水槽の中で泳ぐ
05
「それで?描けたの、結局」
貴広の手は大きい。その中でも香月が好きだと思うのは、大きい爪だ。公子の小さい爪も好きだが、それはきっと赤やピンクのマニキュアが可愛いからだ。
「まだよ」
香月は目の前のミモザ色のカクテルを揺らして、苦笑した。どうしても描けない、あの女の子の目の話をしたのだ。答えた香月を見る貴広の表情が、どこか昨日の公子の表情に似ている、と香月は思う。
「見てみたいけど……想像はできる」
「想像できる?」
「うん、俺に絵を描く才能があったら、描いて見せたい」
たぶんそれは、今の香月の目に似ているのだろう、と貴広は思ったのだ。あの、ライオンの目のように。
そう言う風にしか絵を描けないのは、きっと辛いだろう、と貴広は苦笑する。
貴広は昔から、感情を素直に出すのは苦手だった。いつもいつも、何か膜に覆われたようにしか、自分を表現できなかったのだ。でも、それについて悩むのは、高校生のときにやめている。仕方がないことだからだ。そうある自分が嫌であるのと同時に、そうあるほうが安心できる自分がいる。だから、どうしようもない。それに、絵を描いたり、楽器を弾いたりする職業につきたかったわけでもない。今のビジネスマンの状況に、満足しているのだ。
「描いて見せて」
香月は興味津々と言うように、鞄からペンと手帳を取り出して、その中の一枚を破りとると、貴広の前に置く。
「描けないよ。想像できるだけで」
貴広がそう言うと、香月は不思議そうな顔をする。
「想像できるなら、描けると思ってるだろ。ところが、普通描けないんだよ」
それも、哀しさを湛えた瞳なんて。
香月は、そうなのか、とでも言うように相槌を打つと、その紙に自分で落書きをし始めた。見る間に、貴広の見たことのある絵が出来ていく。その勇敢な目は、手のりライオンだ。
「すごいな、そっくりだ」
貴広がそう言うと、当たり前だと香月が笑う。でも、勇敢な目は、少しだけ孤独だ。そして、少しだけ哀しい。どうしても、香月は哀しい目を描いてしまうのだ。問題は、と貴広は考える。問題なのは、どうしてそんな目ばかりを描いてしまうのか、香月自身は分かっていないことだろう。気持ちが落ち込んでいるとか、気分が乗らないとか、そういうことはわかっているかもしれないが、なにより、それは香月の目なのだと思っていない。そうやって、いつまで香月は誤魔化しつづけるだろう、と貴広は思った。
落ち着いた、柔らかな光を受けながら、香月はどこか、遠いところにいる。
「赤ちゃん?!」
香月が気持ちよく酔って帰ると、公子が洗面所で呻き声を上げていた。びっくりした香月が心配して医者に行こうというと、公子は大丈夫だから、を繰り返した。それから、少し落ち着くと、さらりと言ったのだ。
「つわりなのよ」
香月が驚いて目を見開いていると、にっこりと笑う。ああやはり、それは母の顔だったのだと香月は突然納得する。
公子は口をすすいでため息をつくと、ベッドに腰掛けた。それは女二人なら十分寝られる大きさだったが、普段香月は居間のソファーベッドに寝ている。香月は夜着に着替えると、その公子を下から覗くように、ベッドの前に大きなクッションを持ってきて、座り込んだ。
「ばれちゃったね。もう少ししてからびっくりさせようと思ってたのに」
公子は屈託なく笑う。そのあまりの公子らしさに、香月も笑うしかない。だいたいの、想像はついている。確か公子は、つい最近まで不倫をしていたはずだった。
「産むのよねえ」
香月がそう言うと、当たり前でしょ、と公子が言う。
「相手はなんて言ってるの?」
「言ってないわよ。別れたんだもの」
その答えも、予測できた。
「誰かの家庭を壊すなんて恐ろしいこと、私には出来ないもの。奥さんと私と、どちらかを選べなくちゃって考えるなら、奥さんを選びなさいって、私は言うわ」
前から、公子はそう言っていた。不倫なんて、遊びでしかできることじゃない。男は帰るところがあるから寄り道をしたくなり、女は誰かのものだと思うからつまみたくなる。不倫なんて、そんなものよ。
「それで何も言わずに、別れたのね」
香月がそう言うと、公子は穏やかに笑った。でも、香月は知っているのだ。公子は、遊びで好きになっていたわけではない。ただどうしようもなくて、惹かれて、抱かれたのだと。不倫相手が夜中に帰るたびに、香月を呼び出しては飲んでいた、公子の明るい笑顔を思い出す。そうしなければ、泣いてしまうのだろう。一人で居たら、笑わなかったら、きっと泣いてしまう。それが嫌で、公子はいつも笑うのだ。
「馬鹿ねえ」
思わず、自分のほうが泣きたくなって香月がそう言うと、公子の目が潤んだ。それでも笑おうとするのに、香月はそっとその頬を手で包み込む。
「たまには泣きなさいよ。赤ちゃんに悪いわよ」
公子はきっと、この小さな命と引き換えに、男を捨てることにしたのだ。
優しすぎる、と香月は呟く。
優しすぎる、そんなところが、大好きだと。