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満ちてゆく月欠けてゆく月

05
 ピエールの死が、こんな風に自分に降りかかってくるとは思わなかった、というのがレオーネの偽らざる気持ちだった。自分には、フェルディナンドのように工房の師として弟子を何十人も育てる技量も度量もなく、このまま注文された絵だけを描いて暮らしていければいいと思っていた。それが、友人のロレンツォの当主就任を機に、戻って来いといわれるとは。
 銀行家にはもっと向いていないと思っているレオーネは、ロレンツォの提案を受け入れるしかなかった。すなわち、独立して、メディチのお抱え画家になる。そうなれば、父も無理にレオーネを引き戻そうとはしない。
 画家としての最初の師匠、ジュリオが亡くなったことも大きかった。生前から、その息子、ルチアーノの世話を頼まれていたレオーネは、やはり独立して弟子としてルチアーノを引き取るべきだとわかっていたからだ。どれだけ名高い工房だとしても、何の面識もないルチアーノを急にフェルディナンドの工房に入れるわけにもいかない。
 春の生温かい空気に溶かすように、レオーネは小さく溜息を吐いた。
 もう、会わないかもしれない。
 同じ街の中に工房を借りるのに、なぜかレオーネはそう思った。独立してすぐ後に、ローマに呼ばれている所為もあったかもしれない。それでも、会う機会はいくらでもあるはずだ。それなのに。
 今だけだ、と思ったら、その細い腕を引き寄せていた。真っ直ぐに睨む目や、ふいに見せる柔らかい笑顔や、耐えて泣く姿が、ただ愛しいと思った。それは、年下の弟子達に感じる、まるで弟のような愛しさと同じだと思っていた。
 ふうっと、今度は深い溜息を吐き出した。
 フェルディナンドはもしかしたらまだ、手を出していないのかもしれない。あの幼さを残すルカを、大事にしていたのかもしれない。そこに、自分が先に手を出したとなると。酔いが覚めてから、すっと背中に冷や汗が流れるのがわかった。
 考えると頭の痛い問題で、それれもまた、独立を促すものとなっていた。少なくともフェルディナンドは、恩人である。独立する資金も気もなかった、それでいて厄介な自分を、引き取ってくれたのだから。
 ルカはあの時、なぜ抵抗しなかったのだろう。
 引き寄せられるようにキスをしたのは、ルカも同じだった。
 それは、自分の思い違いだろうか。
 確かめる術のないそんなことを、レオーネは先刻からずっと考えている。
 確かめたからといって、どうするのか、自分にはわからなかった。思い違いであっても無くても、ルカを手に入れることはできないのだ。フェルディナンドが本格的に絵をやめたら、ルカを手離すはずはなく、独立して仕事を始めるまで、ルカはここの弟子でいるしかない。フェルディナンドほどの実力者なら、引き止めておくことも簡単なことだ。
 そこまで考えて、レオーネは自分のその考えを笑った。良いと言われたら、ルカを連れ去るつもりでもあるのか。
 今なら、はっきりとわかる。
 あれは酔いでも、街の熱気に煽られたのでもない。ただ、自分がルカを欲しかっただけだと。この腕の中に、抱き締めたかったのだと。


 あの夜の後、ルカは熱を出して寝込んでいた。街のお祭り騒ぎに、気分が悪いと帰ったことから、本当に体調を崩したのだとみんなが簡単に信じてくれたことが、ルカとレオーネには幸いした。
 抱かれたことを、ルカはどこか夢のように覚えている。掠れたように自分の名を呼ぶレオーネの声も、優しく自分の肌の上を滑ったその手も、はっきりと思い出せるのに。
 身体を引き裂かれるような痛みの中で、ルカは最後には意識を飛ばしてしまっていた。気が付いたときには自分のベッドの上で、あれは夢だったのだと一瞬、本気で思った。ただ、身体の痛みだけが、現実だったのだと訴えているだけで。
 レオーネがなぜ自分を抱いたのか、ルカにはわからなかった。口付けたのは自分だったし、酔っていたレオーネは、そのルカに流されたのかもしれなかった。密やかに、レオーネが男も抱くと言うことは、ルカは知っていた。だから、余計だったのかもしれない。
 小さくため息を吐いたルカに、ウーゴが心配そうな顔を向けた。食べにくいだろうからと、林檎を小さく切っていた手を止める。
「まだ辛そうだな。本当に、医者に見せなくて良いのか?」
「大丈夫だって。そんなことにお金使われたら、かえって具合悪くなるから」
 そう微笑むルカは、いつにまして儚く、影が薄いようにウーゴには見えた。最初は生意気な奴、としか思っていなかったのに、あの涙にやられたのだとウーゴは思う。そして、泣きながらも、自分のしたことは自分で片付ける、と言ったルカは気高く、強かった。そのルカの憔悴振りは、ウーゴたち仲間が心配するには十分だった。
「そういえばさ」
 ぼんやりと、どこかまた知らないところに深く沈もうとしたルカに、ウーゴはわざと明るい声を上げた。それに、ルカがふいっと顔を上げて戻ってくる。
「レオーネの工房、決まったみたいだよ。川向こうだってさ」
 目下の工房中の関心事を、ウーゴは得意気に告げる。それに、ルカは微笑んで「そうなんだ」と頷いた。微笑まなければ、泣きそうだったからだ。
「エドとかさ、もう行きたいって煩くて。どうせならそこに弟子入りしたかったって言ってるんだぜ?」
 そんなこと言ったら先生に怒られるから言わないけどさ、とウーゴは続ける。
「全く、ルチアーノが羨ましいよ」
 さり気なく言われた名前に、ルカが首を傾げた。どこかで耳に挟んだような名の気がしたが、思い出せなかった。
「ほら、レオーネの最初のお師匠さんの息子だよ。そのお師匠さんが亡くなって、レオーネが弟子として引き取るんだってさ」
 その言葉に、今度はルカは笑うことが出来なかった。なんて羨ましいことだろう、と思った。
「レオーネは、そいつ以外はしばらく弟子は取らないって言ってるし。工房構えてすぐ、ローマに呼ばれてるしな」
「ローマに?」
「そ。教皇に大聖堂の一部の絵を頼まれたらしい」
 すげーよな、とウーゴは自分のことのように興奮した様子で話していたが、ルカは震える唇を抑えることに必死だった。
 もう、会えないだろう、とルカは思った。
 自分のこの思いは、レオーネの将来の邪魔になることはあっても助けになることはない。でも、レオーネに会ったら、自分はこの思いを止めることは出来ない。それならば、会わなければいい。
 結局、ルカはレオーネがフェルディナンドの工房から自分の工房に移るまで、レオーネに会うことはなかった。
 そして、そのルカたちの耳に、工房登録のとき、レオーネの隣にいたルチアーノの評判が聞こえてくるのは、そう遠いことではなかった。
 母親譲りの美しい顔と、理知的な目。すらりと立つ立ち姿も、大人に混じって萎縮するところなく、将来が楽しみだと。
 そのルチアーノを、レオーネが慈しむように、愛しそうに見ていたことも、噂で流れていた。
 そしてレオーネは、そのルチアーノを連れて、ローマに行くのだと言う。
 その噂を聞いて、ルカは一人、自分の部屋で泣いた。もう、遠いのだ。レオーネは、自分の手の届かないところに行ってしまった。
 おちびちゃん、と呼ばれた声も、ぽんっと置かれた温かい手も、もう記憶の中でしかわからない。
 あの夜の痛みでさえも、ルカにとっては、大切な思い出のようになってしまった。


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