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水槽の中で泳ぐ

06

 桜の花が見頃だと、夜の散歩に誘ったのは貴広だった。同居人も一緒にどうぞ、と言うので、珍しく三人でふらりと川沿いの桜並木を歩いた。まだ少し、満開には早い。それでも蕾の愛らしさが香月は好きで、固く結ばれた蕾を、探しては眺めていた。
「じゃあ、公子さんは翻訳家なんだ」
 ぼんやりとしている香月を放って、公子と貴広は後ろから話しながら歩いている。何度か貴広からの電話をとったりしていて、微妙に知り合いになっていた二人は、この際だからと色々な質問を互いに浴びせている。香月はあまり、自分の友人のことを詳しく話したりしないのだ。趣味だとか、面白い話だとかはするのだが、肝心な、基本的なことは何も話さない。
「そう。だから二人とも在宅仕事なの」
 空には明るい月が出ている。街燈が少しばかり邪魔なくらい、その月は美しく光っていた。
「香月とは長いの?」
「中学のときからよ。香月の他の友達に比べたら長いかな」
 といっても、あの子頻繁に会う友達は少ないのよね、と公子が笑う。
「あれだけ飲むのに?」
 貴広のその答えに、公子は今度は声を上げて笑った。香月がそれに、振り返る。
「一人のときは飲まないもの」
 香月がそう叫ぶ。それに、二人は顔を見合わせて、疑わしい表情を作った。
「ねえ、女の子の哀しい目の話、聞いたでしょう?」
 川の音が、静かな闇に優しく響く。貴広はその川を、じっと見つめた。
「あれから満足いくようなのは描けたのかな」
 そう聞くと、公子が苦笑する。
「想像できるって、言ったのよね」
 ふと立ち止まると、公子もふらりと川の近くに近寄って、その水面を眺めた。
「どんな目を想像した?」
 分かっているのに、確認するように公子は聞く。きっと、公子も同じことを思っているのだろう。貴広は、何も答えなかった。ただ少し、哀しそうな目をした。
「香月ったらね、自分のことを棚に上げて、私に泣きなさい、なんて言うのよ。あの子もたいがい、わかってないわ」
 ふと、公子が貴広を見つめる。その目に、少しだけ不甲斐なさを責められているようで、貴広は戸惑った。
「もっと、押しの強い人かと思ってたんだけど」
 公子のその言葉に、貴広は苦笑する。自分も、ずっとそう思っていたのだと。
「なんだか急に、臆病になってね」
 自信が、なかった。だから、香月だけを得るために、他の女と手を切ることもできずにいた。どうしたらいいのか、貴広もわからなくなっていた。


 砂漠に住む少女の話は、やはり哀しい結末を迎える。どれだけ尽くしたとしても、母は亡くなり、少女はふらふらと歩いて辿り着いた、砂漠の真ん中で、はらはらと泣く。ずっと堪えていたその涙は、留まることを知らずに、砂漠に泉をつくる。動物たちは、その水を飲んで、喉を潤すのだ。
「ずいぶんと、切ない話なのね」
 公子のお腹は、知ったとたんに日々大きくなっているような気が香月にはしていた。
「最後で、泣くでしょう、女の子が。だから、最初はこんな目じゃ駄目なのよ」
 香月はそう言いながら、目の前に放り出されていた紙をぺらりと摘み上げた。どうしても描けなくて、坂江にも何度も電話をしている。
――駄目なんです。どうしても、駄目なんです。
 坂江は困ったようにため息をつくが、仕方ないと言ってくれている。
 ふいに電話の音がして、香月は情けない顔で公子を見た。坂江なら、いないといって、と目で訴える。公子はそれに、笑うだけだ。
「違うわよ、敦賀さん」
 公子はそう言って、電話を香月に渡した。
「こんにちは」
 香月がそう言うと、貴広がひっそりと笑うのがわかる。
「浮かない声だね。まだ描けないんだろう」
 確信を持った声で言われて、香月は眉根を寄せた。いいかげん、描けない自分にイライラしているのだ。だから、なんでもお見通しなのね、と言った自分の声に棘が含まれてしまったのもわかっている。
「わかってないのは、香月だけだろう?」
 貴広の声は、あくまで優しい。でも、どこか呆れているようで、香月は胸の奥のどこか、底の底で、ざわりとしたものを感じる。
「わかってるわよ」
 何を?と言われても、答えられないだろうと香月は思いながらも、そう言った。わかっているのは、貴広にイライラしているのではなく、自分に苛ついているのに、それを貴広に当たっている、ということだ。
「わかってないよ」
 だから、貴広がそう言ったのも、正しい。
 でも、その正しさが、香月の胸の奥底をえぐる。
「何をわかってないっていうの?」
「哀しい目しかかけない理由。わかっていない、というのはちょっと違うね。わかってるのに、知らない振りをしてるんだ」
 だから何をよっ、と叫んで、香月はああ違う、と目を閉じる。叫ぶ相手が、違う。それでも、的確すぎる貴広の答えから、香月は遠ざかりたくて仕方なかった。それで、そのまま電話を切ってしまった。
 その切った電話が、すぐに鳴る。香月は一呼吸置いて、ボタンを押した。謝るべきだろう、と頭では分かっている。
「香月?用件言うの忘れた」
 貴広のなんでもないような声が聞こえて、香月は仕方なしに自分の心を落ち着ける。これでは負けてしまう。
「飲みに誘おうと思ってたんだけど」
 負けて、泣き喚いてしまうかもしれない。
「そういう余裕なところが嫌いよ」
「余裕?誰が」
「あなたがよ」
 貴広が、電話の向こうで笑うのが分かる。
「俺としては、余裕なんてとっくに無くしてるんだけどね」
 その言いように、香月はわざと盛大なため息をついた。

 心地よい酔いのまま、部屋に帰ってきたところで、公子のにやりと笑った顔に出会う。それに香月は、少しだけ居心地悪そうに笑い返した。
 電話での喧嘩を、公子は知っている。たぶん、何がどうなって喧嘩になったかも、もともとの原因であるあの女の子の哀しい目のことも、何もかも分かっているのだ。それでもすぐに何も言わなかったのは、母になった公子の強さなのかもしれない。以前ならきっと、部屋に転がり込んだその日のうちに、呆れられて、ずばずばと言われていただろう、と香月は今になって思う。
 世界はこんなに優しいのに、どうして自分はそこに甘えなかったのか、香月は不思議だった。
「描けそう?」
「そうね、たぶん」
 公子はソファーには座らずに、絨毯に座ってソファーに寄りかかりながら、マニュキュアを塗っていた。その手を宙にかざしながら、不意に言う。
「あんたたち、いい加減くっついたら?」
 冗談じゃない。
 香月は、そう思う。冗談じゃない。
 でも、どうしてそんな風に思うのか、香月には、さっぱりわからなかった。








【あとがきのような】
この話は、10000hitsのリクエスト作品として書いたものです。
まず、リクエストをしてくれた、CTさん、ありがとう。
実は、リクエスト内容を書くのが憚れるほど、リクエストと違います……
その内容は、
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特別美人ではないが醜くはない容貌で
頭が良くて(天才型)、プロポーションは…… 長身で曲線に欠け
あまり女性的ではない(笑)、冷静沈着でややキツイ性格だけれど
意外なところで天然ボケが入ってる、一般家庭で育った女性と、
『天は二物を与えず』を思いっきり無視した、顔良し・頭良し(秀才型)・
身体良し(笑)、スポーツ万能で、武道なんかやっちゃってて
しかも強くて、家はお金持ち、でも自分を恋愛対象にみている女にとって
極悪非道な性格の男の、端からみるとまるで小学生のような恋愛模様
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でした。
言い訳はなしで、これが私の精一杯だった、と思っていただくしかないです。コメディは書けないんだなあ、としみじみ思いました。
でも、この話自体はとても気に入っています。
この機会を与えてくれたCTさん、本当にありがとう。
そして、読んでいただいたお客様、ありがとう。


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