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06
東の部屋に父親の写真集があるのを見つけたのは、その夜だった。
「ああ、いいだろう?その人の写真、カメラの存在がなくて良いんだよな」
「カメラの存在?」
たとえば、と東は俺の前に座ってぱらりとページを捲る。
そこには、どこかヨーロッパの駅なのか、男の人が一人、じっと線路の先を見詰めている写真があった。曇り空の鈍い色のなか、ぼんやりと。
「カメラと言うか、レンズの存在がないだろ。まるで肉眼で見ているようで、俺みたいに日々カメラに晒されている身としては、ほっとする」
そんな見方もあるのか、と俺は感心した。そう言えば、幼い頃写真を撮られていると気付いて、くるりと振り向くと、いつも笑っている目に出会ったっけ。カメラ越しにではなく、生のままの目で。
「今はどこだっけ?北欧よりもっと北の方に行ってるんだっけ。でももうすぐ帰って来るんだよな」
「え?本当に?」
「なんだーイズル。ファンだったのか?名瀬さんの……」
と言って、はたと東は気付いたらしい。俺の方を振り向いた。
「そうだよ。これは俺の飯のタネ。お買い上げありがとうございました」
ふざけて俺が言うと、なんだよーと東は頭を抱えた。それから、ふいに俺の方を見て、にやりと笑う。
「今度さ、対談しようって話があるんだ。深夜の番組で。その番組知ってる?」
知ってる。東とゲストのひたすらトークだけの番組。好奇心旺盛で、話し上手で聞き上手な部分が素のままの東がいて、俺は好きな番組だ。
「嘘だろおい。止めろよ」
「それも飯のタネ」
「そうだけど、なんか」
恥ずかしい気がする。素の俺を知っている東と、昔からいくら俺が仮面を被っても剥がされてしまう父親とが話すのは。俺のことではないにしても。
「でも帰ってくるのか……ああ、郵便取りに行かないとな」
部屋にも帰って掃除をしなければ。
そう言うと、東が二人暮しだったのか、と呟いた。
そう言えば、実とのことも見ているのに、東は俺に何も聞いてこなかった。進んで話すことでもなくて、俺も何も話していない。いい機会だから、簡単に説明した。
両親が一年前に離婚したこと、実は母親に引き取られたこと、今度その母親は再婚すること。
「というわけで、今は俺と親父の二人暮し。と言ってもこの通り、一人暮らしに近いけど」
「じゃあさ、名瀬さんがまた旅行に出たときには、家に来いよ」
「そうは行かないだろ。大体おまえ芸能人なんだし」
イズル、と低い声で呼ばれて、俺はびくりと身体を震わせた。
「こんなときにそう言うこというのかおまえは」
俺は何も言えずに、俯いた。俺がここに何を望んでいるか東が知っているように、俺は東が俺に何を望んでいるのかわかっていた。だから、東は俺の詳しい事情を聞かないし、俺は東が芸能人だと殊更意識しなかった。ひどく、狭い世界だ。
「イズル、ここにいろよ」
口調は命令口調だったのに、懇願されているようだった。顔を上げると、真剣な、そしてあの縋るような目があって、俺は視線を外してしまう。落とした視線の先に、ぽつんと一つ雪の中に取り残された車の写真があった。空色の車は、降りしきる雪に隠され始めている。
俺は、結局答えられないまま、ぱらりぱらりと、その写真集を捲っていた。
ベランダに並んで置かれている、ぼってりと大きい鉢に植わった草は、風知草というのだと教えてくれたのは東だ。ときどき思いついたように水を上げているようだが、俺は朝起きると、その草に水を遣るのが習慣のようになっていた。
たった二週間。それなのに、俺はここで習慣まで身に付けている。風知草に水を遣り、コーヒーにはこだわっている東のお気に入りコーヒーを落として、朝食を作る。もう何がどこにあるかなど聞かなくてもわかるし、俺が買ってきた調味料が増え、いつも使うカップまで決まっている。
何かを失いたくないなら、何も最初から持たない方がいい。そうやって、必要最低限のもので俺は生きてきたと思う。小さな、あのアパートで十分だったのだ。
東のことを、芸能人なんだから、と言ったのは半分本音だった。ただ遊びに来ているだけにしろ、快適空間を提供されているだけにしろ、痛くない腹を探られるのは東だ。せっかく苦労して保っている外面が、俺のことで壊れる可能性だってある。
それなのに。
夏休み最後の日を明日に控えて、俺は荷物を纏めていた。この後は、バイトに行かなければならない。このバイトも、夏休みが終わっても週末だけやらないか、と誘われていた。店の雰囲気も、バーテンの岸さんもいい人で、俺は少し躊躇してから、頷いた。自分で自由になるお金、というものも、欲しかった。
東には、結局出ることを言わなかった。最初から、夏休みの間、と言ってはいたのだし、世話になっているのは自分なのだから後ろめたさなど感じるのはおかしいが、どことなく、あの東の強気なのに縋るような目を思い出してしまう。
大体の荷物が纏め終わって――と言っても、二週間の荷物だから大したことはない――バイトに行こうと思ったら、東が帰ってきた。不規則な仕事で、こんな風に早く帰ってきてのんびりした後、また仕事に出る、何てこともあったから、俺は別に気にすることなく、おかえり、と声を掛けた。
「仕事終わったのか?それともまた出る?今日は夕飯」
振り返ったら、ドアに凭れて、腕を組んでじっとこっちを見ている東と目が合った。ひどく怒った目で、俺は言葉を飲み込んでしまった。
視線が、荷物に向かっていることがわかって、俺は一気に気まずくなった。それでも気付かない振りをして、部屋を出ようとしたところで腕をつかまれた。
「何?これからバイトなんだ」
そう言っても、東は腕を緩めもせずにじっと一瞬俺を見ると、ぐいっとその腕を引いて、俺をどさりとベッドに転がした。
「ちょっと東」
そのまま肩を掴まれて、足も固定される。真上から見下ろす東の目は静かに怒っているのに、欲望が見えた。
ぞくり、とした。名を呼ぶ声が、震えた。
「ここにいろって言ったよな」
「東、それは後で話そう。俺バイト……」
不意に視界が暗くなって、俺は口を塞がれていた。
荒々しい仕草で口付けられて、抵抗しようと顔を振った途端、舌が入ってきた。それで更に俺は抵抗して、思わず唇を噛んだ。瞬間生臭い血の味が口の中に広がって、東の力が緩んだ。その隙を逃さずに、勢いよく起き上がった俺は、さっきまで作っていた荷物を持って、部屋を飛び出していた。
俺の名を呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まらなかった。
すごく、悔しくて、悲しくて。
ひたすらアパートまでの道を走って帰った俺は、久しぶりに帰った部屋のドアがばたりと閉まると、そこで泣いていた。
ただ、ぼろぼろと。
置いてきてしまったものは、歯ブラシ、パジャマ代わりのTシャツ、そして、俺。
あの部屋に、俺は俺を置いてきてしまった。
そんなことに気付いたのは、暑い日ざしが影を潜め、見上げる空が高くなった、秋になろうとしている頃だった。
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