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papillons


7.夏の終わり

海に行ってから、哲(さとし)と過ごす時間が多くなった明良は、もしかしたらと思う。
「もしかしたらさ、高尾、最近西里先生のとこ行ってないんじゃないか?」
「ん?あぁ」
毎日のようにどこかに行くのは大変で、今日は珍しく明良の家に二人はいた。リビングで、宿題の最後の追い込みをしている。
「……なんで?」
問うと、哲はノートから顔を上げて、首を傾げた。
「さぁな……なんとなく。向こうも声かけてこないから、旦那と上手くいってるのかもな」
なんとなく、か……明良は一人ごちて、机に映るブラインドの影を見つめた。少し風があるのか、外の木々が揺れて、ブラインドから差し込む光も、ゆらゆらとしていた。
外はきっと暑いだろう。まるで嘘のように。
「オママゴトは終わりってことだろ」
人事のように、哲は言う。明良はなぜか動揺している自分を知って、視線を泳がせた。哲はそんな明良には気づかないのか、またノートに視線を落として鉛筆を動かしていた。
夜中の海に二人で行った、あの電車の中の幸福感は、明良をずっと襲いつづけていた。思い出すと、泣いてしまいそうになるほど、明良はあのときを忘れられずにいる。
大切な思い出になって、ずっとしまっておけるものだと思っていたのだ。
でもあの幸福すぎる想いは、消えないでいる。思い出とするには強烈過ぎて、明良を逆に思い詰めさせる。
こんな風に、二人でいるのが辛いほどに。
届かない思いを、諦められなくなる。今までずっと抑えていた気持ちが、流れ出そうになる。それは、明良には恐ろしいことだった。
あのとき、高尾は自分の全てを受け入れた。
明良が何をしてきたのかも分かっていたはずで、それでも目を逸らさなかった。そんなことの何もかもが、あの電車の中の幸福感だったのかもしれない。
でも、と明良は思う。
でも、それはあまりに残酷だ。そんな風に受け入れられたら、その関係を壊せるはずがない。その関係を守ることに必死にならなくてはいけない。
そんなときに、オママゴトをやめられて、自分といることを選ばれたら、どうしたらいいのだろう。明良は、あのオママゴトは自分にとっても必要だったのだと、初めて気づいた。


「君が旅行に行きたいなんて言うとは思っていなかったよ」
和巳にそう言われて、杏子は小さく笑った。八月も終わりに近い平日の高速は空いていて、車は気持ちよく走っている。その車を運転している和巳の手を見ながら、その手を好きだな、と杏子は思う。少しごつごつした、大きな手。
「なんだか突然行きたくなったのよ」
新婚旅行。と杏子が言うと、和巳が声を上げて笑った。
「新婚旅行が温泉なの?それも夏の」
そう、と杏子も笑う。だって突然、行きたくなったのだ。山奥の、緑深い木々に囲まれた温泉に。和巳と、二人で。
「新婚旅行ね……」
結婚式の後に行った、あのちょっと贅沢な旅行は何だったのだろう、と和巳は苦笑する。あのとき、幸せな気分を味わっていたのは、自分一人だったのか。
「そうよ。だって、オママゴトは終わったんだもの」
「オママゴト?」
そう、と杏子は車窓を眺めながら頷く。単調なコンクリートの壁がなくなって、山が見える。
「そう言われたのよ」
何のことかは、和巳も分かって聞かなかった。なるほどな、と思う。今までの全てが、オママゴトだったようなものだ。
「それはなつかしい、おほきな海のような感情である。」
ふと思い出して、和巳は煙草に火をつけながら呟いた。
「なに?」
「いや、ちょっと知り合いがそんな言葉を言っていたから」
アキラといっていたな、と和巳は声に出さずに思う。あの夜のことも、オママゴトだ。でも、何もかもしなくてはならないこと、だった気がしてくる。子供がオママゴトをしていろいろ知り、成長していくように、自分たちにとって、必要なことだったのだと。
「それ詩ね。どんな感情なのか知ってる?」
「なつかしい、おほきな海のような感情、だろう?」
「ような、って言ってるでしょう?」
杏子はいたずらをした子供のように笑った顔をして和巳を見つめた。それから、ふっと優しい目をする。
もうきっと、迷わないだろう。寄り道をしても、間違った道を行っても、きっとここに帰ってくる。
その前の一行はね、とひどく温かい声で杏子は呟く。
「愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
それはなつかしい、おほきな海のような感情である。」


何か、飲み物を買ってくる。
明良はそう言って、逃げるようにその空間を抜け出した。哲は何とか宿題を済ませてしまおうと、必死になっているようで、明良の動揺にはまったく気づいていないようだった。
アスファルトの照り返しのきつい道をいやに時間をかけて歩きながら、いつだってそうだった、と明良は思う。いつだって哲は気づいていなかったはずなのだ。でも、本当に気づいていないのは自分かもしれないと思うと、明良はぞっとする。終わりかもしれない。そう、思って。
かろうじてまだ夏らしい、ぎらぎらとした光を放っている日も、もうすぐ沈む。嘘のように明るい昼間の街は、明良を挫かせる。
どんなときも、こんな風に光に晒されることを、恐れていたのかもしれない。闇の中でなら誤魔化せることの数々に、縋りつづけて。
十分ほどで自動販売機からジュースを買って帰ってくると、哲がソファーに寝転がっていた。エアコンの効いた室内は適度に涼しく、外から帰ってきたばかりの明良を心地よくさせる。
ゆらゆらと、ブラインドを透けた光が、哲の投げ出された手の上で揺れる。
明良は持っていたジュースをテーブルに置くと、その手を、――腕を、髪を、閉じられた目を――見つめた。それから眉根を寄せて、目を閉じた。
離れてしまおう。
そんな誘惑が、明良を襲う。何もかもめちゃくちゃにして、壊してしまおう。
だから、と祈る。
だから、今、一度だけ、触れることを許してくれるように。
ソファーの背に乗せられた、片手。
その手に、自らの手を重ねることも許されないのだから。
明良は目を開けて、その手に重ねるかのように、同じように片手を乗せる。ぎゅっとその布を掴みながら、目だけはじっと、哲の手を見つめていた。
一度だけ。
一度だけ。
ただ、一度だけ。
それだけで、いいから。
哲の上に、自分の影が映っている。
もう、阿久津に抱かれはしないだろう。他の誰かを、探さなければならないだろう。そう思いながら、明良はそっと顔を哲の顔に近づける。
でも、明良は結局どこにも触れることはせずに、顔を上げた。
できるはずがない。例え離れたとしても、今までの時間を壊す勇気は出なかった。
何もかも受け入れた哲に、それ以上を要求する気にはなれない。たとえこのことを許されても、それでは辛いだけだと、分かっている。
――そして、許されてしまうことも。
自嘲気味に笑って、そっと離れようとした明良が、びくりと動きを止める。見なくても分かる、掴まれた手首。思わず哲のほうを見ると、じっと見つめられていた。
オレンジ色の光が、落ちかけている日を知らせる。影は一層濃く、哲の上に映っていた。
「離せよ」
震える声で、やっとそれだけ言うと、明良は思い切り身を起こして手を引いた。それは思ったよりあっけなく離されて、明良を不安にさせる。
望んでいなかった、結果。
だらりと垂れた腕は、いやに重い。
「藤野」
「帰れ」
哲がソファーに身を起こすのが見える。でも、明良はその顔を見ることが出来なかった。
望んでいなかった。こんなことは、望んでいなかった。
「俺を罵って、出てけよっ」
堪らなくなって、唇を噛む。
哲は困惑しながら、それでも、穏やかな気持ちでいることにほっとした。ソファーの上で、片足を立てて、そこに手をおき、その上に頭を乗せる。そうしておいて、じっと明良を見つめた。
あぁこの目だ。と明良は思う。
人の目のことを無垢なとか、無邪気なとか言う哲の、色をのせない、目。
ゆらりと、影が揺れる。
確かめたかったのかもしれない、と哲は考えた。明良が帰ってきたことは分かったのに、開けなかった目。確かめて、安心したかった。
「俺は、残酷なのかもな」
呟いて、ブラインド越しの外を見る。夏の日の、強烈な一日の残光に、目を細める。その表情に、明良はざわざわと胸が締められるのを感じる。
残酷なのかもな、お前を離したくないと思うなんて。
「もう俺は、オママゴトなんて出来ない」
哲から目を離せずに、明良がそう言う。
「オママゴトは、終わったって言っただろう」
哲ははっきりとそう言うと、髪をかきあげながら明良を見た。
日が沈む。夏休みも終わり、もうすぐ夏そのものが終わりを告げるだろう。
でも。
夜が始まり、新学期も、秋も来る。
終わりとは、そう言うものだと初めて知った明良は、その眩しさに、思わず目を瞑った。

了  2001年1月21日

本文中に出てくる詩は、以下のファイルからの引用です。青空文庫様、並びに工作員の方々に感謝いたします。
底本:現代詩文庫 1009 萩原朔太郎 思潮社
   1975(昭和50)年10月10日発行
入力:福田芽久美
校正:野口英司
1998年8月28日公開
1999年7月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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