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君を愛する理由(わけ)などいらない。
05
「どうしたのそれ」
あきれ返った声で左頬を指差す智耶子に、この人にだけは訳など話したくない、と真崎は無理やり笑って見せた。
「ちょっと転んで、って言うのがこういうときの常識的な言い訳なんじゃないの?」
どこにそんな常識があるのか真崎自身わからなかったが、誰かに会うたびに聞かれては、そう答えていた。どうせ真崎のことだから、女か男の恋愛がらみだろうと、勝手にみんな推測しているらしかった。それに、それは間違っていない。
「藤川?」
智耶子の問いかけには、笑って答えなかった。きっともう分っているのだろうが、詳細を話すような羽目だけにはなりたくない。
「痛むの?」
「大したことない」
二人が立っている大学の校門横には、大きな欅があった。そこから、ひらひらと紅葉した葉が落ちてきて、智耶子の肩に落ちた。
実際、腫れた頬は痛くなどなかった。それよりも、藤川を傷つけただろう自分が情けなかった。その前に自分を傷つけたのも藤川だが、それをあんな形で返す必要はなかったのだ。だいたい、藤川は無邪気なだけだ。智耶子が好きだと言う、ただその一点において。
「爆発しちゃった?」
ふいに呟かれて真崎が顔を上げると、智耶子が心配そうな、困ったような、笑っているような奇妙な表情をして自分を見ていた。
「私があの部屋を出るとき言ったこと、覚えてる?」
智耶子の言っていることがわからなくて、真崎は首を振った。喋ると少し、頬が痛むのだ。
あのときのことで覚えていることといったら、「たとえチャコが悪くても、チャコのことを殴れるわけがない」と言った藤川のセリフだ。だから、真崎を殴らせろと言った、あの藤川。
「私ね、藤川のことは決して嫌いになったわけじゃないのよ。たぶん、わかってると思うけど。だからね、あの部屋を出るのは正直淋しかったの。藤川が言うように、とても幸せだったから」
真崎はすらりと立った智耶子を、見つめた。ときどき、智耶子がひどく憎らしくなる。あれだけ藤川に愛されて、どうして不満があるのだろう。
「でも、愛情のバランスが取れていない二人が一緒に住むのは、不自然だって言ったの」
藤川の愛情と、智耶子の愛情は決して相容れない。それは、真崎にもわかるだろう、と智耶子は思った。
「愛情のバランス、ね」
藤川が自分に対して、愛情なんてものを持っているのかも怪しいと真崎は思っていた。そんな葛藤さえ、ないのだ。
「辛いでしょう?」
真崎と智耶子の立場は逆だが、相手が同じと言う点で、智耶子にはその辛さがわかる。あの完結してしまっているような藤川の世界は、共有しない限りとても居心地が悪いと智耶子は知っている。
「智耶子サンには、頷けない」
辛いと言えたら、どれだけいいだろうと思ったが、その点で智耶子に弱音を吐こうとは真崎は思わない。ただ、辛くてもあの場所を手放すべきではないと、真崎は思っていた。
「慰めさせてもくれないわけ」
「智耶子サンに?冗談」
それなら、自分の前でそんな弱い顔をしないで欲しい、と智耶子は思った。抱き締めて、頭を撫でてあげられたらどれだけ良いだろう。そんな風に、思わせないで欲しい。
誰かを待っていたのか、校門前に車が止まると、真崎は智耶子に手を挙げてその車に向かっていった。智耶子は、取り残されたように一人その車を見送って、「あーあ」と大きくため息を吐いてみた。
藤川の週一度の我侭は、大抵音楽を聴くことだった。特に何もないときは、音楽と決めているようだった。
それが、もうすっかり冬になった頃のその週の我侭は「料理を作って欲しい」だった。
「何を今更」
真崎はそう呆れたように笑った。実際、朝は比較的早起きの藤川が(と言ってもコーヒーを淹れてトーストを焼くだけなのだが)、夜は真崎が料理をすることが多かった。智耶子といたときは、どうやら外食か店屋物が多かったらしく、それでときどき、健康に悪いと野菜を大量に取ってみたりしたのだそうだ。
「あとはアイスとか」
その藤川の言葉に、真崎は冷凍庫にぎっしり詰まったアイスを思い浮かべた。真崎は、あれを食事とは呼べない。
「いや、寒くなって来たし、鍋が食べたいと思って」
そう言えば、もうそんな季節なのか、と真崎はカレンダーに視線を走らせた。同居を始めて、もう三ヶ月が経つ。
よくもってるな、と真崎は思う。ときどき、知りもしないのにひどく藤川を欲しくなって、最近では男友達のところに逃げ込むようにもなっていた。そう言う噂には疎いくせに、どこで聞いたのか藤川も知っていて、友達っていうのかそれを、と不思議そうに言っていた。
智耶子のことで喧嘩してから、二人の間でセックスの話題はタブーのようになっていた。真崎がどこかに泊まってきても、女を連れ込んでも、(ときには男を連れ込んでも)藤川は何も言わない。そのほうがどれだけきついか、と真崎は思う。気だるい身体を引きずってシャワーを浴びようとリビングを通るとき、藤川がぼんやりとテレビなど見ているのが目に入ると、気まずいと言うより、強烈な孤独のようなものを感じてしまう。いっそうのこと、なんとでも罵ってくれたら、その方が余程いい。
「なあ、駄目?」
藤川は無邪気に真崎の目をみつめる。きっと誰に対してもそうなのだろうが、藤川は目を逸らして話すことはない。
「いいよ、何鍋がいいんだよ」
「うーん……それは任せる」
藤川はそう言いながら、キムチもいいし、水炊きもいいかもなあ、いっそ闇鍋とか、いやそれはもったいない、などと一人ぶつぶつ考えている。
真崎は明日にでも材料買うから、朝まで考えてろ、と苦笑した。
「それで、どうして智耶子サンが来るんだ?」
結局海鮮づくしの鍋にしよう、ということになって、海老や鮭やたらや帆立とともに野菜もたっぷり買い込んできた真崎がその下準備に格闘していると、来客を告げるチャイムが鳴った。藤川が「あ、来た」と言っているのが聞こえて、真崎は珍しいこともあると思っていた。基本的に、藤川はあまり友達がいない。智耶子にかかりきっていたからなのだが、部屋に来る友人など皆無に等しかったのだ。
「お呼ばれしたからよ」
ざっくりと編まれた黒のハイネックのセーターの上で、智耶子はにっこりと笑った。真崎が呆れて藤川を見ると、気にした風もなく、テーブルの用意を始めている。
「やあね。藤川ってば真崎に言わなかったの?」
「あ、忘れてた。いや、鍋って言ったらチャコだよなって、思って」
それはどう言う論拠だと思ったが、聞くだけバカバカしい気がして、真崎は盛大にため息をついた。呼ぶほうも呼ぶほうだが、来る智耶子も智耶子だ。
「なんだかとっても美味しそうね」
そんな風に、どうして無邪気に言えるのかわからない。
「なんだよ、別にいいじゃん。どうせおまえとチャコなんてしょっちゅう会ってるんだろ?」
さらりとそんなことを言う藤川の気持ちも、わからない。悪意も、皮肉も感じられない口調に、真崎は途方にくれるしかない。
智耶子の鍋における役割は、「盛り付け係」だった。智耶子にしてはかいがいしく、藤川の取り皿に出来た海老や鮭の切り身や、白菜やしいたけやスープなどを取り分ける。それが、唯一智耶子が藤川にかいがいしく世話を焼くときなのだそうだ。
「だからって、呼ぶ?その上、呼ばれて、来る?」
日本酒を自棄になって飲みながら、真崎はすぐ横で丸くなって寝入っている藤川を見た。「美味い」を連発して、藤川は良く食べた。大学の話や、芸能話、ときには二人の専門分野の話で、真崎と藤川だけで盛り上がったときもあった。そんなときも、智耶子はにこにこ笑いながら、藤川のお皿にタイミングよく魚や野菜を盛り付けていた。
「だってね、鍋やるから来てくれる?って藤川に頼まれたら、行くって言うしかないじゃない」
鍋の残りで作ったおかゆをふーふーと吹きながら、智耶子はそう言った。
「こいつ、状況わかってるのかな」
「わかってるんじゃない?多分、藤川が一番はっきりしてる」
智耶子は飲み口に向かって少しだけ広がったコップに日本酒を注ぐと、こくりとそれを飲んだ。
「はっきりしてる?」
「そう。他のことはどうでもいいの。自分の気持ちだけで」
智耶子の藤川を見る目は優しい。でもそれは、姉が可愛い弟を見るような、母親が息子を見るような目で、真崎は複雑な気持ちを持て余した。
「その好きな女の子を、男と二人放っておいて寝ちゃうのに?」
「だから、他のことはどうでもいいのよ。付き合ってた当時ならともかく、今は私から離れちゃったでしょう?その今大事なのは、自分の気持ちだけなのよ。私を好きなんだって気持ちだけで、藤川は満足してる」
満足、とは少し違うのかもしれないが、それだけで藤川はとりあえず幸せなのかもしれない、と真崎は思った。自分のように、振り向いて欲しいとか、セックスしたいとか、そんな悩みは二の次で、自分の気持ちだけでそこに立っているのだ。
「そういうところ、ときどき羨ましくなるわ」
智耶子はそう言って、小さくため息をついた。
真崎がじっと藤川を見ている。その目はいつも切なくて、そしてどこか優しい。自分がどんな目を、表情をしているのかなんて、きっと真崎は考えていない。その無意識さが、智耶子はときどき、とても恨めしくなるのだった。
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