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一緒に旅をするのに、親父が俺に言ったのは一言だ。
「俺がやるなと言ったことだけは、守れ。あとは好きにしろ」
それは、俺が幼いときや実相手に言っていたことと同じで、思わず笑いが洩れた。どうやら俺は、いつまでもやんちゃな子供のままらしい。
だが、それは俺にしても同じ事だった。俺の中で、親父はいつまでも楽しそうにカメラを構えて、俺たちを撮ってくれる父親だった。振り返ると、いつも笑って手を振っていた。そんな印象だけだった。
「少し休むか?イズル」
獣道と思われる山道を先に立って歩いていた親父が振り返って言った。俺は大きく息を吐いてから、まだ平気、と笑って見せた。
「勉強ばっかりで身体なまってるだろう?疲れたら言えよ。おまえは強がりで負けず嫌いなんだから」
言われて、俺は苦笑した。俺のことをそんな風に言うのは、親父ぐらいなものだ。だが、当っている。
俺は親父の歩いた後を正確になぞりながら、ああもう一人いた、と口元を緩めた。
――負けず嫌いめ。
そう、苦笑しながら俺の耳を引っ張ったのは東だ。ゲームをしたり、テレビのクイズ番組を見たりしているときに、ついムキになるときがある。東は、そんな俺を知っている。ときには東も一緒になって、競ったりする。そうやって、二人で子供みたいに遊ぶのが好きだった。
ほら到着だ、と言われて、俺は顔を上げた。瞬間、眩しさに目を細める。木々の隙間から、眼下に水のきらめきが見えた。
きれいな、湖だった。深い青が、静かにそこにあった。木に手をついてそれを眺めている親父の隣に行くと、赤い鳥居がその青の中に見えた。
「さて、水神様のご機嫌伺いに行くか」
親父はそう言って、ゆっくりと岸に向かって下りていった。俺もそれを真似て、木を頼りに岸に向かった。
湖岸から見る鳥居は、それほど大きくない。だが、静かな湖面に浮かぶような鳥居は、圧倒的な存在感があった。
親父は背中のリュックから小さな日本酒のビンを取り出して、それを湖の中に注ぎいれた。それから、カメラを出して撮影を始めた。俺は荷物を置いて、少し離れた石に坐って、その親父や湖を眺めた。
親父がこれほど真剣な顔をして写真を撮ることを、俺は知らなかった。もっと楽しそうに撮っていると思ったのだ。もちろん、笑いながら撮っているときもある。俺もそうやって、何枚か撮られた。だが、こんなときの親父はただ黙って、ひたすらシャッターを押し続ける。俺がいることさえ、忘れたように。
ああ、カメラマンなのだ、とその顔を見て改めて思った。結果としての作品は見ているが、こうして実際の仕事をしているのを俺は見たことがなかった。
親父について知らないことはいっぱいある。どうしてカメラマンになったのか、母親とどこで会ったのか、鷲見さんとどこで会ったのか。この旅の間に、親父はそう言ったことを少しずつ話してくれた。
親父はすぐにカメラマンを始めたのかと思っていたが、大学を卒業してからしばらくは、サラリーマンをしていたのだと言う。それでも写真を忘れられず、何度か職を転々とした。その間、ずっと親父を支えていたのが、俺の母親だったのだ。
母親の話をしているときの親父を俺は、いつも不思議な思いで眺めている。親父は離婚届に、何も言わずに判を押した。だが、その元妻になる俺の母親の話をしているとき、親父はどこか幸せそうな顔をしている。もう、他人のものだというのに。
今でも好きなのか、俺は訊けないでいる。父親に向かってそう訊くのはどこか気恥ずかしい思いもあるし、どこか、残酷な問いであるとも思っていた。
その話をしているとき、親父は何度か咳払いをしてから、俺に将来のことを訊いてきた。どうやら急に、自分が父親であることを思い出したらしかった。
「それが、わからないんだよな」
進路希望は、面倒だから適当な大学の名前を書いて出してある。だが、何をしたいのかと訊かれても、明確な答えはなかった。
「まあ、焦る必要はないだろ。俺みたいな例もあるわけだし」
親父はそう言って笑った。昔から、何をするにも急かす人ではなかった。
「大学は、行きたいなら行け。そこで何かを見つけるのも良いだろう」
それから、そう付け足した。金のことは考えるなよ、俺が情けなくなるから、と笑って。
金銭面の問題は、確かにある。だが、親父のこの定期的な仕事と、他にも請け負っているいくつかの仕事、それに今まで溜めてきた貯金でなんとかなると俺は思っている。もちろん、授業料の高い大学は無理だとしても。
「大学で見つからなかったら、その後探せばいい。……ずっと探しつづけるのも、いい」
親父のそのいい加減とも言える言い草に、俺は苦笑した。それから、確かにゆっくり探すのもいいかもしれない、と考えた。
静かな山の中、親父の押すシャッターの音だけが響く。風もなく、ひどく穏やかな日だった。
親父と同じ真剣な顔を、俺は以前にも見たことがある。東が、台本を読んでいるときだ。
最初の頃は、俺がいるときに仕事をすることを東は避けていた。だが、長い間一緒にいたいと思えば、仕事をしないわけにもいかないし、俺も勉強をしなければならないときもある。自然、そういう時間が必要なときは、無理に避けないことになった。
白状すれば、俺は台本を読んでいるときの東を見るのが好きだった。集中して研ぎ澄まされている顔は、惚れ惚れする。
結局、東のことばかり考えているな、と俺は自分が可笑しかった。
いつか全てが、思い出に変わることがあるのだろうか。切なかったり哀しかったりするのではなく、ただ懐かしいと思うだけの、思い出に。
「イズル、おまえも来い。冷たくて気持ちが良いぞ」
顔を上げると、親父が裸足になって湖に入っていた。嬉しそうに手を振って俺を呼んでいるところなど、全く子供みたいだ。
俺は笑いながら立ち上がって、靴も靴下も脱いだ。それからジーンズの裾を捲くって、湖に向かった。
いつか東と来たい。
ふとそう思った自分を馬鹿だと、思いながら。
一ヶ月の撮影旅行は、思ったよりハードだった。親父は俺がいるからといって、自分のペースを緩めたりしない。もちろん、俺は助手にもならないのだから、それについて文句はなかった。ただこうして、一緒に旅が出来たことは、良かったと思っている。将来について、ゆっくり考えようと思えただけでも気持ちはとてもすっきりした。
東のことも、ゆっくり気持ちの整理をつけていこうと思った。一方的だった自覚はあるから、いつかきちんと話をできたらいい。そう、思っていた。
久しぶりに自分が住む街に着いたとき、コンビニ弁当でいいから家で食べたい、と言った親父の言葉に、俺も賛成した。ものすごく家や温かい手作りの食事が恋しくて、結局俺は簡単な食事を作ることにした。
冷蔵庫に何もないことはわかっていたから、俺は荷物だけ家に置くと、買い物に出た。たったひと月だと言うのに、どこか懐かしく感じたり、新しいものを見つけたりと、道を歩くのも楽しかった。オレンジ色が鮮やかな、のうぜんかずらの花がブロック塀に垂れている。電柱には犬を捜している張り紙があった。ちらりと見たところによれば、白い子犬の写真だった。
身体は疲れていたのに、気分は昂揚していた。色々なことを、新しく始められるような錯覚をした。
手の凝ったものを作る気はなかったから、俺は近くのスーパーで適当な惣菜と豆腐と葱を買った。水の近くにばかり行ったせいか、都市はことさら暑いと感じた。俺は缶ビールも二本、買い物かごに入れた。
親父はまたすぐ旅に出る。俺は鷲見さんのところでバイトもしながら、一か月分の勉強の遅れを取り戻そうと思った。近場の大学に行こうと、旅行中に決めたのだ。親父は別に引っ越してもいいと言ったが、あの部屋は俺が産まれたときからいる。離れがたかった。
東と物理的に完全に離れる――そのことに惹かれなかったといえば嘘だ。そうしたら、もっと早くに諦められる。忘れられる。そう、思わないでもなかった。
でも、忘れるなんてことが、できるんだろうか。
静かな住宅街の道を歩きながら、俺は小さくため息をついた。電車の中から見えた、新しい車の宣伝ポスター。そこに車に寄りかかって遠くを見ている東を見つけたとき、俺はまだ、少しも落ち着いていない自分を知った。山間部の、人里離れたところばかりにいたときは、テレビも雑誌もなかった。だから、もう少し、俺も東のことを穏やかに考えられたのだ。こうして姿を見てしまえば、どうしても胸はざわついた。
ただ、こうして東が活躍していることは、嬉しかった。俺といるときはただの「東」だとしても、この藤原東もその一部なのだ。それはやはり、大切なことだった。
家のことは、もう少し考えてもいい。そもそも、大学が受からなければ考えても仕方がないことだ。そう思いながら帰ると、玄関に見慣れない靴があった。俺は廊下に袋を置いて、声を掛けてから、顔を上げた。
目が、合った。東が、いた。
あずま、と勝手に口が動いた。
どうして――どうして、ここに東がいるんだ?
ぐるぐると、頭の中が回っていた。訳がわからないまま、鼻がつんとした。
「なんで、ここにいるんだ?」
「……会いに来た」
「出て行けよ」
急に怖くなって、俺は叫んでいた。
「イズル……」
「名前を呼ぶなっ。二度と、顔を見せるなっ」
駄目だと思った。やっぱり、顔なんて見たら駄目だと思った。名前なんて呼ばれたら、抱きついてしまいそうだった。
怖かった。何もかもが、溢れてしまいそうで。
だから俺は、駆け出した。手を伸ばしてしまう前に、逃げ出した。
東が俺の名を叫んだ。
それを聞いてはいけないと、俺は耳を塞いで、とにかく走った。
自分が泣いていることに気付いたのは、息苦しさに堪らなくなって、立ち止まったときだった。手をついた電柱の、張り紙の中の子犬が、ぼやけて見えた。
「ごめん、東」
言葉は、ただ自然に、零れ落ちた。
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