春の夜を疾走し 06
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春の夜を疾走し

06
 卒業式から一週間ほどで、一二年生は終業式を迎える。その後一週間は春休みになるが、在校生は新学年の準備に忙しい。寮の部屋替えもあるため、大掃除をするのもこのときだ。
 高居はどことなく慌しい雰囲気の校内を横目に見ながら、やはり忙しいだろう新運動部総代になった海田を呼び出していた。高居のスランプの話は運動部統括にも届いているのか、海田は何か思うような顔をしながら屋上までついてきた。
「珍しいな、おまえが人にわざわざ接触してくるの」
 屋上は風が吹いていた。木枯らしと言うには温かく、もう春が来るのだと高居は遠く山を眺めた。
「別に、人嫌いのつもりはないんだけどな。クラスとか、普通にしてると思うけど」
「クラスではな。でも、部活では完璧におまえは一人でやってるだろ? まあ、今までそうやって記録を出してきたんだろうし、バスケとかと違うからな、陸上は。それぞれやり方って言うのがあるんだろうが……石神さんはちょっと失敗したかって言ってたぞ」
 そろそろ、ある種放任主義の石神でも、黙っていられなくなる頃だろう。高居はじっと山を見詰めたまま、何も言わなかった。そもそも、その話をしに来たわけではない。
「俺のことはいいよ。それより、頼みがあるんだけど」
「頼み?」
 高居が頷くと、海田が先を促した。
「寮の部屋のことなんだけど。俺と古柴、一緒に出来ないか」
 あまりに突飛な組み合わせに、海田は一瞬黙った。本人からしても、おかしな組み合わせだとわかっている。
「なんでまた。おまえと古柴なんて、接点ないよな? ……あ」
 海田がふいに高居を見た。
「梅野、か?」
「知ってるのか」
「まあ、一応な。あそこも、古柴先輩が卒業してからごちゃごちゃしてるし」
「古柴先輩?」
 古柴に兄がいることは知っている。だが、梅野と関係してくるとは、高居は思っていなかった。海田はその高居を見て、苦笑した。
「有名だったのに、知らないのか。本当におまえは周りに無関心と言うか陸上だけっていうか……」
「古柴に兄弟がいるのは知ってる。俺たちの二つ上だろ? その先輩と梅野がどうしたんだ?」
「付き合ってたんだよ。いや、付き合ってると言うべきか……。その辺は俺もわかんないけど」
「ちょっと待てよ。梅野は弟の古柴と……」
 高居は混乱して口を閉じた。付き合っているのかと訊いたら、梅野は首を横に振った。だが、その兄と付き合っているというのは?
「三人の間で何があったのか、俺も知らないけど。古柴が梅野相手にちょっと問題起こしたとき、瓜生が聞いたところでは、梅野は放っておいて欲しいって言ったみたいだけどな。お互い様の、割り切った関係だって。古柴もそれに反論しなかったらしいし」
 海田がため息を吐く。高居は言葉がなかった。
「そのときからなんとなく危なっかしい感じではあったけど、まあ、それなりに上手く行ってるんだと思ってたよ。でも、あんまり良い方向には転がらなかったってことか」
 少なくとも、高居が見た範囲では、二人の関係が良好なものとはとても思えなかった。
「それにしても、おまえたちはとことん無関心だって思ってたけど。何かあった?」
 ストーレートな物言いは、海田の美点の一つだろう。裏を読もうとしたり、探る様子ではない言葉に、答えるほうも誤魔化せなくなる。高居は黙ったまま、空を見上げた。
「とりあえず、その無関心だったおまえから見ても、どうにかしないとやばい状態になってるってことか」
 海田もつられたように空を仰いだ。綺麗に晴れた空だった。
「俺が口出しできることか、わからないんだけどな。でも、放っておくことも出来ない。――できれば、梅野は重藤と組ませて欲しい」
 もう一つの希望を口にすると、海田は片眉をひょいっと上げた。
「梅野をね。いいかもしれないな」
「古柴も、重藤の部屋に入るほど馬鹿じゃないだろ」
「おいおい。千速がいいって言えば、誰だって入れるだろ。そもそも千速一人の部屋って訳でもないし」
 だが、そこで揉め事を起こすなど、考えられないだろう。何しろ海田は、重藤を影でとことん守っている。先輩たちでさえ、まともに手出しは出来なかったのだ。
「まあ、どうしようかと思っていたところだから、考えておく。おまえと古柴の件は、手、回しておくから」
「悪いな」
「いや。全国有数のスプリンターに言われたら断れないって。……早いとこ、石神さんと話しておけよ。俺もおまえの走ってるところは好きだしな」
 海田はそう言いながら、歩いていった。高居はわかったと手を挙げながらも、すぐに唇をぐっと噛み締めた。海田の姿が扉の向こうに消えたところで、挙げた手をがしゃんっと金網に叩きつける。
 ――スプリンター。
 もう、その言葉でさえ遠くなってしまった。


 高居の願いはどちらも叶えられて、入寮式の日、事情を知らない梅野は驚くことになった。まさか自分が、姫候補の重藤と同室になるとは思わなかったのだ。周りに無関心の梅野でも、姫候補ぐらいは知っているし、その同室はあらかじめ決められているものだとも知っていた。自分がなぜ選ばれたのか、わからない。
 重藤は屈託なく、「よろしくなー」と言ってきた。梅野は「こっちこそよろしく」と返しながら、その明るい笑顔に少しばかり嫉妬した。重藤は整った顔をしているだけではない。素直で明るくて、顔からは少し想像ができないほど男前だ。そう言う強さが欲しいと梅野は思う。
 ため息を零しそうになって、梅野は顔を上げた。春の光が体育館を満たしている。新年度の始まりであり、新入生もいることで、浮き足立った空気に溢れていた。その中、仏頂面とも言える高居の顔を見つけた。
 春休みが始まってすぐ、高居は陸上部で問題を起こしたようだった。部長の名倉は穏やかで心広いことで有名だと言うのに、その名倉と遣り合ったと言う。口の端を切って、頬を腫らせた高居を見たとき、梅野は本当に驚いた。それからしばらく、高居は名倉や石神と話し合いを続けていた。それが決して上手く行ってないことは、高居を見ていればわかった。ときには、二人を振り切るように部屋に戻って来て、乱暴に扉を閉めることもあった。
 そのときには、高居が理由も言わずに退部届を出したことを梅野も聞いていた。高居は今でも、ただ「陸上をやめる」とだけ言っているらしい。
 高居の右手は、包帯に巻かれている。苛立った高居が、壁にグラスごと手を叩きつけて、傷つけたからだ。
 そのとき、校医の原澤が休んでいることを梅野は知った。代理の校医もいたが、彼に原澤と同じようにカウンセラー的な仕事を求めるのは無理なことだった。それが多分、高居を余計に追い詰めていたのだと梅野は思う。誰も、高居の病気のことを知らなかったからだ。――自分、以外に。
 だが、梅野が知っていることを高居は知らない。本人が口を閉ざしている限り、梅野から言うことは出来なかった。
 ため息を吐いて、視線を落とす。今の高居は痛々しくて見ていられない。結局自分は何の力にもなれないまま、高居と離れることになった。
 一度だけ――。その手を怪我した夜、梅野はやはりソファーで寝入った高居に毛布と布団を掛けた。すっかり寝入っていると思って、そっと顔を撫でた後立ち上がった梅野の手を、高居が左手で握ったことがあった。
 ゆっくりと目が開いて、目が合った。二人でしばらく見詰め合った後、梅野は口を開いていた。
 ――いいよ。好きにしたらいい。
 高居は身勝手なままに梅野を犯した。だが、決して傷つけるようなことはしなかった。ただひたすら、自分の快楽だけを追いかけるようでいてなお、乱暴なことも、いきなり挿入するようなことも、しなかった。
 慰めた――とは思えない。少しでも慰めになっていたらいいとは思う。だが、そう思うには、自身の気持ちが余りに自分勝手だった。
 抱き締めたい、と思った。
 抱かれたい、と思った。
 そうして再び肌を合わせ合ったことが、嬉しかった――。
 傷ついた高居を、利用したのだ。そう思って、今度こそ高居が寝入ったあと、梅野は自分に吐き気がした。
 そうまでして抱かれたいと思っているのだと思うと、自分のあまりの汚らしさに、実際夕食を吐いてしまった。
 ――淫乱。
 古柴がそう言うのもわかる。梅野はその夜、眠ることが出来なかった。
「梅野? 宝探し、始まるぞ」
 重藤に言われて、梅野は物思いから顔を上げた。その顔は、ひどく血色が悪かった。


 高居とは同室ではなくなったが、同じクラスになった。なんとなく春休み中のことなどを引き摺って、あまり話はしなかったが、高居はクラスでは穏やかな顔をしていた。だが、体育は見学ばかりになり、クラスメートの間ではその事に関しては微妙な空気が流れていた。
 放課後には、生田や名倉が来ては、高居と話し合いをしようとする。そのときばかりは高居も厳しい顔をして、「放っておいてくれ」を繰り返していた。
 梅野は寮から校舎に向かって走りながら、高居のお節介、馬鹿、と心の中で罵っていた。立ち止まったら、泣いてしまいそうだ。
 いつになく乱暴に靴を下駄箱に放り入れて、図書館へ向かう。処分が出たのはついさっきということだったから、今は資料集めをさせられていることだろう。本当に馬鹿だ、と梅野はもう一度思った。
 高居が古柴と同室になったことも、梅野は知らなかった。そのせいで、二人が喧嘩になって、高居の飲酒がばれたことも、ついさっき知った。
 ――喧嘩になって投げたのがウイスキーの瓶だったらしくて。アホだよなあ。匂いでばれるだろ。
 噂をしていた生徒はそう言って呆れたように笑っていたが、梅野は目の前が真っ暗になったような気分だった。そもそも、なぜ二人が同室なのだ。
 どうりで、新学期になってから古柴からの夜の呼び出しがなかったわけだ。部屋には高居がいるし、喧嘩の内容を漏れ聞いた感じでも、高居が古柴の夜間外出を咎めたところから喧嘩が始まったことがわかった。
 高居が自分を古柴から守るために同室になった――。
 そう考えるのは穿ちすぎだろう。だが、古柴の夜の呼び出しを、高居が止めてくれたことは確かだった。
 結果、飲酒がばれて一週間の謹慎なんて――。
 図書館についたところで、梅野は深く何度か深呼吸をした。図書館は静かに。ここは司書の先生のお城である。騒いだら、問答無用で追い出されてしまう。
 ゆっくりと扉を開けて、部屋中を見渡す。まだ少し荒い息を整えながら、本棚の間などを探す。一階にはいないようだったので、梅野は階段を昇った。
 二階の奥に、高居はいた。既に手に何冊か本を持っている。それを読んで、飲酒がいかに身体に悪いか、レポートを提出しなければいけないはずだった。
「高居」
 声を掛けると、高居は少し驚いた顔をして振り向いた。
「梅野? どうした?」
 どうしたって、と叫んでしまいそうになったのを押さえて、梅野は口を開いた。
「高居、謹慎になったって聞いて」
「ああ。まあ、無茶やってたから。自業自得だよ」
 棚から一冊本を取り出して、ぱらぱらとめくる。顔色があまり良くない。
「だいたい、なんで高居が古柴と同室なんだよ」
「くじ運、悪いよな」
 お互いにだけど、と笑う。梅野はその横顔をじっと見つめた。少し、やつれた気もする。
 高居は後ろの机に本を置いて、棚の一番上まで手を伸ばした。
「眠れてるのか?」
 問い掛けると、高居は取り出しかけた本を戻して、苦笑した。
「毛布も布団も掛けてくれる人間がいないから、ベッドに転がってるよ、最近は」
 眠っている、とは高居は言わなかった。授業中の様子を見ていても、まともに寝ているようには見えなかった。ときどき、じっと動かずに寝ているときがある。
 梅野は心配で堪らない気持ちになった。その状態で、今度は謹慎だ。全寮制ということもあって、謹慎の場合、昼間は寮監のところでひたすら課題をこなすことになる。
 高居は再び本を取り出した。梅野は手を伸ばして、その本を掴んだ。二人の手が、空中で止まる。高居がようやく、梅野を真っ直ぐに見た。
「なんで、古柴と喧嘩になったんだ?」
「大したことじゃない。俺がどこか別の部屋に泊まるか、古柴が夜中外出するのを見逃すか。そんな馬鹿なこと言うから、喧嘩になっただけだ。もちろん、俺もそんな偉そうなこと言える立場じゃなかったけどな。夜中に酒飲んでんだから」
「それで、ウイスキーの瓶……」
「投げたのは俺だけどな。飲酒喫煙のことは黙っててやるから、って言うから」
 自ら、ばれるようなことをしたのか。梅野はため息を吐くしかなかった。
「馬鹿だな」
 そう言うと、高居が自嘲の笑みを浮かべた。
「ああ、馬鹿だと思う」
 本を取りげられて、手だけが宙に残った。その手首を、高居がそっと握ってきた。周りには、誰も居ない。
「――大馬鹿だって、思うよ」
 こてりと額を肩に預けられて、梅野は身体を硬直させた。「少しだけ、このまま……」と呟くように言われて、身体の力を抜く。
 こんなことでいいなら、いくらでも肩を貸してあげるのに。本当は、毛布を掛けに行ってあげたい。全部知っているから、吐き出していいと言ってあげたい――。
 でも、決して、もう一度高居が走れるようにはならないのだ。
 梅野はゆっくり、目を閉じた。静寂と暗闇が、世界にたった二人だけでいるような錯覚を起こさせた。



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