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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
06
それからのことを、俺はあまり覚えていない。気付いたら病院で、俺は先輩の手を握っていた。
「坂城、おまえも見てもらって来い」
軽く肩を叩かれて振り返ると、保健医の原澤さんがいた。少し呆れたように笑っている。
「でも……」
俺がそう呟くと、小さなため息が聞こえた。
「先生が、軽い脳震盪だから大丈夫って言ってただろう?おまえも落ちたんだから見てもらえ。ほら」
原澤さんはそう言って、俺を立たせた。
「それから、なんでもなかったら学校に帰るように」
「でもっ」
「うるさいよ。病院なんだから静かに」
原澤さんは、飄々とした風貌で、それに見合った食えない性格をしている。男子校の保健医なんてそうでなければ勤まらないのかもしれないが、特に世話になる運動部の間では、慕われてもいたが恐れられてもいた。逆らうことなど、無理だとわかっている。
「あ、ほら。深山が起きちゃった」
その言葉に先輩の顔を見ると、ゆっくりと目を開いた。
「先輩……?」
俺が恐る恐る声を掛けると、目が合う。それから、ぱちぱちと目を瞬かせた。状況が良く飲み込めないのだろう。
「俺が階段から落ちて先輩巻き込んで……覚えてます?」
俺がそう言うと、ああ……、とため息のような声が聞こえた。
「おまえ、平気?」
「俺は全然!それより先輩の方が」
こんな状況でなんだって他人の心配をするのだ、この人は。
「坂城、静かにしろって。ほら、先生のところ行って、深山が目を覚ましたって言って来い。ついでにおまえも診てもらえよ」
原澤さんが俺の襟元を軽く掴んだ。俺は仕方なく頷くと、病室を出た。それから医者のところに行って一通りの検査を受けた。頭はなんともないが、不運なことに足を少し捻っていた。俺はそんな大変なことに、気が動転していて全然気付かなかった。
まあ、二三日で治るだろうとのことだから幸運だとも言えるだろう。
一応と出された湿布を貰っていると、原澤さんが来た。
「なんだ、足やったのか」
俺が陸上をやっていると知っている原澤さんが必要以上に顔を顰めた。
「ちょっと捻っただけです。二三日で治るって」
「でも、予選近いだろ?」
「大丈夫ですよ、二三日ぐらい。その間は上半身鍛えるし」
本当は、一日でも走れなくなるのは痛い。それに、今の俺にとっては精神的にきつかった。休むなど、怖すぎる。
だから、騒ぎにはしたくなかった。少し様子を見て、走れるようなら今日の放課後だって走ろうと思っていた。今は歩くと少し痛い気もするが、さっきまで、痛みだって感じていなかったのだ。
「こと、大きくしたくないから、内緒にしてくださいね」
俺がそう言うと、原澤さんはじっと俺を見てから、ため息を吐いた。
「このまま大人しく帰るならな」
ほら、と促されて、俺は抗議の声をあげた。
「先輩は?」
「今日一日は様子見で入院。ま、明日には退院できるだろ」
「一人で?」
「あのな、深山は子供じゃないんだ。それにここの先生は良く知ってるし、完全介護だから泊まれるわけでもない。俺も学校を抜けるわけにはいかないしな」
原澤さんはそう言って、動こうとしない俺の腕を掴んだ。
「深山だってそれはわかってて、俺に帰れって言ったぞ?」
さすが寮長だよな、と感心している原澤さんを睨みつつも、俺は観念して歩き出した。
かなり、後ろ髪はひかれつつ。
本当に、怖かったのだ。あのまま、先輩の目が開かないかもしれないと思ったときは。穏やかな声や、柔らかい笑顔や、悪戯な目を、失うかもしれないと思ったら。
怖くて怖くて、仕方がなかったのだ。
学校に着いたときには授業などとっくに終わっていて、俺は寮に帰るようにと原澤さんに言われたが、部活にだけは顔を出して置きたいと断った。俺から言っておく、と言われたが、足のことを言われたら困る。
「おまえ、無理するなよ。そんなことで余計に悪くする方が馬鹿だってわかってるよな?」
原澤さんは俺が考えていることなどわかっているのか、そう怒ったような顔をした。結局、原澤さんも生徒たちが心配で仕方がないのだろうな、とこういうときにわかる。
「わかってますって。今日は落ちたショックもあるから、運動は駄目だって病院の先生にも言われたし」
俺がそう言うと、原澤さんも安心したのかいつものにやりとした人の悪い笑みを見せた。
「石神と高居を泣かせるなよ」
それから、そんなことを言う。
「そんな恐れ多いことできません」
俺はにっこり笑ってそう答えながら、内心はため息で一杯だった。
部活に顔を出して、先生と先輩になんでもなかったことを報告して、とりあえず今日だけは休め、と俺が言う前から先生にも言われ、そのまま俺は寮に向かった。東郷たちはどうやら部対抗マラソンの最中らしく、姿が見えなかった。それは他の部も一緒のことで、俺はその隙にと寮に帰った。
部屋に入るまでも、こそこそと人目を憚るようにしていた俺はその馬鹿馬鹿しさに苦笑しつつ、部屋に入ってから盛大なため息を吐いた。
昼休みのことが知られていないとは思えない。好奇心旺盛な生徒たちから質問攻めに合うことはわかっている。でも、今日はとりあえず勘弁して欲しかった。
同室の鼎もそれはわかってくれたのか、部から帰ってきても俺の心配と深山先輩の様子を少し聞いただけで、あとは何も言ってこなかった。食堂に行くのに気が進まない俺に付き合って、インスタントラーメンなんて侘しい食事も一緒にしてくれた。
明日は覚悟をしなければならないな、と俺は思いながら眠った。たくさんのことが一度に覆い被さってきて、一体どうしたらいいのだろう、とどうしようもないことを考えていて、なかなか眠れなかった。
翌朝、朝練に出た俺は思ったより足の具合が悪いことに気付いた。昨晩湿布もしたのだが、走るとさすがに痛い。昨日の今日だからと朝練も軽く済ませたのだが、俺はため息を隠せなかった。朝は高居先輩は出てこない。そこまでしてもらうのはさすがに気が引けるからと、俺が必死に断った成果だった。そのことに今更ながらほっとした。
東郷たちの何か言いたげな視線はずっと感じていたが、俺はそれを無視して早めに練習を切り上げると、教室に向かった。軽い練習の途中から哲平が来ていて、教室まで一緒に行く。どうやら心配してくれているらしい。テニス部の朝練があるはずの鼎も、一緒にいた。
「噂はどうなってんの?」
守られるように挟まれて歩いていた俺から話を切り出すと、哲平が言い淀んだのがわかった。
「その前に、おまえから説明しろよ」
鼎に言われて、俺は昨日のことを簡単に説明した。
「そう言えば、あのぶつかってきたのは誰だったんだ?」
「1Lの名倉。えらい落ち込んでて大変だったらしいぞ」
「西か……」
その名倉は昨日のうちに俺のところに謝りに行きたいと言っていたらしいのだが、本人も興奮しているし、俺も疲れているだろうからと寮長に宥められていたらしい。さすがに寮長だ。
「運悪いよなあ」
哲平の言葉に、俺も頷いた。その一言に尽きると思う。みんながちょっと気をつけていたら、なんて後だから言えることだ。その上、名倉がぶつかったのが俺なのも、その下に深山先輩がいたのも、俺が東といらぬ確執を持っているのも、名倉が西なのも。みんな、運の一言に負わせてしまいたい。
「で?噂ではどうなってんの?」
玄関口で靴を履き替えながらそう聞くと、「おまえが不注意で階段から落ちて、深山寮長を巻き込んだってことになってるけど、反論は?」と言う声が降って来た。昨日東郷と一緒に声を掛けて来た二年の一人だ。後ろから、まだ朝練をしているはずの東郷も顔を出した。
「噂にしては、大筋で合ってるな」
俺がそう言うと、哲平に馬鹿か、と頭を叩かれた。
「おまえの不注意じゃないだろ。それに、それには尾ひれがついてるんだよ」
「尾ひれ?」
「おまえが深山先輩にしつこく付きまとった挙句だってな」
それはかなり事実とは違うな、と思いながら、でもそう言ったら余計にこいつらを怒らせるんじゃないだろうか、と俺は思った。
「それで?おまえらはどうしたいわけ?」
俺は反論する気もなくそう言うと、東郷がずっと前に出てきた。
「昼休み、百で対決だ。俺が勝ったら、深山先輩からも高居先輩からも手を引け」
どっちも難しい問題だ。なぜなら俺から引っ付いているわけではない。
「それ、先輩に言えよ。噂は知らないけど、別に俺から付きまとってるわけじゃない。深山先輩も、高居先輩も。大体、高居先輩はコーチをしてくれてるだけだ」
「だけだって?」
東郷がすごい目で睨んできた。こいつ、実は本気で高居先輩が好きなんだろうか、とこんなときになって気付いた。
「ちょっと待って下さいっ」
俺がどうしたらいいのかと思っていると、階段から小柄な生徒が駆け下りてきた。その姿に見覚えがあって、ああ名倉か、と俺は呟いた。あの小さいのに吹っ飛ばされたのかと思うと、ちょっと情けない。
「坂城先輩は別に悪くないんです」
階段を一段飛びに駆け下りるということをやってのけて、名倉は俺たちの前に転がり出た。必死さに、こいつは本当に悪いと思ってるんだろうなあ、と思いながら、それでもこのままでは厄介なことになる、と俺は名倉を捕まえて口を塞いだ。突然のことにびっくりして、名倉がもがく。
「いいんだよ。おまえも偶々巻き込まれたみたいなもんなんだから。余計なこと言うなよ」
小さく囁くと、納得いかないのか、抵抗が激しくなる。
「わかった、走ればいいんだろ。昼休みな。もちろん飯の前だろ?」
俺が口早にそう言うと、東郷たちは頷いて、ちらりと名倉を見ながら立ち去った。
東郷にも、わかっているのかもしれない、と俺はそれを見ながら思った。
昨日のことはただのきっかけで、ただ、何か決着をつけたいだけなのだと。
基本的に、対決をするときは学年総代の許可がいる。それでも、俺たちが菅野に何も言わなかったのは、それが認められないだろうとわかっていたからだ。哲平や鼎もかなり反対していたが、俺の「これですっきりするからいいだろ」という態度に最後は諦めてくれた。大体、こんな健全な対決で済ませられるうちに済ませたほうがいい。バカバカしいほど爽やかと言うか、正しい高校生のけんかじゃないか。
「そうだけど。でもなんか納得できねー」
哲平がそう言うのもわかる。でも、きっと東郷も同じ気持ちなのだ。競技会前にナーバスにもなっているのだろう。
「で?それに付き合うって?人が良すぎるよ、おまえ」
呆れたような哲平に、俺は笑っただけだ。
俺にも良くわからないが、でも、何かきっかけが欲しいのは俺も一緒だ。記録のでない苛々と、昨日の不安と。そういうものを吹っ切る何か。
お互い口裏を合わせるように対決のことは何も言わなかったのに、昼休みには思ったよりギャラリーがいた。これではすぐに菅野や先輩達に知られてしまうだろう。菅野の許可もなければ、陸上部の先輩達にも話を通していないのは少しまずい。俺たちは急いでスタートラインに立った。
こんな風に走ったことはない、と俺はふいに気付いた。何かを賭けて走ったことなどない。いつも、走るそのことだけが目的だった。
走ると言うことを冒涜するようなものだ、とそのときになってようやくわかったが、もう後には引けなかった。
そして。
走り出した途端に、俺は足のことを思い出した。それでもそれを無視して、俺はただがむしゃらに走った。
情けなくて、哀しくて。泣きたいような気持ちで、俺は走った。
「馬鹿やろうっ」
ゴールした途端、負けたとわかった。ちらりと見えた背中に、悔しさが込み上げた。でも、それより何より、ひどく怒った顔をした高居先輩の顔が目の前にあってびっくりした。そして、その恐ろしい顔から逃げようとして、がくりと足が落ちたことにもう一度びっくりした。
「その足で何やってんだっ」
先輩は俺を支えながら怒っていた。そのときになって、俺はようやく足首が熱いことに気付いた。感覚がおかしくなったのではないか、というくらい熱くて、それ以外の感覚がない。
「やば……」
呟いた声が聞こえたのか、高居先輩が俺の胸倉を掴みあげた。殴られる、と思ったとき、「高居っ」という深山先輩の声が聞こえた。
「坂城、足、どうかしたのか……」
走ってきたのか、ひどく荒い息遣いをしている。昨日意識を失った人がそんなことして平気だろうか、と俺はこんな状況なのにひどく心配になった。俺は高居先輩の肩に手を置かせてもらいながらもなんとか立った。
「なんでもないです……それより、先輩こそそんな走ったりして平気なんですか?」
「なんでもないって、でも」
叫んで近寄ってきた深山先輩を遮るように、高居先輩がくるりと俺に背を向けて俺の前に坐った。
「背中に乗れ」
「先輩?」
「早くしろっ」
ひどく苛々した声に、俺は逆らえずにその背に負ぶってもらった。俺は少し深山先輩が気になって振り返ったが、先輩は呆然と立っていた。それから、先輩は無言で俺を背負って歩き出した。
「すみません……」
俺は泣きたくなりながらぽつりと呟いた。馬鹿なことをした、と今更後悔する。
「何に謝ってるんだ」
ぼそりと先輩が言う。俺はそれにまた、謝ってしまう。
「だから、何に対して謝ってるんだ?」
静かな声が、背中から響いた。俺は悔しくて情けなくて、その背に顔を押し付けた。
「……走れない俺への、同情、か」
その声に、はっと顔を上げる。後ろからでは、その先輩の顔は見えない。ただ、真っ直ぐにその顔が前を見ているのはわかった。
「違います」
俺は震える声で、そう言った。
「違います。ただ、あんな風に走った自分が情けなくて悔しくて。あんな気持ちで走ったのが、哀しくって……」
違う、と走りながら俺は思っていた。俺はこんな風に走るために、練習してきたんじゃない。こんなことで勝つために、走りたいんじゃない。そう思いながら、走っていた。
先輩はそれから何も言わずに、俺を原澤さんのところに連れて行った。原澤さんは呆れた顔で俺を見て、ひどく気まずかった。
「坂城がこんな馬鹿だったとは」
「うう、すみません」
「医者行かないと駄目だな。どうする、高居?」
「俺の行きつけの所に連れてきます。駅からタクシー乗っても遠くないし」
俺の意見は全くなく、勝手にそう決まって、俺は昨日に続けて午後の授業をサボることになった。医者へは、ちょうど手が空いていた顧問の石神さんが連れて行ってくれることになった。ただ、ひどく怒っていて、俺は車の中でひたすら小さくなっていた。高居先輩もついてくると言ったのだが、石神さんが一緒だと言うことでそれは却下になった。でも、こんなことなら先輩がいてくれた方が良かった気がしていた。
「高居が走れないことは、知ってるんだな」
帰りの車の中で、石神さんがふとそう言った。俺は隣の助手席で、小さく頷いた。ようやく怒りも収まったのか、今はそれほど怖い雰囲気を漂わせていない。
「病院から出てくるのを偶然見たことがあって。なんとなく、走れないんだなって」
車窓から外を見ると、木々の隙間から夕暮れに染まる街が見えた。進む道の先は暗く、どんどんとそこから離れて行く自分たちが不思議だった。それでも、この先にあるのは自分の帰る場所なのだと、知っていることが。
「詳しいことは俺も知らないんだ。高居の奴、そういうの嫌いだろ?話してくれないんだ。まあ、原澤には話してあるみたいだけどな」
そういうところはあいつに敵わない、と悔しそうな石神さんが可笑しかった。石神さんもまた、生徒を大事に思っているのだろう。
「心臓の病気らしくてな。激しい運動は駄目だと言われたらしい。昔からのことで、いつかはと覚悟していたらしいが……もう少し待ってくれたらって、一度だけ零したことがあった」
三年の春。最後のインハイ前の引退。それがどれだけ悔しいか。記録保持者になったこともある先輩だから、余計だろう。
「高居は別に、おまえに自分の夢を叶えてもらおうとか、思ってるわけじゃないんだぞ」
黙ってしまった俺に、石神さんはじっと前を見たままそう言った。
「ただ、おまえを見てると歯痒いんだ。もっと走れるのにって。それに、どうやら指導者の方に進みたいみたいだからな。丁度良いだろ」
「もっと走れる、ですか」
「走れるんだよ。なんだ?そう思ってないのか?」
もっと、もっと。そう思ってなければ速くなんて走れないぞ、と石神さんは笑った。そうだな、と思う。
「おまえ、自分のタイムわかるか?」
石神さんの言葉の意味がわからず、俺は首を傾げて隣を見た。
「走ってて、自分のタイムがどれ位かわかるか?」
「大体は……今は見失っちゃってますけど」
そうだ。今は走っても少しもわからない。わからないから怖い。
「高居はコンマゼロイチまでわかるって言ってたな」
聞いたことがある。トップのスプリンターになると、走っていて体内でカウントが出来るのだ。それも、百分の一秒まで。
「俺はそこまでは……コンマゼロがなんとか時々って感じです」
ふうん、と石神さんが笑った。それでも俺からしたらすごいけど、と顧問らしからぬことを言う。もともと、石神さんは長距離走者だ。
「そう言う話聞くと、なんか走ることに選ばれた奴らなんだなあって思うよ」
高居には言えないけどな、と石神さんは穏やかな笑みのまま言った。
「それで、そう言う奴らが、きちんと走ることを選ぶのがまたすごいって思うんだ。相思相愛って言うかな」
そう笑う石神さんは、まるで少年のようだった。
相思相愛。
確かに、俺は走ることが好きだった。陸上が俺を好いてくれているかどうかはわからなかったが、例えば高居先輩なんかは本当にその典型だっただろう。
だから今でも、走れないことは辛いだろうに、陸上から離れないでいる。
俺も、もう一度走ろうと思った。好きだったあの頃を思い出して、走ろうと。そして、もう二度と、今日のように走ったりはしない。陸上に、愛想がつかされるのは嫌だから。
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