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ユーフォリア――euphoria―― 第二話


07
 その翌日朝早くに七緒が渋い顔をして帰ってきて、哲史は不安に駆られた。それでも、哲史の顔を見てほっとする七緒に、哲史の方が安心する。一瞬は、事件が解決したのかと期待もしたが、どうやらそんな様子ではない。
「どうかした?」
 仕事のことは、あまり聞かないほうがいい、と哲史は思っていた。職業柄話せないことも多いのは分っていたし、聞くべきではないこともわかっていたからだ。でも、どことなく不機嫌な七緒に、哲史は聞かずにいられなかった。
「いや、悪いな、起こして」
「ああ、全然。昨日は早くに寝ちゃったし。七緒はまたすぐ出かける?」
 出かけないなら朝食でも、と思ったのだが、七緒は答えずに、また渋い顔をする。それに困惑するのは哲史で、七緒はその心細そうな哲史を見て、苦笑した。
「いや、今日は午後からだ」
「それなら、ご飯食べる?」
 笑った七緒にほっとして、無邪気に言った哲史に頷きながら、七緒はどうしたものかと思案した。この予定外の帰宅の理由を、哲史に話すべきか否か。
 とりあえず、シャワーを浴びてこよう、と七緒はバスルームに向かった。そこで、無精ひげの生えた疲れきった顔の自分を見つけて、再び苦笑する。
 哲史が戻ってきたことは、来生によって瞬く間に広がっていた。どういったわけか七緒と哲史のことは署の中では有名になっていたようで、色々な人間に良かったな、と言われて、七緒は困ったように笑うしかなかった。もちろん、伏見もすごい勢いで乗り込んできて、七緒は仮眠する間もなくまた張り込みに行かなければならなかった。誰もが心配してくれていたのは知っているから、無下にも出来ず、何とか答えていた七緒だったが。
 あれはないだろう、と熱いシャワーを浴びながら七緒は何度目か分らないため息を吐いた。誰が言い出したのかわからないが――どうせ変に無邪気な来生だろうと思っているが――許可する課長も課長だ、と思う。確かに、この午前中は夜通し続いた張り込み後の、仮眠の時間だった。ただ、昨日家に着替えを取りに帰った七緒は、署で待機をするはずだったのだ。それなのに。
 はあ、とまた大きなため息を七緒は吐いた。あれは絶対、みんな楽しんでいるのだ。朝井にまで、頑張れよ、と言われて、返す言葉もなかった。決定打は、やはり伏見だった。みんながなんとなく、で匂わせていたのを、はっきりと言ったのだ、あの女は。
「朝っぱらから感心しないけど、まあ頑張って。でもいくら初夜だからってやりすぎちゃ駄目よ?私、あとで会いに行くから」
 にこにこと笑う顔に、七緒はもう怒鳴り返す気力がなかった。世の中どうかしてる、と思う。
「七緒ー?ご飯できたよー」
 哲史の声に、七緒は我に返って急いでシャワーを済ませた。その間、やはり今日は大人しく寝ようと思った。こんな風なお膳立ても気に食わないが、時間を気にするのはもっと嫌だった。署に行ったら伏見辺りに嫌味の一つでも言われるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
 決めたら楽で、七緒はシャワーだけではなくさっぱりした顔でキッチンに向かった。
「俺も一緒に食べようと思って。だからあっちね」
 キッチンに向かう途中でダイニングを指差されて、七緒はそのままダイニングに足を向けた。といっても、狭い部屋はキッチンもダイニングもない。
 短い時間で作った割にはしっかりした朝食で、コンビニ弁当ばかりだった疲れた七緒にはありがたかった。カップにコーヒーを注いで持ってきた哲史が坐って、二人で食べ始めると、哲史が珍しいよね、と言った。
「昨日着替え取りに来てたから、てっきり署に泊まりかと思ってたのに、昨日の今日で帰ってくるなんて」
 鬼の七緒、のことは哲史も知っているから、よもや自分のために七緒が帰ってきたとは哲史は思っていないらしい。七緒はそれに苦笑して、まあな、と言った。
「それにね。覚悟してろっていったから、次に帰ってくるときにはって、覚悟してたんだけど」
 そうどこか楽しむような哲史には、やはりなぜ「帰宅させられた」のかは言わずにおこう、と七緒は思った。思い起こせば、自分より余程あの連中と気が合っているのが哲史だ。
 今更焦らなくても、と思う。
 今の七緒には、ただ哲史が傍にいるだけで満足だった。


「えー。じゃあやってないんですか?」
 途中で買った缶コーヒーを飲みながら、来生が驚いたように目を見開いた。それに、大声出すんじゃない、と七緒が睨む。
「あ、すみません……。でも、だってじゃあなんで帰ったのか分らないじゃないですか」
「疲れた身体と、無駄に消耗した神経を癒しに帰ったに決まってるじゃないか」
 実際、哲史と温かい朝食を食べて、うつらうつらしながら哲史の話を聞いたりしたのは良い休息だったと思う。やはり、どこか不安だった七緒は、哲史がそこにいることを確かめられただけでも良かったのだ。
「だいたいなあ、そう言うところに気を回すなよおまえたちも」
 今ごろ、伏見と哲史が会って話をしているころだろう。もしかしたら、今回の予定外帰宅の真相を聞かされて、舌打ちでもしているかもしれない。
「いや、だって」
「何がだって、なんだ。どうせ俺をからかうのを楽しみにでもしてるんだろ」
 それは否定できないが、それだけじゃないんだよな、と来生は少し不貞腐れてコーヒーを飲んだ。
「どっちかって言うと、先輩のためって言うより哲史くんのためだったんっすけど」
「哲史の?」
「ええ。俺、前に哲史くんに、ちょっと聞いたことがあって」
 何を、と無言で促されて、無邪気な来生はそれでもちょっと躊躇いがちに口を開いた。
「いや、怖くないのかなあと思って」
「俺が?」
「いや、セックスが」
 おいおい、と勤務中にも関わらず七緒が天を仰いだのは仕方がないだろう。来生の無邪気さは、ときどき犯罪なんじゃないだろうかと思わせる。
「聞くなよ、そんなこと」
「いや、話の流れでなんとなく……お酒も入ってたし」
「おい、哲史は未成年だろうが」
「だって、先輩の部屋、酒しかないじゃないですか」
 それはいつのことだ、と七緒はため息を吐いた。そう言えば、哲史の高校生時代に何度か来生が部屋に来ていたことを思い出す。自分が急に帰れなくなったときなどに、食事の相手に来生を送り込んでいたのだ。
「そのときに、哲史くん、怖いはずがないって。一番近く感じられるからって。嘘でもそうだったなら、本当に好きな人なら絶対幸せに決まってる、って言うんですよ。それをまだ知らないから、はやく確かめたいって」
 なんだか感心しちゃって、と言う来生と哲史のどちらが年上なのかわかったもんじゃない、と七緒は苦笑しつつ、以前何度も自分を誘った哲史を思い出した。薬で飛んでいるときも、必死にそんな温もりを求めていたのかもしれない。
「なーんか、先輩達見てるとちょっと羨ましいんですよね」
 それは、もしかしたら伏見や他のみんなも一緒なのかもしれない、と来生は思っていた。二人がいること、そのことに、安心できるのだ。そんな自分勝手な安心感のために、自分達は必死でこの二人を応援しているのかもしれない。
「羨ましがってもどうにもならないんだよ。さっさとおまえも相手を作れ」
「相変わらずきっついですよね、先輩って」
 大体、この忙しさでどうやって作るんだ、とかつての七緒のようなことを来生は言うのだった。


 結局事件は長期戦になった。目星をつけた男は不審な行動を一切起こさず、代わりにと言うか、新たな容疑者が浮かび上がり、振り出しに戻った。哲史はその間、数日は七緒のところにいたのだが、いままで世話になった雪絵のバーが心配で、とりあえずその整理をしてくることになった。
 大学は、一年留年していた形になっていたのだが、そこを続けることに哲史は決めた。父親が、そのくらいはさせろと、費用は全面的に請け負ってくれたのだ。
 突然辞めれば迷惑がかかることをわかっているから、哲史は次の人が見つかるまで雪絵のところで働くことにした。それも、きっと一ヶ月か二ヶ月のことだ。そのあとは、七緒と暮らす。
 ふっと笑った哲史に、香夏子がなあに、楽しそうな顔をして、とからかった。開店まであと少し。哲史は氷や酒類のストックを確かめながら、ふと七緒との会話を思い出したのだ。
『引っ越す?なんで』
『ここに二人は狭いだろ。大学からもちょっと遠いし』
『え?七緒?』
『こればっかりは譲らないからな。おまえが何と言おうと』
 帰ってくる場所なんて、一つで良いじゃないか。
 そう言った七緒の苦笑したような顔には、二度とあんな思いはごめんだと描かれていた。それは、自分も一緒だと哲史は思う。
 離れることで解決することは、何もないのかもしれない。自分を偽って我慢しても、だめなのだ。何が大切なのか、見間違ってはいけない。
 でも、後悔はしないことに哲史は決めた。雪絵の言った通りなのだ。後悔は必ずするのだろう。それを、そうと思うか思わないかだけで。
 ――でも、もういいよ。おまえは今、ここにいるんだから。
 そう言った七緒に、哲史は思わず口付けた。今度ばかりは、邪魔させる暇もないほど素早く。それから、にやりと笑って、言い放った。
『七緒、覚悟しとけよ』
 それに、七緒はやれやれと苦笑いをしていたのだった。





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