青空でさえ知っている
06
「どうした日尾、とうとう告白でもされたか?」
理が会議室に戻ると、実行委員長の都築はそうにやりと笑った。
「え? 二人はもうとっくにできてんじゃないの?」
突拍子もないことを言ったのは、三年代表の光武だ。理は「馬鹿なこと言わないでください」と腰をおろす。
「え、だって、ねえ?」
光武は、何か含んだような言い方で、周りを見渡す。都築は「なあ?」と同じように頷き、副委員長の鈴掛は肩を竦め、一年代表の城崎には、目を逸らされた。
「なんですか」
「いや、だって、中ノ瀬、誰も呼ばなかったよなあと思って」
「そうそう、『あの』としか言わなかった」
「なのに、ねえ? 全てわかってます、って感じに日尾は立ち上がるし。中ノ瀬もほっとしたような顔をするし」
俺、ちょっと呆気に取られたよ、と光武はにっこりと笑う。理は脱力して片手で頭を抱え込んだ。おやまあ、と頭上からからかうような声がする。
「大体、日尾は中ノ瀬を甘やかしすぎ」
わざとらしい溜息を吐いたのは、都築だ。これでも先輩は憂いているんだよ、とでも言いたげな顔をする。それに光武が頷いた。
「そうそう。困ってるとすぐ声掛けるし、自分の傍に置いとこうとするし」
「実行委員は、基本自分から動く、っていうのが決まりなんだけどねえ。まあ最近は、中ノ瀬も慣れてきたのか自分から声掛けたりしてるみたいだけど。日尾は一年には、その辺厳しいのに」
なあ? と都築に話を振られて城崎は苦笑いだ。
「でも、俺らの間では、日尾先輩は報われてないよなあ、って言ってるんで……」
「報われてない? そうなの?」
「中ノ瀬先輩、最近はずいぶん気さくになってきたんですよ。路先輩とはすごい普通に喋ってたりするし……。でも、日尾先輩の前だと、なんかこう、緊張してるって言うか」
「ああ、怯えてるって言うか」
城崎が敢えて言わなかったことを、光武があっさり言う。隣で沈黙していた鈴掛が、その頭をぱしりと叩いた。
理はこれ以上この先輩方と生意気な後輩を野放しにしてはいけない、と唐突な使命感に襲われ、ばんっとテーブルを叩いた。
「で、どうなったんですか、六月の予定は」
後輩のふてぶてしい態度はしかし、先輩たちには通じない。あげく、「ああ、傷心なんだな。まあ頑張れよ」などと、応援されてしまった。
実行委員を続けたい、と言ったことは間違っていなかったはずだ。日尾のあの表情を見たとき、安里はそれを確信した。だが、日尾は相変わらず、よそよそしい。代わりにというわけではないが、路とはずいぶん話をするようになった。
――もう、俺に構わなくても平気、って思ってるのかもな。
途方にくれそうになることも、おろおろしてしまうことも、まだまだある。だが、以前よりは自分から動くことができるようになってきた、と安里自身も思っている。いつまでも、忙しい日尾の手を煩わせるわけにはいかない。
そう思ってみても、淋しさはどうしようもなかった。日尾には慣れなかったはずなのに、緊張したり、心臓が煩く鳴ったりするのに――あの目が自分を見てくれないのは、とても淋しい。
安里はノートにみんなの意見を書き込みながら、肘をついた左手で、自分の髪の毛を触った。日尾の手は、温かくて大きくて、うっとりしてしまいそうな、手だった。その手が、くしゃりと髪を掴んだ、あの感触。あんなことされたから、淋しいなんて思ってしまうのだ。
放課後の実行委員会は、いつの間にか反省会を終えて、次の議題に移っていった。
「七月の予定だけど、ってまだ実質六月だけどな、まずは七夕対決の前準備の話。今日は時間ないから、七夕の後の話は次回な。で、〈織姫〉決めは対決の一週間前にはすること。発表は当日。これは東西の寮で決めてもらうけど、実行委員は寮長と協力して、進めてくれ」
九重では、毎年七夕を祝っている。理事長から、それは立派な笹が寄付され、生徒たちはそれに願い事を書いた短冊をさげる。当日は天気がよければ外で立食となり、なごやかな交流会の場にもなる。この行事自体は、ずい分前から行っているらしい。だが、その準備をする「準備委員会」を、東西寮のどちらがするか、それを決める「七夕対決」は、ここ十年ぐらいに始まったらしい。
「慣習というか、まあ色々理由があって、織姫は毎年二年にやってもらうわけだけど、二年、候補は考えた?」
都築委員長の言葉に、二年生たちは顔を見合わせた。前回の会議のときに、二年生たちはちらりと宿題を出されていたのだ。
「俺は岡崎とか楽しんでくれそうって思ったけど、あいつは南なんだよなあ」
「適任って考えると、結構難しいよな。西なら、二葉とか……」
言われた本人はびっくりして「俺?」と首を傾げた。
「あー、いいかも。二葉なら盛り上げてくれそう」
二年のその意見はでも、委員長に苦笑と共に退けられた。
「実行委員を指名するのは、最後の、本当にどうしようもないときの手段な。どうしても、身内で盛り上がるだけの祭りみたいになるから」
その言い分はわかる。二年の面々はまた、うーん、と悩み始めた。
安里は知らなかったが、織姫候補はあらかじめある程度人選してあり、根回しもするらしい。最終的には寮での多数決で決めるのだが、それを考えると公明正大を芯とする九重生らしくない。だが、織姫の事情を考えると、それも頷けた。
七夕対決と呼ばれるイベントのルールは、簡単だ。敵の〈織姫〉の唇を奪うこと。その証拠を写真で撮った方が勝ちとなる。もちろん、「口付け」の振りでもいい。写真でそれらしく見えさえすれば。だが、双方協力し合うわけではないので、「らしく」見せる方が大変だ。それらを考えると、ある程度図太い神経の持ち主でなければ、織姫は務まらない。安里など、もしやれと言われたら、倒れてしまいそうだ。織姫は二年、というのもこの辺りに関係がある。大勢の人間に追いまわされ、あげく、同性からキスされるかもしれない――それでも楽しめる生徒となると、多くの候補はいない。
「日尾は? 何か案はないのか」
「ちょっとどうかと思ったのは、陸上部対決です。東西に、ちょうどいいのがいる」
ああ、とみんなが頷く。噂などに疎い安里も、この間の二年生陸上部が起こした騒ぎは知っている。確か、東の東郷と西の坂城がなにやら賭けて、競争をした。どちらも短距離選手だ。
「いいんじゃないか? 日尾が押すくらいだから、性格的には大丈夫だろ? 対決再びってことで盛り上がるだろうし……。ああでも、当人たちはしゃれになんないか」
三年代表の声に、日尾は「大丈夫です」と力強く頷いた。
「二人とも、もういいライバルみたいですよ。だからこそ、面白いかと思ったんです。幸い、協力してくれそうな寮生にも心当たりがあります」
部屋の空気が、日尾の意見を受け入れていっているのが、安里にはわかった。さっきまで、織姫の人選はずい分な難問のように思われていたのに、今はみんな先のことを考えてわくわくしてきている。
日尾というのは、そういう人間だ。この間の、節句対決のときもそうだった。難問を軽々――本人に言わせれば色々悩んで考えた結果だと言うかもしれないが――解決する。
――日尾ってかっこいいよな。
一年の中では、既に憧れている生徒もいると聞いた。安里にも、その気持ちはわかった。安里は、同級生だったけれども。
「じゃあ、ちょっとそれで話を詰めていってみて。織姫問題はこれでひとまず置いといて、これから班分けなー。実行委員は、残念ながら寮に関係なく準備委員だから」
委員長の声を聞きながら、安里はちらりと横の日尾を盗み見た。今日は、二葉を挟んで、一つ隣に坐っている。日尾は三年代表と何か小声で話し――ふっと笑った。
――うわっ。
安里は慌てて、目を逸らした。
心臓が、ばくばくと鳴っていた。耳の先が熱い。たぶん、顔も赤い。慌てて、ノートに書く振りをして俯く。
「ありゃ? 安里どうしたんだよ? 顔、赤いよ?」
熱でもあるんじゃないか、という、路の声がする。安里はそれに、ひたすら首を振った。
イベント実行委員の二年代表、そんな肩書きを持っていると、先頭に立ってイベントを盛り上げる、旗振り役のようなものを想像されるが、実は案外、地味な仕事も多い。どこにも、楽をしたい連中はいるし、単調で詰まらない仕事から逃げられるなら逃げてしまいたいと思う奴もいる。代表は、それらの穴埋め、とまで行かなくとも、少なくとも率先してその仕事をしなければならない。だから、理はこの放課後も、時間があれば教室で七夕飾りを作っていた。明日には、飾り付けをしなければならない。笹も届いたと先刻連絡があった。
実のところ、理はこういったひたすら同じことの繰り返しをする作業が、嫌いではない。いつもばたばた走り回ってばかりいる身分には、ときにはいいものだ。
理は折り紙を細長く切ったものを輪にし、繋げていく飾りを作っていた。必要もないのに、やけに正確に折り紙を六等分するものだから、さっきまで手伝っていた路に呆れられた。
「理ってさあ、意外に繊細だよな」
と、ありがたくない言葉も頂いた。
「意外じゃないだろ。俺は繊細で脆ーい心の持ち主なの。がさつな路とは違います」
路の作る輪は、大きさが様々だ。顔立ちは繊細なくせに、やることは全く大雑把だった。もちろん、彼の性格は顔立ちにではなく、行動に現われていた。ときどきどうしようもなく雑で、先輩に良く怒られている。
切った紙を並べて、端に糊をつける。それが乾かないうちに、輪を作って繋ぐ。無心にやっていると、どこまでも長い鎖を作ってしまいそうだ。
理が六本目の鎖を作り始めたところで、教室のドアが開いた。振り返ると、安里がいた。少し驚いたような顔をして、突っ立っている。
「なんか、手伝ってって言われて来たんだけど……」
「短冊は?」
「うん、もうちょっとで終わる。路、部活があるから抜けたんだよね? 短冊の方ならあとちょっとだから、そっちやってから行くって」
謀られたな、と思った。確かに路には、誰か手の空いている奴がいたら、代わりにつれて来い、とは言った。それなのに、まだ仕事が終わっていなかった安里を寄越した。お節介なのか意地悪なのか……そのどちらでもあるのだろう。
安里は何も悪くない。理は、所在なげに、不安な顔をしてドアのところに立っている安里を手招きした。おずおずと、入ってくる。
「ようやくこれが六本目なんだ。二十本は作らないとならないから、よろしくな」
言えば、うん、と力強い頷きが返ってきた。
話をするのは、久しぶりだった。あの獣じみた衝動を感じてから、理は正直、安里に近づくのが怖かった。いつか、衝動に負けてしまうのではないか。そう思うと、背筋が凍る。安里が実行委員をやめたくない、と言いに来たときも、あまりに自然で、気持ちを全開にしたような笑顔に、つい手を伸ばしてしまった。あのとき邪魔が入らなければ、抱き締めて、キスぐらいしていたかもしれない。
幸いなことに、机二つを向かい合わせにした距離は、ちょうど良かった。坐っている分には、手は届かない。不用意に触ることはなさそうだった。それでも、ぎくしゃくとした雰囲気はなかなかなくならなかった。
鎖の長さは、一本三メートルほどだ。なかなかに長い。単純作業を好きとは言え、四本を作り終えた理は、少しばかり変化をつけたくなった。
「日尾? それ、紙が反対じゃ……」
安里が気付いて、首を傾げている。理はそれに構わず、裏の白い部分を表にして、輪を作った。
「ちょっといたずら。真剣に飾りを見る奴なんていないだろうけど、なんとなく見てたとしてもさ、こうやって「あっ」って思うようなことがあったら、面白いだろ?」
安里は目をパチパチとさせてから、ゆっくりと笑った。
「あそこ間違ってる、とか言われちゃうよ」
「それがいいんだよ。ああ、でもそうだ。こうしたら……」
理はペンを手にとって、色のついた側に、「アタリ」と書き込んだ。
「どう?」
「面白い! 見つけたら、何かもらえるの?」
「そこまで考えてなかったな……。でも、番号とか書いて、ちょっとした景品を用意してもいいかもな。先着順とかで」
「ちょっとした景品……七夕だから、ミルキーとか?」
いいね、と理が笑うと、安里は頬を上気させて、嬉しそうに微笑んだ。どきり、と心臓がなる。
「いい案だよなあ。でも……」
「難しい?」
「実行委員の仕事になるから、会議に通さないとな」
「今から会議は無理だね」
安里の気落ちした様子に、理はなんだか焦ってしまう。
「来年はそうしよう」
な? と微笑んでみれば、安里も頷いた。だが、まだ未練があるようで「その裏に何か書くって、いいと思うんだけどなあ」と言っている。
問題は、景品を出すことだ。ただ文字を書くだけなら、飾り班の悪戯ですむ。
「じゃあ、こうしよう」
理がペンを握ると、安里が身を乗り出して、そのペン先を見つめてきた。
――願い、叶う。
小さな輪だ。全て読めるわけでもないが、それもまたいいだろう。安里を見ると、目を輝かせていた。
「すごい。これ見つけたら、嬉しいかも」
理には、今の状態で十分嬉しくて幸せだった。思わずにっこり笑うと、目が合って、安里が慌てて乗り出していた身を元に戻した。
しばらく無言で作業をした。安里は不器用ながらも丁寧に鎖を作っていく。器用そうに見えたのに、少し意外だ。
気を付けないと、ついつい安里の方を見てしまう。理は自分の馬鹿さ加減に自嘲しながら、意識して手元を見つめた。
「あの、俺も真似していい?」
ふいに訊かれて顔を上げると、安里が少し恥ずかしそうに、ペンを持っていた。「もちろん」と頷くと、嬉しそうに先ほどの文言を、やはり色のついた側に書き込んだ。それを内側にし、輪をつなげる。思わず目が合うと、二人は共犯者めいた笑みを交わした。
思いがけず、和やかな雰囲気になった。いつもはもっと、緊張したような、無駄に緊迫したような雰囲気だ。机二つ分の距離の偉大さを、理は噛み締めた。
ずっとこんな時が続けばいい。
ふと目に入った飾りに、「願い、叶う」の文字が見えた。安里の、整った形の、少しだけ丸い文字だった。