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半夏生

06
 総務から帰ってきたところで、鴇田は市河とすれ違った。外に出る格好をしている部下に、ため息を隠しながら声をかける。
「市河、クリアプラントの見積もりはどうした」
 市河は面倒そうに立ち止まり、これから貰いに行きます、と言った。
「あそこの営業はいつも水曜日に来るだろう?昨日は持ってこなかったのか」
 そもそも見積もりを貰いに行く、という言葉がおかしいと市河はわかっていない。口からでまかせで言っていることを鴇田はわかっていた。
 佐々木鋼鉄の一件から、市河は鴇田を避けている。やる気もなくなり、一時収まっていた営業との食事――と言う名の接待――が再び始まっていた。それも、そのことを隠しもしない。
「持って来なかったから、ないんです」
「なら、今すぐ電話しろ。おまえが取りに行く必要はないだろう」
 市河は無言で、睨むように鴇田を見た。
「常日頃、サプライヤーとは電話だけではなく、会って話をしろ、現場を見ろ、そうおっしゃっているのは鴇田課長だと思うのですが」
「言っている。だが、曲解して欲しいわけじゃない。現場や向こうの事務所を見て、判断材料を増やせと言っているんだ。向こうの営業の仕事を手伝えとも、友好を深めろとも言っていない」
 市河は燃えるような目で鴇田を見て、無言で自分の席に戻って行った。鴇田は目を瞑って、小さくため息をついた。
 あの年代――二十代――の部下たちのことがわからなくなったのは、いつからだっただろう。言葉は届かず、思いは通じない。会話はちぐはぐで、怒っても空しくなるだけだ。市河など反論するからまだ良い方で、話をしてもわかっているのかいないのか、少しもわからない部下がいたときもあった。
 年代差と言うよりも、人種が違う――そんなことを思うときもある。
 あいつら宇宙人だ――そう言ったのは寺井だ。
 鴇田は席に坐って、胸ポケットの煙草を無意識に触る。市河にああ言った手前、今休憩を取るわけにはいかない。
 宇宙人というなら、夏目だった。
 あれから数度、二人で食事をした。帰り際に会うと、夏目は必ずと言って良いほど鴇田を食事に誘った。そして、そんなときは必ずサハラに寄る。鴇田はときには閉店までいてホテルに泊まったりしたが、その回数も以前より減った。百合絵と組んで、夏目が帰るように促すことがあったからだ。
 寺井に何か言われているのだろうか。
 そう疑ったこともあった。だが、当の寺井が「懐かれてるな」と苦笑を零すくらいで、それに部下にそう言ったことを頼むような人間ではない。
 夏目がなぜ、自分を食事に誘うのかわからなかった。相変わらず、女子社員たちの誘いは断るようだし、上司や同僚を、自分から誘うことはないと寺井が言っていた。
 鴇田は、自ら夏目を誘ったことはない。最初の、サハラに初めて誘った、あのときだけだ。
 だが、夏目は鴇田を食事に誘う。感情の見えない目と、声で。


 夏目は何か自分に言いたいことがある。鴇田が漠然とそう考え始めた頃、寺井に飲みに誘われた。ひと月に数度は一緒に飲むのだから、珍しいことではない。
 駅前の焼き鳥屋に入って、二人はいつもと同じように好きなものを頼んだ。寺井が軟骨をこりこりと噛んで、そう言えば、といった。
「夏目の実家、やっぱり東京じゃないみたいだな」
 二杯目のビールを手酌で注いで、寺井はネクタイの結び目に指を入れて緩めた。鴇田は会社を出てすぐに、緩めている。
「なんだよ急に」
「あ?聞いたのはおまえだろう?」
 強かに酔っても寺井は記憶をなくさない。ひと月ほど前にした会話を、鴇田は思い出した。夏目に会ったことがあるのかもしれない。夏目の言葉からそう思った。だが、そんなことは、鴇田も忘れていた。
「そうだったな」
「そうだった。この間、書類整理をしていたら夏目の履歴書のコピーが出てきてな、おまえが言っていたのを思い出した」
 そんなものは最初から整理しておけ、と鴇田は思ったが口は閉じたままだった。
「あいつ、四国生まれだよ」
「四国?」
「全然訛ってないけどな。徳島だ」
 徳島――鴇田はゆっくりと息を吸った。
「ほら、おまえ、こっち来る前は徳島支社だっただろう。だから、もし会ってるならその時じゃないかと思ったんだけど。高校は地元に通ってるしな」
 鴇田が徳島支社にいたのは、十五年前だ。夏目はまだ、十才、小学生だったはずだ。
 小学生と社会人数年目だった自分と、どんな接点があったというのだろう。そんな知り合いはいなかった――そう思ったとき、鴇田の頭の中で、一つの記憶が蘇った。
 小学生――そう、確か、彼はまだ小学生だった。理知的で、大人しそうな、眼鏡をかけた子供。だが、意思だけは強そうで、真っ直ぐな目をしていた。父親が年下の男に頭を下げるとき、陰から覗くその目が、嫌悪に光ってた。
 そして、その少年は、あの夏の日、泣くこともなく、立っていた。


 会社のフロアで受話器を片手に、鴇田は少し迷った。珍しいことだった。だが、覚悟のいることだった。
 寺井と別れた後、鴇田は珍しくまっすぐに家に帰った。サハラに行くかと言った、寺井の誘いも断った。
 部屋に帰って、確かめたいことがあった。記憶の中の名前と、夏目の名前は一致しない。と言っても、下の名前までは確信がなかった。
 目的のものは、見つからなかった。一取引先の子供の名前が、記録されているわけがない。だが気がかりは一晩寝ても消えることはなく、鴇田は会社で、受話器を持ち上げた。
 鴇田はふっと息を吐くと、慎重にボタンを押した。わからないかもしれない。それでも良かった。
「鴇田君?!いやあ、随分久しぶりだねえ。今は東京の本社だよな?何?課長さんか。出世したねえ」
 もうとっくに隠遁生活をしているであろう老人は、現役時代と変わらずに快活に喋った。この舌のおかげで、鴇田はどれほど苦労しただろう。想定したコストまで下げるのが、本当に大変だった。
「ご自宅に突然すみません。当時は、本当にお世話になりました」
 言い方が皮肉っぽくならないように気をつけて、鴇田はいった。老人は全く気にしていないのか、こっちこそ、と笑った。
「で?どうしたんだい?本社の課長さんが今更四国の小さな工場に用があるわけじゃないだろう?と言っても、わしもとうに引退したがね」
 その会社は、今も四国支社と取り引きがある。鴇田が老人の家の番号を知ることが出来たのは、そのおかげでもあった。
「あの工場も、かなり大きくなったと聞きました。優秀な息子さんが跡を継いで、こちらも安心だと四国支社の担当からは聞きましたが」
 鴇田の言葉に、老人は少し驚いて、あいつもまだまだ、と嬉しさを滲ませた声で答えた。
「それでですね。お察しのとおり、今回は仕事のことではないのですが……」
 昼食時のフロアは閑散としているが人が全くいないわけではない。鴇田は声を落とした。
「白峰社長は、青木鉄鋼さんを覚えていらっしゃいますか」
 鴇田の言葉に、ああもちろん、と老人はいった。
「少なくともうちも交流があったからね。お互い仕事先を紹介しあったりもしたしな。……青木さんは、本当に残念だったよ」
 鴇田はそれには、何も言わなかった。白峰は、何も知らないのだ。いや、知っていても、口にするほど配慮のない人ではない。
「確か青木鉄鋼さんは、その後工場はお止めになったんですよね」
「ああ。社長が亡くなって、誰も継ぐ人間がいなかったからな。息子もまだ小学生だったし」
 鴇田はぐっと唇を噛み締めた。
「その息子さんの名前、覚えていらっしゃいますか」
「えーと、なんだったかなあ」
 電話の向こうで、しばらく考えている様子があった。鴇田は待つ時間に堪らなくなって、もう一つの質問をした。
「その後、奥さんはどうなさったのか知っていらっしゃいますか」
「奥さん?ああ、確かね、一人で息子さんを育て上げて、高校を出した後ぐらいだったかな。再婚したと聞いたけど」
 名前、と鴇田の声が掠れた。
「名前、わかりますか」
「再婚後の?えーと……そうそう、一度電話をくれたんだ。私も女房も気にして何度か連絡を取ったことがあったからね。再婚の報告をしてくれた。そのとき、恥かしいんですが、って言っていたよ」
「恥かしい?」
 ああ、と老人が喉の奥で笑ったのが受話器越しに伝わった。
「若くして亡くなった美人で有名な女優さんと同じ名前になってしまって、ってな」
「女優さんと……」
「真佐子さん、と言ったら君もわかるだろう」
 夏目、と絞り出た声は震えていた。老人はそれに気付かなかったのか、そうそう、と楽しそうに笑った。
「名前の漢字は違うらしいんだが、あの夏目雅子と同じなんだよ」
 まあ奥さんも美人だったけどねえ、と懐かしむような声がする。
「そう、ですか。ありがとうございます」
 予想していなかったわけではない。していたからこそ、電話をかけたのだ。だが、期待したのはその予想が裏切られることだった。鴇田は受話器をぎゅっと握り締めて、もう片方の手で目を覆った。
 夏目――もの凄く珍しい名前ではないが、だからと言ってごろごろと転がっている名前でもない。それに、年の頃も一致する。
「鴇田君、なんだって急にそんなこと……」
「いえ、昔の資料整理をしていたら懐かしくなって。……気には、なっていたものですから」
 寺井みたいな言い訳をしている。だが、後の言葉は本当だった。十五年。子供なら、中学生だ。それだけ経っても、鴇田は忘れることなど出来ないと思っていた。
 受話器から、白峰の少し呆れたような、心配するような、ため息が聞こえてきた。
「これは余計なお世話かもしれないが、君が気に病むことじゃない。あの不幸な出来事は、君の責任じゃない」
 白峰の声は柔らかかった。鴇田は何も言えずに、黙っていた。
 あのとき、上司からもそう言われた。おまえの所為じゃない。青木鉄鋼と取り引きがあったのは、うちだけじゃないんだから。
「私も、彼の相談に乗れなかった。あのときは、うちもぎりぎりの自転車操業で、軌道に乗るか乗らないかの瀬戸際だった。だからと言って、私の所為だとも思わない。彼もそれはわかっていたし、真佐子さんも、それはわかっていた。私に後悔がないとは言わない。だが、そうして自分を責めたら、プライドの高い彼に、怒られるよ」
 そのプライドの高い青木に頭を下げさせた。鴇田の脳裏に、蒸し暑かったあの日がちらついた。
「彼は男として、ああいう決着をつけた。私は、そう思っている」
 青木鉄鋼に多額の借金があったことは知っている。社長であった青木は、妻に相談をすることなく離婚届を出し、首を吊った。あの、工場の中で。
 青木社長が死んだ。そう聞いたとき、鴇田はひどく動揺した。得体の知れない波のような感情が襲って、吐きそうになった。
 自分が殺した。それは、ただ事実として鴇田を襲った。
 縋られた腕を振り解いたのは自分だ。頼むと言われても、切り捨てたのは。
「だから鴇田君、君の責任じゃない」
 老人の声が、当時の上司の声と重なる。だがそれは、知らないからだ。あの青木社長が、自分に頭を下げたことを。自分の言葉で、高額の新しい機械を入れたことを。
 はい、と鴇田は何に対してなのかわからない返事をして、白峰にお礼を述べた。頭が痛かった。
「ああ、思い出した」
 電話を切る直前に、老人は急にそれまでとは全く違う、明るい声を出した。
「息子の名前、思い出したよ。浩輔。そうそう、浩輔君だよ」
 夏目浩輔。
 もう、間違いなかった。


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