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壊レカケノ月 五

 柏木が景一を初めて見たのは、ずいぶん前のことだった。高等学校時代、静を迎えに来た景一を見たのだ。景一は、そのとき静と歩いていたのが柏木だと言うことは、気付いていないだろうし、そのときのことを、覚えていないかもしれない。
 ああ、どうしたのだろう。静がそう言って突然立ち止まるから、何かと問うと、弟がいると言う。そういわれた視線の先に、景一はすっと立っていた。それはとてもきれいな立ち姿で、さすがに静の弟だけあると妙に感心したのを覚えている。それまで、静に弟がいることは知っていたが、話題になることはあまりなかった。静が、故意に避けていたのだ。
 二人で近寄ると、景一は柏木に気付いて、礼儀正しく頭を下げた。それから、何事かと問う兄に、父が何か相談事があるそうだと言った。だから今日は、家に寄れないだろうかと。
 ずいぶん印象的な子だと思った。静に似て端正な顔をしているのに、静のような華やかさがない。それなのに、目が離せなくなるような、凛とした表情をしていた。それは、今ならわかるが、静のような兄を持っていながら、甘えることをせず、自分を見失うことなく育ったせいだろう。だから余計に、静は景一が心配で、かわいいのだとわかる。甘えて欲しいのに、それを自分に許さない景一が、歯がゆいのかもしれなかった。でも、最初にそう言う風に仕向けたのは、静自身で、それを静は密かに後悔している。それが決して、間違ったことではなかったとしても。
「うちのがずいぶん世話になっているようだな」
 授業に出る気はほとんどないらしく、柏木が校舎の屋上で煙草を吸っていると、静がやってきて、開口一番そう言った。あとから、島津と上江もやってくる。
「兄貴に頼れないからだろう。勉強を見てやっているだけさ」
 柏木がそう言うと、上江が隣に座りながら、弟君の話か、と呟く。静は壁に寄りかかり、島津は上江の横に座ると、順番に煙草に火を移していった。
「いつだったかな、雨の日に会ったよ」
 島津はそう言って、煙草の煙を吐き出した。景一のためを思ってか、何処であったかは言わなかった。その代わり、確かに綺麗な子だとうっかり口を滑らせ、静に睨まれる。
「あれで高等学校入ったら、危ないだろう」
 上江が睨む静に、にやにやとそう言った。上江は恐れ知らずなところがあって、ときどきこうやって静に絡む。
「いや、あれで結構きついからな。大丈夫だろう」
 柏木が涼しい顔でそう言うと、静は嫌な顔をした。後の二人は、おやおやと言う風に、笑っている。
 四人で集まるのは、久しぶりだった。能瀬のことがあってから、どことなく、集まる機会を逸していたのだ。校庭で行われている、教練の号令が聞こえる。それは、四人の耳には、空虚に痛々しく響いた。

 あの雨の日以後も、柏木はふらりと七尾家にやって来た。そのころは父親は仕事が忙しく、母親は祖父と叔母の看病に飛び回っていて、景一は家に一人でいることが多く、柏木の来訪を嫌がってはいなかった。怖いのに、拒絶することが出来ない。
 ただ景一は、あの日の出来事を完全に無視していた。それでも近寄ると緊張する景一に、柏木は苦笑を禁じえなかった。
「何もしないよ。そんなに、怖がらないでくれないか」
 勉強を教えている間にも、――それが柏木の楽しみにもなっていることも知らず――時々触れそうになる手を、景一は巧みに避けていた。薄っすらと、ほんの少しだけ染まる耳が、柏木の目を楽しませた。
 景一は、柏木に笑われると、つい目を伏せてしまう。相変わらず表情は変わらないのだが、あの独特の、ゆっくりと目を閉じながら微笑むその顔を、まともに見ることが出来ずにいた。
「怖がってなんかいません」
 つい、むきになって言う。柏木相手だと、どうしても感情が素直すぎる気がする。景一はそれをわかっていながら、コントロール出来ずにいた。そんな自分に、ますます混乱する。
「そう?」
 柏木が、そう微笑む。景一は悔しくなって、柏木を睨みつけた。わかってやっているのだ。微笑む、ことさえも。
 柏木は、そんな大人な余裕を見せながら、それでも景一のところまで下りてくる。景一が基準を上げるのではなく、柏木が先に下りてくるのだ。だから景一は、つい素直になる。それは、悔しくもあったが、心地よくもあった。
 でも、どうしても、この駆け引きだけは容赦がない。
 からかわれているのだとわかっていても、景一はどうしても振り回されてしまう。
 微笑んだままの柏木を、景一は睨みつづけた。外で、風が木々を鳴らす。梅雨の晴れ間で、部屋に差し込む夕陽に、二人とも染まった。景一の部屋は、西日が惜しみなく注がれるのだ。
先に折れたのは、柏木だった。ふと視線を逸らして、怖いな、と呟く。「静そっくりの睨み方だ」
「兄には、負けます」
 景一がため息をつきながらそう言うと、柏木は声を出して笑った。
「あれが本当に怒ると、怖いからなぁ」
 そう笑いながら、机の上に手をついて、景一のほうに身を乗り出した。それがあまりに自然で、景一は伸びてくる手を避けられなかった。指先が顎に触れて、それからゆっくりと左頬を包んだ。少し節くれだった、大きな手だ。指が、長い。
「柏木さん……」
 景一は、息が詰まりそうになりながら呟く。実際、蜜柑色の空気は、いつもより濃いような気がした。水分の多い、しっとりとした空気。風の音が一瞬、強く鳴った。
「怒らせて、みたいけれどね」
 柏木は笑った顔のまま、そう言って口付けた。頬を撫でながら、何度も。それから、その手をずらして、夕陽に染まった耳をゆっくりと指で撫でる。先刻から、柏木はそこに触れたくて仕方がなかったのだ。うっすらと紅く染まった、そのときから。
 まるで子供が無心におもちゃで遊ぶように、柏木は景一の唇を貪り、耳を撫でつづけた。親指の腹が、耳の穴をなぞるように動く。
 景一は、意識を奪われたように、動かずにいた。ただ唯一、唇が離れるたびに、目が開く。そして、重なるたびに、その目を閉じた。
 やっと柏木が離れたとき、その目は、哀しそうな色をのせて、じっと柏木を見つめていた。


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