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君を愛する理由(わけ)などいらない。

06
 藤川と智耶子が付き合うことになったとき、当時の高校の同級生達は、一様に首を傾げていた。智耶子は、三年の先輩からも告白されたり、他校の生徒と付き合ったりもしていたから、なぜ「平凡」な藤川と付き合うのか、わからないと言うのだった。
「ほだされたのよ」
 とは、智耶子の周りの友達の言葉で、それが最もみんなを納得させていたようだった。
 でも、本当は違う、と智耶子は知っている。
 確かに、藤川は入学当初から智耶子のことが好きだった。格別行動を起こしたわけではないのだが、端から見ているとかなりはっきりした態度で、智耶子を好きだと全身で訴えているのがわかった。ただ、藤川本人は、秘めた恋だったのだと、未だに信じている。
 そうやって、全身全霊で愛されたことがないから、ほだされたなどと言うのだ、と智耶子は思う。藤川といると、何者からも拒絶されない安心感があった。最後の最後、この人だけはきっと自分を信じてくれる、という安心感。自分や社会といったものを考え始めた高校時代には、その藤川の安心感は、智耶子にとって何ものにも変えがたいものだった。
「でも、そう言うのは愛し合ってた、とは言わないんじゃないかなあ」
 そう言ったのは、この間のお見合い相手だ。一度断ったのだが、商売上もプラスになるし、野望もあるんです、飲み仲間ぐらいにはなりませんか、と言われたのだ。そのはっきりした物言いに智耶子も好感を抱いて、今はときどき一緒に飲みに行く。
 大学からの帰り道、真っ直ぐ家に帰る気になれずにふらふらと街を歩いていると、クリスマスが近いことに智耶子は気付いた。プレゼント、の大きな文字が溢れかえっている。
 何か物として残るようなものはいらない。そんなのはいつか壊れてしまうから、壊れないものが欲しい。
 そう言って、手を繋いで街を歩いたのは、二人で過ごした最初のクリスマスだ。自分で言ったくせに恥ずかしがって、寒いね、ばかりを連発していた藤川はそれでも、握った手を離そうとはしなかった。
 愛し合っていた、と智耶子は思う。あれを恋だと言わないなら、なんと言うのか智耶子にはわからない。チャコ、と呼ぶ藤川の声にも、掠めるようにされたキスにも、普段からは思いもつかないような、情熱的な愛され方にも、蕩けるような気分だった。
「智耶子サンは贅沢なんだよ」
 と言った、真崎の声を思い出した。そうなのだろう、と智耶子も思う。適量の愛が欲しいなんて、贅沢で、ずるい。
 軽やかなクリスマスソングが、どこからか聞こえてきた。どうして、幸せな二人のための、幸せな行事があるんだろう、と藤川が言ったことがあった。クリスマスなんていらないくらい、毎日が幸せな日々なのに。
 そのときは、そうねえ、と微笑んだ智耶子は、今なら答えがわかると思った。淋しい人には、どんなイベントも淋しいのだ。そんなものがあるならあるだけ、もっと淋しくなるのだ。
 藤川に会いたい、と智耶子は思った。
 チャコ、とあの独特の、甘さと艶の入り混じった声を聞きたい。
 真っ直ぐに、自分だけを見詰める瞳を、見たい。
 はあっと吐いた息は、白くあたりに漂った。この冷たい手を、温めて欲しい、と思った。


 最悪な状況と言うのは、免れないものなのだろうか、と真崎は天を仰いだ。天井の奇妙に繋がった模様を、なんとなく辿ってみる。ぐるぐると、出口のない迷路のようだ、と真崎は思った。
 艶やかな声も、湿った音も、自分の良く知ったもので、どれだけ想像力を働かせてみても、二人が何をしているかなど、明白だった。
 どうして、とか、怒鳴り込んでやろう、とか、ぐるぐると言葉は頭の中で回るだけで、真崎は一歩も動けずにいた。ギシギシと鳴るベッドに、大の男二人が寝てもびくともしないのに、などと思った。それから、一番良いのは、とふと思いつく。
 一番良いのは、逃げてしまうことだ。
 そう思ったら、真崎は脱いだコートを再び持つこともせず、外に飛び出していた。走りながら、買い物袋の中の、冷蔵庫や冷凍庫に仕舞うべきものが頭を掠める。最中のアイスも、安くて思わず手を出したカマンベールも、肉も魚も、そんなものは、もうどうでもいいのに、そんなことばかりが思い出されて、可笑しかった。
 結局、自分はあそこに帰るのだろう、と思うと、真崎は走っていた足を止めて、大きく息を継いだ。今夜はどこかに泊まっても、明日も明後日も、ずっとどこかをまた点々とする日々を送ったとしても、いつもきっとその買い物袋の中身を、冷蔵庫の中身を、気にするのだ。
 自分があの場所にいる一番の意味が、そこにしか見えないからだ。栄養が偏ったコンビニ弁当でも店屋物でも外食でも、とにかく食べればいいという藤川の心配をするのが、もう、一つの仕事のようになっているからだ。自分の作るものを、本気で美味しいと言って藤川が食べているときだけ、そこにいることを許されている気がするからだ。
 一服して、そうしたら帰ろう、と真崎は思った。藤川の好きなから揚げのマリネを作って、ワインでも飲んで、寝てしまおう。明日になれば、今日のことなんて、過去になる。過去は変えられないから、諦めるしかない。だから、今日のことは考えずに、ぐっすり眠ってしまおう。
 ゆっくりと煙草を一本吸い終わってから、行きの勢いとは反対にのんびりとした足取りでアパートに向かった真崎は、その前に見知った影を見つけて、ふと立ち止まった。すっかり暗くなった冬の夜に、白い息がふわりと漂った。
「コートも着ないで出て行っただろ。風邪ひくぞ」
 うー寒い、と言いながら、藤川はほらっと真崎にコートを投げた。藤川に抱きかかえられていた部分だけが、ほんのりと暖かい。
 真崎が動けずにいると、寒いから早く中に入ろう、と藤川が足踏みをした。
「何やってんだよ。寒いし、俺は腹も減ってる。この両方が一緒って言うのは、一番惨めな気分になるんだぞ」
 早く、と急かされて、真崎はようやく歩き出した。どうして、と思う。
「どうして、俺の心配なんかするんだよ」
「おまえがコートを着ていかないからだ」
「そうじゃないだろ……まあ、いいけど」
 藤川の論点がずれるのは今に始まったことではない。それを本人がわかっていない辺りが苦笑を誘うのだが、今は明確な理由などいらないと思った。
「まあいいってなんだよ。ったく。鼻真っ赤だぞ。おまえ絶対風邪ひく」
 カンカンと階段を上がって、ドアの前に立ってようやく、真崎は気になっていたことを聞いた。
「……智耶子サンは?」
「ん?帰ったよ」
 さらりとそう言って、藤川は他には何も言わずに、部屋に入った。買い物袋の中身は、とりあえず冷蔵冷凍の必要なものだけ、仕舞われていた。
「なあ、ラーメンでも出前を取ろう。その間に、おまえは風呂に入って来い」
 藤川はそう言って、電話帳を取り出すと坐ってそれを眺めだした。どうして、とまた真崎は思う。
「俺が帰ってこなかったらどうするつもりだったんだ?」
「さあ?でも帰って来ただろ。よし、四川風ラーメンにしよう」
 餃子も取ろうな、おまえもそれでいい?と振り返らずに言う藤川を、真崎は立ったままじっと見下ろした。
「何も言わないんだな」
「何が?」
「言い訳も、何もない?」
「言い訳?どこにそんなもんが必要なんだ」
 その通りだ、と真崎は思った。言い訳なんて、あるはずがない。
「よりが戻ったのか?」
「違うよ」
 あっさりと、でもきっぱりした口調で藤川はそう言って、ふいにくるりと振り返るとじっと真崎を見た。
「智耶子は淋しかったんだ。それだけだよ」
「だから、抱いたって言うのか?」
 そう、と頷いた藤川に、真崎は掴みかかった。きっちりと閉められた藤川の部屋のドアが、ちらりと視界の隅に入った。あのとき、どうして逃げてしまったのだろう、と思う。
「あいつはおまえを捨てたんだぞ?それなのに、都合のいいときだけ甘えてきて、それでいいのか?」
 ごんっと音がして、藤川が床に頭をぶつけた。それを気にもせず、その肩を押さえつけて、真崎は怒鳴った。
「いいように利用されてるだけじゃないか。おまえの気持ちを知ってて、それを利用してるだけじゃないか」
 真崎、と言った藤川の声が響いた。決して大きな声ではなかったのに、しんと響いた。
 そんなことはみんなわかっている、と藤川は言うのだろう。それでも自分も智耶子を抱きたいのだから、それでいいと藤川なら言う。結局、と真崎はぎりっと歯を食いしばった。
 結局、二人の間には入れないのだ。自分は智耶子にはなれない。そして、藤川は智耶子以外はいらないというのだ。たとえ、自分を愛してくれなくても。真崎がどれだけ、藤川を思ってみても。
「真崎」
 そっと肩の上の手首を掴まれて、真崎はその温かさにその手首に視線を移した。
「おまえ、やっぱり冷え切ってる。お湯は張ってあるから、はやく入って来い」
 静かで穏やかな藤川の声は、真崎を責める風でも咎める風でもなかった。そっと握られた手首だけが、とても温かくて、真崎はただ頷いていた。

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