home モドル 01 02 03 04 05 06 * 08

シュレーディンガーの猫

07
 ぼんやりと、隣の部屋の明かりがドアから漏れていた。でも、その光の筋は二人が重なるベッドまでは届かない。薄暗闇の中、二人は互いの表情が見えないことに安心する。近づかなければ見えない、だから、近づかない。
 互いの顔が見えるのは、坂倉が響貴の首を締めているときだけだ。それも一瞬で、響貴の目は閉じられる。
 その夜、坂倉は珍しく女を連れ込まなかった。帰ってくるなり、目線だけで響貴を寝室へと促し、無言のまま抱いた。
「なぜ、逃げない」
 はじめて坂倉が口を開いたのは、響貴の首を締めているときだった。響貴は思わず目を開け、坂倉を見つめた。途端、首の手に力が入る。それに反応して、自分の中が伸縮したのが響貴には分かったが、それよりも、坂倉の問いが思考を占めていた。
 なぜ、そんなことを聞く?
 いまさら、そんなことを。
「逃げたくないなら、いいぜ。お前の望む通りにしてやるよ」
 坂倉はそう言いながら、響貴の首を掴んだまま引き上げた。手の力は緩められず、がくりと響貴の首が後ろへ垂れる。
 瞬間、殺されると思ったが、坂倉はそのまま響貴の首から手を離した。ばさりと、髪が白いシーツに散らばる。響貴の荒い息の下、その白い肢体が上下に揺れた。
 響貴の目には、恐怖の色がない。坂倉が、探している、その色が。
 坂倉はそのまま、響貴からずるりと身を剥がすと、ふらふらと隣の机に向かう。それから、その一番下の引出しを開け、中から何か取り出した。それを持ったまま、机の上のウイスキーを飲み干す。きついアルコールが、坂倉の胸を焼いた。もう許容量を超えるほどに飲んだはずなのに、まだ足りない。
 響貴は、動かずに呼吸だけを繰り返していた。坂倉が近寄ると視線は動かすが、そこに坂倉が映っているのか、わからない。それは、人を見る目ではない。そこに映っているものがあるのかさえ、分からない。坂倉は無言で、その両手を頭の上で縛り上げた。そしてその紐の先端を、ベッドに括りつける。響貴の目が、初めて問い掛けるように坂倉を捕らえた。
「これが、本当だろう?」
 坂倉はそう言うと、再び響貴を犯し始めた。
 手首に、ときどき縄が食い込む。
 響貴はその感触に、もう逃げられない自分を確認していた。
 ドアは閉められない。ドアの鍵はない。
 でも、もう逃げられない。
 ――もう、逃げなくていい。

 誘拐犯と人質という関係を、二人は取り戻した、と言うより、そんな芝居が始まったと言う感じだった。二人の主役が、そうとは知らずに。
 坂倉が家にいるときは、眠って食べるとき以外、ほとんど響貴を犯していた。響貴の意識が朦朧として、ほとんど反応していなくても、犯しつづける。時には薬を使って、無理やり反応だけさせる。そうかと思うと、全く触れずにいるときもある。響貴は手は縛られていたが、少し長めの紐で縛ってあるために、起き上がったりすることは出来た。だから日中は、ベッドの背もたれに寄り掛かって、ぼんやりとしていることが多かった。
 坂倉の帰ってきた音がする。
 テレビをつけたのが分かる。
 シャワーを浴びる音がして、そのまま静寂が訪れる。
 そう言うときは、坂倉は寝室を一切開けない。響貴を、見ることはない。響貴には、そのほうが辛かった。ずっと、睨みつけるように視線がドアに向いている。気付くと、そうやって待っていた。じっと。坂倉を。
 さんざんに犯して、坂倉が響貴と一緒に眠ることがある。その腕の温もりに、響貴は泣きそうになる。思わず摺り寄せる身体を、柔らかく抱かれる。それが無意識とわかっていても、響貴は、泣きたくなる。
 その腕だけだった。
 その腕だけが、温かい。
 まるで、母親のように。
 まるで、縋りつくように。

 そんな日々が、どれ位繰り返されたのだろう。響貴には、時間の感覚が全くなかった。それが、一週間だったのか、一ヶ月だったのか。思い返そうとしても、記憶は混乱するばかりだ。だから、坂倉が現れなくて不審に思ったときも、一体どれくらい坂倉が部屋に帰っていないのか分からなかった。気付いたら、静寂だった。どれだけ待っても、それだけが自分を包んでいた。
 ぞくりと、する。
 捨てられた――と思うことさえ怖くて、思考を言語化することを拒否しつづける。その一方で、このまま眠っていれば、永遠に目覚めずにすむかもしれないと思うと、安堵したりした。シーツに触れる肌が、寒かった。このまま、このまま、眠ってしまおうか。
 ふとそう思ったときに、ドアを開ける音がして、響貴はほっとする。でも、ドアを開けて入ってきたのは、響貴が待っていたその人ではなかった。
「あいつをどうしたっ」
 嫌に冷静な顔を見ながら、響貴は思わずそう叫びながら、食ってかかろうとした。でも、自由にならない手が、それを引き止める。その痛みに、響貴は顔を歪めた。
「まるで、ご自分のもののような言い方ですね。そんな格好をして、嵌められたのはあの男のほうですか」
 佐々原は、そう口だけで笑った。それからゆっくりと、響貴を舐めまわすように見た。突然起き上がったために、掛かっていたシーツが落ちている。
「それは、気の毒に」
 言いながら、ぎしりとベッドに乗り、響貴の腕の拘束を解いた。響貴には抵抗する術がなかったが、それでもそれを嫌がるように首を振り、足で佐々原を蹴った。
 離されてしまう。坂倉との繋がりが、なくなってしまう。ここにいる理由が、なくなってしまう。
「そんなに、あの男が良かったのですか」
 言いながら、佐々原がするりと解かれた腕を撫でると、響貴が勢い良くその手を払った。それから、隣の壁をじっと睨みつける。
 まだきっと、響貴が記憶もないような幼い頃に初めて会ったときから、響貴は決して視線を合わせなかった。そして、十数年経った今も、視線を逸らすか、佐々原の背後を見ている。
 決して、合わされはしない視線。存在さえ無視されているようで、佐々原はいつもその視線を嫌った。それを表情に出すことはなくとも。
 確認するように見るのが嫌で、佐々原も響貴を見ずにすませようとしたことはあったが、それは失敗に終わっている。どうしても、吸い込まれるように、意識など関係なく、視線がそこに辿りつく。そして、それは離れようとはしない。
 響貴の手は、ゆっくりと自分の手首を撫でていた。そこはずいぶんと鬱血していて、どす黒くなっている。それでもそこを、響貴は痛いというより、愛しいもののように撫でていた。
「殺しはしませんが……」
 佐々原が、その響貴の腕を掴む。それから引きずるように立たせた。でも、しばらく立っていなかった響貴は、そのまま床に崩れた。だらりと掴んだ手首に、くっきりとつく、縄の跡。それを冷ややかに見下ろしながら、佐々原は呟くように言った。
「殺されたほうが良かったかもしれませんね」
 響貴が、腕を払う。力の加減がわからなくて、あっさりと離されたそれは、ベッドにぼんっと跳ね返る。
「やめろ」
 なんとか立ち上がろうと、そのベッドを支えにしながら、響貴がうめくように言った。佐々原はそれを、小さく笑った。響貴が、睨むように自分を見ていたからだ。
「やめさせろっ」
 きっと、初めて自分を視界に入れたのではないだろうか。これほどはっきりと。
「やめろーっ」
 そう襟首を掴まれる。佐々原はそれさえも笑った。
 響貴が自ら触れたのも、これが初めてだ。
「誰のことを言っているのです?都住響は、そんな人間には会っていない」
 それが、自分のことではないことを、響貴は分かっていた。
 都住響貴は、決して都住響貴にはなれない。
 存在しない、人間だ。
 だから彼に会った人間も、いるはずがない。
 だって、いないのだから。
 都住響は、ずっとあの屋敷の中、変わらぬ毎日を、過ごしたに違いない。


home モドル 01 02 03 04 05 06 * 08