一登もその直也に溺れていった。互いが互いに、強引に引き出される快楽を、欲していた。
怖かった。
怖いと、そう思ったのは、一登の方が先だったかもしれない。失いたくないものを手に入れた恐怖。青空に自分が狂うたびに縋りついてしまう、その存在が、怖くて堪らなかった。
二人はただ、手に手を取り合って、狂っていっている。
早く、完全に狂ってしまう前に、早く全てを元に戻さなくてはいけない。
これが、恋ならば。
許されるだろうか?自分自身を、許せるだろうか?
でも、これは恋ではない。
二人はそう、真剣に、想っていた。
教官室から一登が持ってきた毛布が、二人を包んでいる。気絶するまで抱きつづけて、一登も気が遠くなりそうだった。教官室に直也を運ぶのさえ億劫で、毛布だけをやっとの思いで取りに行った。白い肌が、雪明りに照らされて、陶磁のように光っていた。そこに自分のつけた痕を見て、一登はそれを隠すように毛布を被せる。
二度と、この肌に口付けることはないだろう。
そう確信して、もう一度だけと、その胸に唇を近づけた。でも、そこで躊躇して、顔を上げる。
死んだように意識のない直也の顔を、じっと見つめる。その、瞑られた瞳の上に、そっと唇を落とす。次にその瞳が開かれた時には、消えていると、誓って。
二人は、捨てられた子猫の様に寄り添って眠った。
気を失ったのか……
ふと気が付いた直也は、すぐ隣で小さな寝息を立てている、一登の温もりを探す。
温かい。
その温かさに寄り添いながら、次に目が覚めたら、この温もりが無くなっていることを、直也は確信していた。
この温もりを忘れずに、生きていけるだろうか。
この温もりを忘れたら、生きていけるだろうか。
いや、この温もりを忘れなくては、生きていけないだろう。
どうか、全てが始まる前に。
互いの温もりを探しながら、二人はずっと、そう祈っていた。
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