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遠景涙恋
第十二章 送舟


04
 翌朝早く、隣の温もりがすっと離れたことに気付いて、リーフィウは無理やり重たい瞼を持ち上げた。寝たままぼんやりと窓から外を見ると、空がようやく明るくなり始める頃だった。白の季節の朝は遅いとはいえ、いつもよりずっと早い時間だった。
「お帰りになるのですか?」
 掠れた声だった。昨晩遅くまで貪りあったのだ。キーファもあまり寝ていないはずだった。
「ああ、執務時間前に帰れば文句も出ないだろうからな」
 キーファは手を止め、寝台の横にやってきた。そっとリーフィウの髪を梳き、短い口付けを交わした。
 だが、その言葉に驚いたリーフィウは、目を閉じるのを忘れた。
「どうした?」
 くくくっと笑ったキーファに、リーフィウの恐る恐ると言った感じの声が掛かる。
「あの、キーファ王?もしかして、王宮をこっそり抜けていらしゃったのですか?」
「もう遅かったからな。あまり大勢で来てもイーザに迷惑だろう?」
 思いついたのは突然だったし、反対されるだろうこともわかったし、もしそれを押し切ったとしても、それならば従者を付けろと言われることは明白だった。そんな面倒なことはしていられないと、キーファは一人で来たのだ。もちろん、誰にも言わずに。
「どなたにもお知らせせずに……?」
「一人に言えば他の奴らに言うのと同じだ。大丈夫だ。そんなに心配しなくとも」
 でも、とリーフィウはようやく起き上がった。だが、キーファはそれを制した。
「もう少し眠っていろ。今日中にハリーファを迎えに寄越すから、帰れるだけの体力を回復して貰わないとならない」
 そうリーフィウの頭に軽く口付けを落とす。
 ああ、どれだけみんなが心配しただろう。
 リーフィウはそう思うと、知らなかったとはいえ、少しばかり、王宮に帰るのが恐ろしいと思った。もちろん、それさえなければ、もの凄く嬉しいことだったのだけれど。


「一晩くらい、我慢できなかったんですか」
 シャリスは今日も怒っている。最近、忙しさと頭の痛い問題の山積みに、気の休まるときがない。軍隊再編は思ったより難しく、喧嘩も日常茶飯事で、それの治療にも追われている。大体みんな我侭で自分勝手なのだ。この王も。
「……執務時間には帰ってきただろう。いいじゃないか」
「よくありません。ご自分の立場を自覚なさってください」
 シャリスよりずっと落ち着いた、でもその抑揚のなさが却って怖さを感じさせる口調で言ったのは、王つき警護兵のイスファだった。その視線も、ひどく冷たい。
「出かけるなら出かけると、一言仰って下さい」
「そうしたらすぐに出かけられるのか?」
「……少なくとも、私はお止めはしませんが」
 だが、国王軍の隊長たちの一人には報告しに行くだろうし、その誰かが止めるかもしれない。止めなかったとしても、警備体制を整えて出かけるなどという呑気なことをしたくはないのだ、キーファは。イスファももちろん、そんなことはわかっている。
 つまり結局、シャリスの最初の言葉が、イスファの内心の言葉でもあった。
「私も止めは致しませんが。王がいないと報告を受けて、どれだけ私たちが心配したと思っているのです」
 そうは言うが、報告を受けた隊長たちとイスファやハリーファたち警備兵の頭に浮かんだのは、イーザの所だろうというもので、実は大して探さずに王は見つかっている。どうせ言わなくてもすぐにわかるのだからいいじゃないか、とキーファは思ったが、もちろん言葉に出すような愚行はしなかった。
「心配を掛けたのは悪かった。だが、あの時間に兵を働かせるのも、大勢でイーザの家に押し寄せるのも悪いだろう?」
 飄々と言うキーファに、シャリスとイスファはため息を吐くしかない。
 問題ははっきりした、と二人は思う。要するに、自覚がないのだ。一国の王たる、その自覚が。
 そこを強く言えないこともまた、問題だった。タシュラルの元、王の自覚など必要ないままの日々を送ってきたのだ。そんな自覚を持ったら最後、タシュラルに徹底的に押さえられたかもしれない。命さえ、危なかっただろう。
 実際、ルク攻略以降のキーファの聞き分けのなさに、タシュラルは苛立っていた。このままでは危ないとはキーファの周りの誰もが感じていたことで、それが爆発する前にタシュラルを押さえられたのは幸運だった。
「そこまで考えたのならば、我々の心配も考えていただけませんか」
 シャリスが深々とため息を吐く。ラシッドなどはそうそうに文句を言うのを諦めたようで、肩を窓枠に預けて三人の様子を黙って見ていた。
 キーファは大きな座布団に背を預けたまま、ゆったりと笑った。
「そもそも、シャリスが言ったのじゃないか」
「は?」
「あの処方箋、未だ有効なのだろう?」
 処方箋、と楽しそうにその言葉を舌に乗せた王に、そうですけれど、とシャリスは片手で額を押さえた。
「知らなかったのか?気を付けたほうがいいぞ。あれはなかなか依存性がある」
「禁断症状でも出たのか?」
 笑いを含んだ声で言ったのは黙っていたラシッドだった。キーファは笑ったままだ。
「それはもう、ひどいのがな。危うく死ぬかと思ったぞ」
 ああもう何を言っても無駄なのか、と深々とため息を吐いたのはシャリスとイスファで、キーファとラシッドは声を上げて笑ったのだった。


 リーフィウは王宮に帰ってきてすぐ、キーファに皇太后の舟送りをすると言われた。それに来るか来ないかは、自分で決めて欲しい、と。イーザに説明を求めると、それはカハラムの儀式の一つで、亡くなった人の遺体を棺に入れ、海に流すのだという。ここ首都カラムでは、街から川に舟を流し、海までその舟が流れたところで、舟底の小さな穴を塞いでいた杭を取る。そして、舟は数日流れて海に沈むのだ。本来ならば、それは死後数日以内に行われるものだが、今回は事情が事情で、一月以上経っての異例の舟送りとなった。キーファはその間、皇太后の遺体を光の季節には高価な氷を使って保存しており、やはり母思いのところは変わっていないのだと、イーザは瞳を濡らした。
 リーフィウは自分が参加していいのならば、是非出たいと言った。キーファの母の葬儀である。イーザは頷いて、すぐに衣装などを整えてくれた。イーザも一緒に出かけるのか、正装と言われる衣装を着ている。上着が足首まであるような長衣なのは男女一緒だが、女性はズボンではなく上着より長い長衣をもう一枚重ねる。普段はその色合いなどを楽しむものだが、今日はどの侍女も同色を重ねていた。そして、最後の仕上げと襟から脇に向かって斜めに入っている重なった布部分の釦に、クィナスの花が刺された。
「これは……?」
「お別れの花でございます」
 王の下に行くからと迎えに現れたハリーファも、同色を重ねた衣装を着て、胸元にクィナスの白い花を刺していた。行き交う人間誰もが同じで、微かなその花の香りが王宮中に漂っていた。
 だが、それは王宮に限った話ではなかった。舟送りをすると言われてキーファたちと向かったのは王宮のすぐ傍の川岸で、そこで馬から降りて待っていると、しゃらり、しゃらり、と緩やかな鈴の音が聞こえてきた。音のする川上を見ると、いくつかの舟が連なって、川面を進んできていた。
 二つ目の舟に船頭は見えず、四角い棺がクィナスに囲まれて置かれていた。鈴の音は、前後の舟に乗っている僧侶の手から響いている。
 舟が近づいてきて、すっとイーザがそれに膝を曲げて礼をすると、胸元のクィナスを取って川に投げ入れた。続いてハリーファも、すっと頭を下げて花を投げ入れる。リーフィウもそれを真似て、胸元から花を取った。
 カラムを流れる川は、昼間は渡し舟や荷を運ぶ舟、商売をしている舟で賑やかだ。それぞれが商売ごとの布を船尾にはためかせる為に、なかなか色彩鮮やかでもある。だが、今日はそれらも喪に服して、両岸に止められていた。
 街の人々も、皇太后の死を忍んでクィナスを投げ入れる。棺を乗せた舟は、そうして白い花と共に流れていくのだ。
 舟は、海に着くまでほぼ一日かかる。普通の国民の場合は、棺を導くもう一つの舟が前にあるだけで、僧侶さえいないときがある。一般家庭ならば、その船頭は家族であることも多い。だが、クィナスを投げ入れるのは同じだった。
 それは、美しい光景だった。
 流れていく舟を目で追っていくと、リーフィウはふいにその視線の先にいたキーファを見つけた。すっと立って、やはり舟を目線で追っている。少しばかり離れている所為でその表情まではわからなかったが、ただ静かなその姿が、目に焼きついた。


 その夜、リーフィウはキーファの部屋で待っているように言われ、一人本を読んでいた。キーファはとても忙しいのか、部屋に帰ってきたのは日付が変わろうかと言う頃で、リーフィウも床に入ろうかとしていた。
「起きていたのか」
 キーファは上半身には何も身に付けず、生成りの下着であるズボンを穿いているだけだ。本当はこうして寝るのが普通だったようで、以前リーフィウの部屋で眠っていたときは、なぜかそれを止めて夜着を着ていたのだとイーザが笑っていた。
「待っているようにとおっしゃったのはキーファ王ではありませんか」
 意外そうに言ったキーファを詰るように言う。キーファの言い方が、まるで子供に対するかのように聞こえたのだ。それを、キーファはふっと笑った。
「いや、そうだったな」
 寝台に腰掛けたキーファの手には、酒の入った杯があった。それを見ながら、寝台に足を投げ出して坐っていたリーフィウは、すっとその背に頬を寄せた。
「あなたとシャリーア殿の新しい部屋を考えていたんだ。今用意させているから、それまでは俺の部屋で我慢していて欲しい」
 言いように、くすりとリーフィウが笑う。全く、この王はどうしてこれほど謙虚なのだろう。そして、素直ではないのだろう。
「王の部屋で待っていられるなど、私には贅沢でございます。それに、新しい部屋など……前の部屋で十分ですのに。明日からはそちらにいましょうか」
 少し意地悪い気持ちで言うと、キーファがゆっくり肩越しに振り返った。悪戯そうな目で上目遣いで自分を見ているリーフィウにため息を吐き、それでもそっとその頬を指でなぞった。そして、そんなことをしておきながら、あなたがそう望むなら、と言った。
「……意地悪ですね、キーファ王」
 どちらがだ?とそれに返して、キーファは杯の中の酒を煽った。背中にかかる体重が、心地よい。くたりと、預けてくるその身体の愛しさと。
「シャリーアは、ラシッド様のところに?」
 言われた言葉に、キーファは少し驚いて再び振り返った。
「気付いていたのか」
「まあ。私、それほど鈍くありません。ラシッド様を見ていたら、わかるでしょう?」
「だが、シャリーア殿とは会っていないだろう?ああそうだ。明日にでも会えるようにしようと思っていたのだが……」
 それにはっと身を起こして、リーフィウがキーファを覗き込んだ。
「本当に?」
 その嬉しそうな様子に、今まで引き離してきた罪悪感がキーファの胸を襲った。口調まで幼くなり、表情もまるで子供のようだ。だが、その罪悪感を出すことも、謝ることも、キーファはしなかった。そのキーファと目が合うと、リーフィウはその全てをわかっているかのように、そっとその背をなでた。そして、そこにぴたりと手と額をつけて寄りかかる。
「それで……ラシッド様のところに?」
「いや、ラシッドが駄目だと言って、客室に泊まって貰っている」
「ラシッド様が?」
 そう、とキーファは可笑しそうに笑った。
「あれであいつも純情なんだ」
 それにはリーフィウも笑った。シャリーアの膨れている顔が浮かぶようだった。それをしばらく眩しそうに見ていたキーファは、そうだと思い出した。
「シャリーア殿の身柄は、ラシッドに一任してある。証書を渡した」
 静かに響いた声に、「はい」とだけリーフィウは返した。ラシッドならば、大丈夫だ。それに、自分たちはそうして誰かの保護下に入っていなければならないことも、わかっていた。
 シャリーアはラシッドの。自分は、キーファの。
 だが、とリーフィウはつきりと刺す胸の痛みを無視できなかった。一生、そうしてずっと、キーファに捕らえられていたいと、思う。この人の腕の中はひどく安心できる。でも、それではルクはどうするのだろう。
 今更、再び独立を目指すことはできないとリーフィウにもわかっている。タシュラルがいなくなった今、カハラムは綻びがなくなった。きっと、今までよりよい国づくりが成されていくだろう。その軍事力の差は嫌と言うほど身に沁みているつもりだし、今カハラムからの庇護を抜け出して、ヤーミンに対抗できるはずもなかった。
 だからと言って、何もしないままでいいのか。
 自分が生きている間は無理でも、ルクの未来を考えるべきだ。
 そのためにどうすれば良いかなど、リーフィウにはわからなかった。だが、今のようにキーファを待っていればいい毎日を過ごすことではないと、それだけはわかった。
 そして、キーファを支えていくことでもない。
 黙り込んでしまったリーフィウに背を貸したまま、キーファは静かに酒を飲んでいた。キーファもまた、この青年の将来を考えていた。
 何も考えずに、ただ正直に自分の気持ちだけを言うなら、ずっと傍にいて欲しい。ただそれだけだった。こんな風に、寄り添って過ごす夜が続くなら、それが一番良かった。
 だが、そうして縛って置けないことを、キーファはわかっていた。
 それ以上のことを考えるのは、また今度にしよう。キーファはそう思って、杯を傍らの小さな円卓に置いた。それを合図としたかのように、リーフィウがその背から離れた。キーファははらりと布団をまくると、その中に潜り込んだ。リーフィウもそこに、するりと入り込んでくる。向かい合ったところで、キーファがそっと抱き寄せると、リーフィウは素直にその胸に顔を埋めた。
「今日は舟送りへの参列、感謝する」
 ふいにキーファが言って、リーフィウは「いいえ」と呟いた。キーファの母君なのだ、見送りたかった。だが、自分はこのカハラムに攻められた国の王子だったと言うことも忘れていなかった。もちろん、キーファも。
 全ては、そこに巡っていく。
 だからこそ、二人は出会った。
 でも、だからこそ、この先に続く未来が、わからなかった。



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