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la vison 第二話

06
 ぼんやりと写真を見ている周は、いつ見ても彼自身が鑑賞物になっている気がしてならない。ギャラリーに入ってすぐ、目が釘付けられるのは写真にではなく、周になのだ。普段は人目を惹くほどの容姿をしているわけでもないのに、不思議だ、と指月はいつも思う。その、雰囲気のようなものに、ふらりと知らず、惹き付けられてしまうのだ。
 ブラックジーンズに黒の木綿の開襟シャツを着ている周は、その写真の中に上手く嵌っていた。廃墟の中、錆び付いた機械の中、微かな生きものの匂いをさせている。
「ああ、お帰りなさい。穂積さんが来てたんですって?」
 ふっと気付いた周が振り返ったときには、指月は自分が随分長く周を見ていたことに気付いて、苦笑した。どうしたら、この生きものを手に入れられるのか、知りたいと考えていた。
「ああ。毎月、月初めには来てくれるからな。今回は偵察も兼ねてるんじゃないかと思ったが」
 こつこつと、静かなギャラリーに足音をさせながら、指月は周に近寄った。穂積の、柔らかい顔を思い出す。周のことになると、切なく、でも穏やかで柔らかい表情になる穂積のことを、最初は驚きもしたが、今ではきっと羨ましく思っている。
 そう、羨ましいのだ。指月が欲しいものの何もかもを持っている、穂積が。
「偵察なら、毎回でしょう?」
 無駄なことはしないのが穂積だ。偵察、という言葉は悪いかもしれないが、こうして指月のところに来ては、新たな動向を探ってみたり、インスピレーションを受けてみたりしているのだろう。穂積は決して、指月の仕事に関しては、悪く言ったことはない。
 本当は、そのことを、周は軽く嫉妬していた。嫉妬できるほど、周は指月にも、穂積にも近づけていないとわかっていたが、それでも、穂積が気にする指月、という存在を、周だって気にしないわけではない。今回の写真家のセレクションにも、思わず唸ってしまった。冬に似つかわしい、そして、階下のショップとも見事にコラボレートしている写真は、今では周の気にも入っている。
 くすりと笑う周は、穂積のことになるといつも目が切ない。笑っていても、穏やかでも、切ない目をしている。どこかで見た、と思い出していた指月は、先ほどの穂積と同じ目なのだ、と思い当たった。
「少なくとも、店員の偵察は今回が初めてだと思うけどね。……周も、信用されてないな」
 少し意地悪く指月がそう言うと、周はくすくすと笑っていた。そう言うところが、わからない、と指月は思う。
「別に、信用されなくてもいいんですけどね」
 さらには、そんなことまで言う。
「どうして?」
「あの穂積さんに心配されるなら、嬉しいでしょう?」
 笑ったままそう言う周に、まいったな、と指月は思った。周は、自分に自信があるのだ。穂積を、決して裏切らないと。そのくせ、穂積との未来から、不安を拭い去れないでいる。
「じゃあ、俺が信用を裏切ろうかな」
 ふと指月がそう呟くと、周が目を眇めた。そのまま、指月はその両肩をぐっと掴むと、写真と写真の間の壁に押し付けた。
「オーナー」
「周は、絶対に名前で呼んでくれないな。せめて苗字でいいのに」
 誰もいないよ、と耳元で囁くと、周が息を呑んだのが指月にはわかった。いつまでも、からかうだけだと思っているのだろうか、とその甘さを指月は笑う。
「周にその気がなくても、穂積を裏切るなんて簡単だろう?」
「こんなのは、裏切りにならない」
「本気でそう思ってる?」
 甘いなあ、と指月が言って、周に口付ける。それを避けようと顔を逸らされて、指月が肩から手を外してその顔を押さえつけようとした途端、周が思い切りその指月を突き飛ばした。
「こんなのは、あなたが傷つくだけだ」
「優しいなあ、周は。おまえも、穂積も、傷つくのに」
 座り込んで、自嘲の笑みを浮かべる指月に、周はきっぱりと言う。
「俺たちは、互いに慰めればいい」
 その言い様に、指月は一瞬呆然としてから、くくっと笑い始めた。
 馬鹿みたいだ、と思う。
 壊れないものが、この世にあるなんて、思っても見なかった。
 今なら、はっきりとわかる。
 周のこの真っ直ぐさと、強さを、穂積は大事にしているのだ。
「オーナー、いえ、指月さん」
 笑いながら、泣きそうだ、と思っていた指月は、周のその声に顔を上げた。周は少しだけ、困ったような表情をしながら、一瞬何かを決心するような顔をした。
「俺は、あなたを慰めることも出来なければ、あなたのパートナーにもなれない。でも、もしあなたがそれでいいというのなら、本当のパートナーが見つかるまで、俺は修行させてもらいます。あなたの、パートナー候補として」
「周……?」
「こんなのは、ずるいってわかってますけど。若造の、こんな我侭でも良ければ」
 周がそう笑うのを見て、指月は声を出さずに口元だけで笑いながら、首を何度か横に振った。敵わないなあ、と思う。
「いいよ。そんな我侭は大歓迎だ」
 周の言う、本当のパートナーなんて、いるのかわからない。でもそれなら、周がパートナーになればいいだけの話だ。とりあえずでも、今は誰かの腕が欲しいのだと、指月は自覚していた。
 あの外村も、どこかに行くと言う。それもまた、指月を孤独に追い立てていた。それを周が知っているのか、知らないのか。そんなことは、どうでも良かった。
 立ち上がって、指月は周に握手を求めた。これでもう、周とは仕事のパートナー以外の関係は持たない、と約束するようなものだった。でも、指月はそれでも構わなかった。そしてそれを、周はきっと最初からわかっていたのだ。
 よろしくお願いします、と周は頭を下げ、それから「もう帰ります」とくるりと背を向けた。その背に指月は、一つだけ聞きたい、と声をかけた。
「本当に狙っているのは、穂積の隣か?」
 その問いに、周はゆっくりと振り返った。
「仕事の、というのなら、違います。俺は、穂積さんのパートナーにもならない。私生活の、というのなら、俺はもう誰にもその座を譲る気はありません」
 にやり、と笑った表情とは対照的に、その目は少しだけ必死さを醸し出していて、指月はやれやれとため息を吐いていた。


 静まり返って重苦しい雰囲気は、決して周の想像したようなものではなかった。軽い嫉妬くらいはしてくれるかもしれないと思ったが、こんな風に緊迫した空気になるなんて。
「穂積さん」
 周が指月のパートナー候補として修行する、と報告してから、黙り込んだままの穂積に、声を掛けた。ソファーに坐って、指を前で組んだまま、テーブルの一点を睨んだままだった穂積は、深く息を吸い込みながらゆっくりと目を閉じた。
 自分が何を言い出すかわからない怖さがあった。その感情だけで、何か大切なものを壊してしまうのではないか、という怖さだ。咄嗟に黙ったのは、その自衛策のようなものだった。
「何も、そんなに考えなくても。オーナーの本当のパートナーが見つかるまでの話だよ?それも、修行の身だしね」
 その、指月の本当のパートナー、というのは一体いるのか。どうして周はそれほど確信を持った言い方をするのだろう、と穂積は思う。そんなことはわからない。そして、指月は周を手に入れるかもしれないのだ。
 駄目だ、と穂積は唇をきつく噛んだ。指月の隣で、支えるように立つなんて、許せないと思った。でもそれと同時に、それは決して自分が口を出せることでもない、とわかっていた。
 ひどく客観的に見れば、周にとってこれほどいい修行の場所はないだろう。穂積も、指月の感性を買っているし、その手腕にも唸らされるときがある。だから、自分がその周の可能性を潰すべきではないのだ。
「何を心配してるんだよ?」
 周が、少し呆れたように言った。指月はただ、今は誰かの腕が欲しいだけだ。でも、周はその腕を完全に貸す気はない。それが偽物であることは、誰よりも指月がすぐに気付くはずだからだ。
「心配なのか、不安なのか……怖いのか」
 穂積の声に、周がため息をつきつつ、傍に近寄った。
「それは、いつも俺のほうなのに」
 呟くと、穂積の顔がようやく上がった。目が合って、その目に、穂積は一層追い詰められる。
 わかっている。周がどれだけ自分を大事に思ってくれているのか。でもだからこそ、怖かった。そこに甘んじて、全てを壊してしまいそうになる自分が。
「周……おまえは何が怖い?」
「穂積さんを失うのが」
 周は即座にそう言って、小さく瞬いた。
「穂積さんは?何が怖い?」
「俺もおまえを失うのは怖い。でも、それ以上に」
 耐え切れないとでも言うように、穂積の目が伏せられた。今はその真っ直ぐな周の目が、怖い。
「それ以上に、おまえの未来を潰すのが怖い。おまえの自由を奪うのが―――怖い」
 そう言った穂積に、周はわずかに目を見開いた。
「俺の独占欲とか、そんな汚い感情もある。その上、俺がいることでおまえの立場だって悪くなるときがあるだろう」
 例えば、色眼鏡で見られることもあるはずだ。そう言う全てから守ってやれるほど、穂積の力は大きくも強くもない。中途半端な今の力は、かえって邪魔なだけなのだ。
「そんなの……お互い様じゃないのか」
「おまえの道は、始まったばかりだろう?」
 そう、穂積のように、中途半端で僅かだとしても持っている、実力も経験もない。その分、周はずっと弱い。標的にするなら、穂積より周だ。
 周は呆然とそこに立っていた。部屋の頼りない光の中で、あまりに危なげな顔をして。
「重い……?」
 呟かれた言葉が小さくて、穂積は聞き返した。
「俺、穂積さんにとって重荷?」
 優しさは、身に沁みている。いつだって、この人は自分を支えてくれたと周は思っている。でも。
 自分は、一体この人を支えられたのだろうか。ただの、一瞬でも。
 周の目が揺れたのがわかった。そんな風に頼りなさそうに揺れてもなお。
 穂積は自分がどうしたら、周を縛らずに守れるのかわからなかった。
 あのときから、周の目は変わらない。真っ直ぐで、強くて、貪欲で。それが、穂積には何より大切だったのだ。
「悪いが、今日は帰ってくれ」
 穂積は頭を振りながら、ようやくそれだけを言った。周が息を呑んだのがわかったが、それ以上、何も言うことは出来なかった。


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