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満ちてゆく月欠けてゆく月
06
フィレンチェより南に位置するローマの春は少しばかり早い。風に紛れて微かに甘い香りが漂って、レオーネはベッドを抜け出した。東の空はわずかにオレンジがかっており、日の出もそう遠くない時刻なのだとわかる。
窓を開けると、早朝のまだ冷たい風に、花の香りが一層強く香った。それを吸い込みながら、レオーネは見えるはずのない、遠い北の故郷の方角を見やった。
フィレンチェを離れて、もうすぐ一年が経とうとしていた。ローマの古臭い教皇政治と、同じ仕事をしている先輩達の鼻持ちなら無い態度に、いい加減レオーネはうんざりしていた。幸い、注文された絵はもう完成に近い。予定より早いが、それを仕上げたら帰ろう、とレオーネは自分に言い聞かせていた。
「レオーネ……?」
隣で寝ていたルチアーノが、目をこすりながらきょろきょろとレオーネを探した。それをくすりと笑いながら、レオーネは窓をぱたりと閉めた。
「寒かったか?悪いな」
そう言うと、ぼんやりとした顔のまま、ルチアーノは首を振る。それから、早いんですね、と言った。
「なんとなく起きただけだ。おまえはまだ寝てて良い」
「いえ、僕も起きます」
昨晩、遅くまで貪りあったのだ。抱かれる側のルチアーノの方が負担は大きいことは、レオーネもわかっている。それでも、ルチアーノは一つ伸びをすると、ばさりと布団を捲って床に降り立った。
ふらり、と一瞬揺れた身体を、でも、レオーネは支えようとはしなかった。それは、二人が抱き合うことになったときに決めたことだった。
―――誰かの、代わりでも良いんです。でも、そうして他の誰かを抱くのなら、僕を代わりにしてください。
ルチアーノの父、ジュリオの工房に居たときから、ルチアーノはレオーネに良く懐いていた。フィレンチェに残るために、他の工房に移ると言ったときには、泣いて止められた。
弟子として引き取ったとき、このことを考えなかったわけではない。でも、自分がルチアーノに対して、弟のような感情以上のものを感じることはない、とレオーネにはわかっていた。だから、こんな関係になることは避けようと決めていた。
それだというのに。
細く、華奢な身体も、幼さを少し残した顔も、年齢が近いせいなのか、ルカを思い出させた。そして、そんな風にレオーネが誰かを自分に見ていることをわかっていて、ルチアーノはレオーネを何度も誘った。始めは、それとわからないくらいさり気なく。次第に、大胆に。
教皇領のローマでは、絶対に危険な男色はしない、とレオーネは決めていて、夜毎に遊ぶのは女ばかりだった。それも、レオーネの満足感を削いでいたのかもしれない。
たった一度、抱いただけだ。でも、その肌の滑らかさも、甘い声も、快感に震える身体も、レオーネは全部覚えていた。
もう一度この腕に抱けたら、と何度も思う。
それは身体だけの問題ではない、とルチアーノに負けて初めて抱き合ったときにわかった。同じように、まだ瑞々しい肌を持つルチアーノを抱いても、ルカを抱きたいと言う渇望のようなものは、消えなかったからだ。
ひどいことをしている、という自覚はある。
ルチアーノが、ときどき、自分を責めるでもない、でも切なそうな瞳で見ていることも知っている。そして、それに答えることはできないことも。
フィレンチェに帰ったら、フェルディナンドの工房を訪ねないわけにはいかない。そこでルカに会えるかもしれない、とレオーネは期待をしつつも、怖がっていた。あの夜の後、二人は会っていない。寝込んだのは、自分の所為だとレオーネだってわかっている。
拒絶されるくらいなら、会わないほうがいいのかもしれないと思った。
工房の方が急に騒がしくなって、ルカはふっと顔を上げた。あまり気分が乗らないままに、手近な木の板にしていたのはほとんど落書きのようなものだった。構図を考えたいから、一人になりたいと部屋に篭っていたのだ。
「おーい、ルカ」
下から、ウーゴの大きな声が聞こえる。そんなに大声を出さなくても、とルカはいつも思うのだが、もう諦めているから、文句を言わずにひょいっと窓から下を覗いた。ウーゴが、降りて来い、と手招きをしている。
「なに?」
「いいから。珍しい人が来てるんだ」
珍しい人?とルカは首を傾げながら階段を下りた。正直、今日はあまり騒がしい中に身を置きたくない。
ほらほら、とジョルジョも出てきて腕を引っ張る。どうやら工房には、弟子達ほぼ全員が集まっているようだった。
「レオーネ」
呼ばれた名前に、ルカの手がびくりと震えた。ジョルジョに伝わったのではないかと内心冷や汗をかいたが、ジョルジョはそんなことより目の前のことが気になっているようだった。
レオーネはジョルジョの声に顔を上げて、一瞬目を見開いた。たった一年だ。でも、成長期のルカは想像より遥かに大人になっていた。幼さが消えて、洗練された顔と身体に、大人びた表情をしている。
美しいと、ただ言えるような、そんな姿になっていた。
「やあ、ルカか。久しぶりだな」
周りが煩い所為で、なんとか動揺を押し隠したレオーネは、そうにっこりと笑った。
「ずいぶん背が伸びたな。これじゃあもう、おちびちゃんとは呼べないな」
相変わらずのレオーネの軽口に、ルカもなんとか正気を保つ。
なぜか、もう会えないものだと決め付けていた。
なんど、焦がれてみても。
ただただ遠い、思い出となってしまったはずだった。
「もとから私はちびではないって言っていたでしょう?」
ルカがそうむっとしたように返したのに、レオーネが苦笑する。強気なのは変わっていない。
「でも、俺を思いっきり見上げてたのに」
な、と隣のエドアルドに振ると、エドアルドは笑いを堪えている。エドッとルカが睨むと、ジョルジョもウーゴも笑い出した。
もうみんなして、とルカは眉間に皺を寄せながらやはり笑いを堪えているレオーネを見た。
レオーネだって変わった、とルカは思った。独り立ちをして、弟子も取った所為か、ひどく落ち着いた雰囲気になっている。軽薄な笑顔は変わらないようだが、それさえ大人の魅力になっている。
諦めようと何度も思ったのに、こんな風になって帰ってくるのはずるい、とルカはそっとそのレオーネから視線を外した。
ふとその視界の先に、見慣れない顔を見つけた。ひっそりとレオーネの傍らに立っている、華奢な美しい顔立ちをした中性的な少年だった。少年なのか、青年なのか、その年齢は不祥だったが、すっと立つ立ち姿も美しい。
ああ彼が弟子のルチアーノなのだろう、とルカは挨拶変わりににっこりと笑った。目が合ったと思ったからだ。
しかし、それは目が合ったのではなく、睨まれていたのだと、ルカは後で思う。にこりともせず、ただ、じっと。
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