琥珀に沈む月
06
翌日の朝の朗の表情は、絶品だった。抱き合うように眠った俺たちは、互いの顔を目の前にして、起きたのだった。おはよう、と俺が笑いかけると、ぼんっと音がするかと思うほど、朗の顔が赤くなった。俺は思わず呆然として、それからおかしくておかしくて、笑った。抱いているときは、結構大胆なこともした気がするのに、そのギャップがおかしかった。
その日、俺たちはお祖父さんと一緒に、川釣りに出かけた。もちろん、隆も直ちゃんも一緒だった。お祖父さんは手漕ぎの小舟を持っていて、船頭さんをしてくれた。船を漕ぎながら、機嫌良さそうに朗々とした歌声を聞かせてくれた。兄貴が帰ってきて嬉しいんだ、と生意気を言う隆に、うるせえんだよ、と照れた様子は、朗との血の繋がりを感じさせた。
朝早くに出て、お昼には家に戻った。家ではお祖母さんが昼食の用意をしてくれていて、お祖父さんは釣ったばかりの鯉を見事に捌いてくれた。
帰る時間が刻一刻と近づく。それに比例して、直ちゃんは、少しずつ口数が少なくなっていった。でも、それについては誰も何も言わなかった。ただ、隆はその直ちゃんの世話を焼いていたし、お祖母さんもお祖父さんも、傍を通る度に、ぽんぽんっとその頭や肩、手を叩いていた。宥めるような、安心させるような、柔らかい仕草だった。朗は、抱きつかれたら必ず抱き返し、何度もその頭を撫でていた。
最後まで、帰らないで欲しいとも、次はいつ来るのかとも、訊かなかった。
朗が、かなり忙しくしていることを知っているのだろう。朗は決してそんなことは言わないし、態度にも見せないけれど、かなり無理をして働いていることも、みんなわかっている。
俺は、たまたま居間を通り掛ったときに、朗とお祖父さんが話しているのを聞いてしまっていた。親の遺産を食いつぶしながらも、朗はかなりの金額を仕送りしているらしい。お祖父さんも、少しでも働こうとしているが難しい、と言っていた。
小遣いじゃない、と氷上が言っていたことを思い出した。
その上、来年は隆が高校に上がる。
それでも、井嶋の家はこんなに温かい。こんなに、安心できる。こんなに――優しい。
それは全て、朗にも当てはまることだった。
その手は温かくて、その腕の中は安心できて、その目は――泣けるほど優しい。
だから、俺は悟った。
俺は、朗のそばに居てはいけない。手に入れようとしてはいけない。
欲しがってはいけないのだと――知った。
帰りの電車の中で、俺は少しずつ、俺が東京に出てくることになった原因と、恭司とのことを話した。朗は何も言わず、黙って聞いてくれていた。流れる山の景色に、ときどき、直ちゃんの泣きそうな顔が重なった。ひんやりとした駅舎の中で、隆の手をぎゅっと握っていた、その顔。
「好きだったんですね」
俺が全てを話し終えて黙ると、朗がぽつりと言った。
「好きだった。でもそれより、淋しかったから一緒にいたんだと思う。恋とか愛とかより、それが一番合ってると思う」
朗は何も言わずに、俺を見た。問い掛けるようなその目に、でも、俺は何も答えなかった。
自分に抱かれたのも、だからなのか。
例え、そう朗が疑っていても、俺は何も言うつもりはなかった。直ちゃんの、あの白くなるほどに握られた手に、誓ったのだ。俺も、自分できちんと立つからと。隆の手を握っていたけれど、あのとき直ちゃんは、すっくりと立っていた。一人、泣き崩れることなく。真っ直ぐに。
朗に何かを言うとしたら、自分も直ちゃんのようにきちんと立てるようになってからにすると、誓ったのだ。
「結局、俺たちはその淋しさを抱えたまま、立ち止まってしまった。俺たちだけ、時が止まるなんてことはないのに」
二人で淋しさを埋め合って、そうやって生きて行けると思っていた。そうやって、死んでいくのだと思っていた。馬鹿みたいに。
がたんごとんと、電車が揺れる。がたんごとん、がたんごとん。
「淋しいまま、なんですか」
「うん。淋しい。でも、本当はみんな淋しいんじゃないの? 朗は淋しいときとかないの?」
直ちゃんも隆も、お祖父さんもお祖母さんも。みんな淋しい。でも、生きている。あんなに優しく、生きている。
朗はふいと目を伏せて、かすかに笑った。
「そうですね。ときどき」
そう言って、窓からどこか遠いところを見る。俺は不思議なくらい穏やかなその横顔を見つめた。
窓の外には夕景が広がっていた。眩しいほどの夕陽に照らされて、朗の横顔は凛としていた。ちらちらと、瞳にオレンジ色の光がさす。でも、瞳は揺れなかった。ただ真っ直ぐ、どこかを見ていた。
「朗は、今のバイト以外に働いたことある?」
途中で、また立ち食い蕎麦を食べた。俺が気に入ったのだ。
ちょうど食事どきで、狭いカウンターで、俺たちは身を縮めて蕎麦をすすった。
「ありますよ。中学のときから新聞配達とかしてましたし、高校に入ってからは近所の農家の手伝いとか、コンビニとか。大学入ってからは土方もしました」
土方! と俺が驚くと、朗はくすりと笑った。
「これでも、力あるんですよ」
「そうじゃなくて、なんか今からは想像できないっていうか」
「ああ……。俺からしたら、今のバイトの方が似合ってない気がするんですけど。嫌いじゃないですけどね」
ずるずると蕎麦をすする。俺は生卵の黄身を箸の先でそっと割った。
「嫌いじゃないんだ」
「どんな仕事も、楽しいですよ」
衒いなくそう言う朗が好ましいと思った。
「土方は向こうから断られそうだけど……コンビニとか、俺も出来るかな」
呟くと、朗の箸が止まった。
「今の仕事、辞めることにした」
真っ直ぐ、逸らさないようにその目を見て言った俺に、朗は、そうですか、と微笑んだ。俺は間違っていないと安心させてくれる、笑みだった。もっとも朗のことだ。俺が自分で決めたことなら、いつでもそうやって微笑んでくれるだろう。
蕎麦と卵を絡めて、すする。うまい、と呟いたら、朗と目が合った。
なんとなく、二人とも口元を緩める。肩が触れ合いそうな距離で、柔らかい空気が流れる。小さな駅の立ち食い蕎麦屋で、食欲そそるしょっぱい匂いの中、俺たちは肩を寄せ合って笑った。
東京に着いたときには、周りはすっかり暗くなっていた。電車に乗っている途中から、細かい雨が車窓を流れていた。
朗はこのまま仕事に行くのだと言った。
「身体だけは、壊すなよ」
俺がそう言うと、朗は少し不思議そうな顔をした。俺の「心底」が通じたのだと思う。遠くから祈ることしか出来ないから、どうか元気でいて欲しい。そう願った、俺の気持ち。
朗はそれでも、頷いた。突然こんなことを言ったのは、俺が朗の家族を見たせいだと思ったのだろう。心配するなというように、柔らかく笑いながら、「はい」と頷いた。
「旅行、本当にありがとな。すげえ楽しかった。朗の家族、本当にいい人たちだ」
「こちらこそ。付き合ってもらってありがとうございました。弟も妹も、湯野さんがいて楽しそうだったし」
もちろん祖父母も、と朗は付け足した。
「湯野さんさえ良かったら、また是非来て下さいって、言ってました。直も、次は絶対あの桜の木まで一輪車を乗れるようにするって言っていたし」
「隆は高校の制服姿見せてくれる約束したな」
濡れたアスファルトが、町の明かりに光っている。昼間は天気が良かったのか、傘を持たずに駅に駆け込んでくる人が多かった。
「ほんと、会えて良かった。朗にも、直ちゃんにも、隆にも、お祖父さんとお祖母さんにも」
車のライトが俺たちの足元を一瞬照らしていった。俺は顔を上げた。小さな旅行鞄の持ち手を握り締め直す。こんなにちっぽけな鞄で足りてしまうほどの、僅かな時間だった。でも、それは宝石のように美しく貴重な時間だった。
「湯野さん?」
最後まで、朗は俺を名前で呼んでくれなかった。でも、それも朗らしい。
「仕事場に直行なんだろ? 遅れるぞ。――ほんと、ありがとな」
一歩、踏み出す。暗い空を見上げると、白い雨がしっとりと顔を濡らした。
これなら、泣いても大丈夫だな。
そんなことを考えた。それが可笑しくて、少しだけ笑う。そのまま、駆け出した。
「湯野さん!」
叫んだ朗に、一度だけ振り返る。
「またな!」
叫び返すと、朗は少しほっと肩を落として「はい、また」と笑った。
俺も笑った。
――いつかまた、俺がきちんと独りで、自分の足で立ったら。そうしたら。
そうしたら、会おう。
直ちゃんと隆との約束には、間に合わないかもしれないけれど。
きっと、独りで立って見せるから。
そのときは、きっと――。
朗に出会えたこと。
朗を愛したこと、朗に愛されたこと。
それが、俺の人生最高の贈り物だ。
朗と過ごした日々は、ゆっくりと結晶していった。それは温かく、滑らかな、幸福の結晶だった。