サイレント・ノイズ 第二話
――偽リノ夜――
01
恋は、いつでも遊びだった。
胸元に柔らかな髪の毛を感じて、ラルフは目を開けた。引きずられるように眠りに落ちてから、まだ二、三時間しか経っていないのに起きてしまったのは、窓にカーテンもブラインドもないせいだ。そとから部屋の中が見えるのは、落ち着かない。
その上、自分の部屋以外で、ラルフはあまり熟睡できない。一人でないときは、なおさら。
ラルフは毛布をずりあげて、自分の胸に顔を寄せて眠っている男の髪に顔を埋めた。ほのかに、甘いシャンプーの匂いがする。それはひどく呼吸を穏やかにしてくれて、微笑みながらラルフはまどろみを楽しんだ。
昨晩の相手、今ここで眠る男は、ひどく上物だった。仕立てのいいスーツに、端整な顔立ち。触れれば切れそうな美貌は、泣かせるにはうってつけだ。背はラルフと同じくらいだろうが、しなやかな四肢はラルフを十分満足させた。
期待を裏切らない冷酷な口調も、ラルフの気に入った。同じ声で、甘く泣かせるのが、ラルフの楽しみとなったのだ。
言い寄る輩を、片っ端から断っていた。どうやら新顔だったようで、何人もの男が誘いをかけていたが、誰一人成功することなく、冷めた顔のまま、グラスだけをずいぶんと速いスピードで空けていた。
不味そうな酒だと、ラルフは二つ隣の席で苦笑した。ラルフにとってはちょうどいい余興で、いい酒の肴だった。
「一人でゆっくり飲みたいなら、こんなところに来るもんじゃない」
一区切りつくと、憂いた顔でため息をつくのが聞こえて、ラルフは掛けるつもりのなかった声を掛けた。男があまりにも退屈そうで、うるさそうに言い寄る輩を追い払っていたからだ。
「酒が不味くなる」
反発されることをわかっていて、ラルフはそう笑った。ラルフの人の神経を逆撫でるような言動は、癖とも趣味とも言える。
「ここはバーだろう?売春宿じゃない」
「でも、ここは大人の遊び場なんだ。後腐れのない夜を過ごすためのさ。知らずに入ってきたなら、場所を変えたほうがいい。駆け引きも楽しめない子供が来るところじゃないよ」
ラルフがそう言うと、男がゆっくりと笑った。ずっと笑わなかった男の笑顔は、ひどく艶やかで、ラルフは思わず目を細めた。
「賭け引きねぇ……」
男がそう言いながら顔を上げて、初めて目線が合って、男の瞳が漆黒だと分かった。その黒い瞳の中、バーの柔らかい光が揺れている。少し線が細く、色が白い。半分ぐらいは日本人の血が混ざっているだろうか。
「半分成功、半分失敗かな……。俺の駆け引きは」
「え?」
「あなたに声を掛けて欲しいと思っていたんだ。――もっと、色っぽいセリフでね」
ずいぶんとノリの良い男だと、ラルフは笑った。そんなこと、思ってもいなかっただろう。ただラルフとのやり取りに、合わせただけだ。
「負けず嫌いだな。気に入った。来いよ。ホテルに泊まっているんだ。静かに飲める」
この時、二人とも「まぁいいか」と思っていた。
きっかけは、そんな風にいいかげんで、偶然だった。
「あれだけ飲んで、元気だな……」
ゆっくりと男のものを手に包み込んで耳元でそう囁くと、熱いため息が吐き出された。長い手が、自分を後ろから攻めるラルフの首に巻かれる。そのまま、「もっと……」とねだられて、ラルフは腰に手を当てると、背骨を唇で辿りながら、ゆっくりと持ち上げた。
「んっ……」
やわらかな刺激に、背筋を震わせる。その反応に思わずくっと笑ったラルフのその刺激にさえ、熱く喘いだ。ラルフを逃がさないように、男の中がやわらかく収縮する。
たまらないな、とラルフは苦笑した。気が遠くなるほど、気持ちがいい。
――夢中になりそうだ。
「早……く……」
声は甘いのに、媚びるというより、命令されている気がする。この男は、ひどく征服欲を誘うのが上手い。
まるで高級男娼のように、艶かしく誘うと思えば、自分の欲求どおりに抱くことを要求したりする。口では何も言わないが、目と手で従わそうとするのだ。
だから、焦らしたくなる。
「ん……はあっ……」
引き上げた腰を思い切り落とすと、高い声を上げた。それから間をおかずに何度も突き上げると、身体を前に倒しながらあられもない声を上げつづける。抱き起こしてやると、自らも腰を使って、細い身体を揺らした。細いと言っても、筋肉質だ。一体何をやっている人間なのか、とふと思って、ラルフはその考えを投げ捨てる。
こんな行きずりの関係は、何も知らない方が良い。
ただ、快楽だけを貪れれば。
何も、所有するわけにはいかない。
「何を考えてる」
寝ているのかと思ったら、胸元で声がした。じっとしていたのに、起きている気配を感じ取ったのだろうか。
「いや……気持ちよかったなーと……」
「ふん、くだらない」
昨晩の乱れようが嘘のように、男は冷たくそう言ってもぞりと動いた。起き上がろうとしたが、身体は言うことをきかないらしい。一つ小さくため息をつくと、天井を見上げた。昨日あれだけやったのだから、無理もない。
「雨だ……」
天井を見ていたのかと思ったら、男はふとそう呟いた。ラルフが少し頭を上げて窓から外を見ると、確かに細かな雨が降っていた。
「ちゃんと明るいんだな」
「え?」
「雨の光だよ。国はそんなことまでちゃんと再現してるのか」
最後の方は呟くようにラルフがそう言ったのを、男は不思議そうに眺めた。
故郷は、よく雨の降るところだったと聞いている。もちろんラルフは行ったことはないが、祖父や曽祖父の思い出話をまるで自分が体験したかのように、父が話すことが多かったのだ。
「あぁ……確かに雨の明かりだけでも外は見えるもんだな。月もないのに」
さわさわと、雨の音が響いていた。雨が降ると落ち着くのは、自分の知らない故郷を、どこか思い出すからだろうか。もう、決して帰ることの出来ない、場所。
まるで罪悪感を拭うように、国は不自然な自然を作り出す。偽の太陽、偽の月。こんな風に降る雨は、必ず予告される。余興のために、雪さえも降らすことがある。――万年春の、この国に。
そういうことが、ラルフは嫌いだった。いっそうのこと、このカプセルから出て、本物の空を見て死んだほうがいい気がしてくる。
たとえそこが絶望の世界でも、何も、なくても。
真実はそこに、ある気がする。
探しているものが、そこに。
もぞりと動いた気配がしたが、ラルフは寝ている振りをした。こんなときは、声を掛けない。後腐れなく遊ぶための、暗黙の了解だった。
内心、よく動けるものだと感心していた。昨晩の戯れは、あまりに激しすぎた。あの細腰で、よく立てる。やはりあの筋肉は飾りものではないのだと、昨日の硬い肉の感触を思い出す。
シャワーも浴びて、身支度をする音が微かに部屋に響いていた。雨はすっかり上がり、太陽光が部屋に差し込んでいる。
雨が上がるのは、あたりまえ。余程のことがない限り、雨は夜にしか降らさないのだ。
「あぁ、朱理だ。いや、家じゃない。西区だ。あぁ、すぐ行くよ」
高く小さな音がして、男が話すのが聞こえた。通信でも入ったのだろう。話しながら、ドアを閉める音がした。部屋は再び、静寂に包まれる。ベッドに起き上がると、白々しい朝の光が、部屋を満たしていた。人工だからよけいなのか、その光に囲まれると、取り残されたような気がした。
「……シュリ……」
先刻男が呟いた名を、反芻する。いつもなら、聞かなかった振りをするのに、その名はラルフの記憶に刻み込まれた。
それが少し苦々しいのは、その名がいかにも、日本人の名に聞こえることだった。